私とオモダカさんがパルデア地方に戻って来た時には、すっかり夜が更けてしまっていた。

今回の視察は実に有意義なものだった、と。貴女に同行を頼んで本当に良かったとオモダカさんに改めて言って貰えた事が何より嬉しかった。

本日はそのまま直帰してくださいと言われたものの何となく帰る気になれず、夜も遅かったけれどリーグに足を運んだ。
それこそ確信なんてなかったが、何となくチリちゃんに会えそうな気がして。
出発前のあの惨状を目の当たりにしてしまったばかりに、気掛かりで仕方がなかったのだ。
執務室のドアを開けると同時にモンスターボールが飛んで来ない事を祈るばかりだけれど――まあ、さすがにそれはないか。

執務室へ続く廊下を歩く。
とうに就業時間を過ぎたリーグ内は非常灯と自動販売機の灯ぐらいしか点いておらず、薄暗い。
私が歩く靴音が響くだけで、辺りは随分と静まり返っていた。
流石に、チリちゃんももう帰ってしまっているだろうか?
それでも一応覗いてみようと彼女の執務室まで行き至ると、ドアの下の隙間から僅かに明かりが漏れ出ている。
チリちゃんは、やっぱり残業していたらしい。
普段から仕事量の多い彼女の事だから、もしかして……と、思っていたのだ。
私がこの度オモダカさんに同行したものだから、彼女への負担はこの二日間でかなりの物になってしまったのかもしれない。

音を立てないように、そっとドアを開けてみる。
作業に集中しているチリちゃんは此方に気が付いておらず、資料を片手に何やらブツブツと不満を垂れていた。

「バッジ0個て何やねん……ナメとんのか! アップルアカデミー? 何処や! 知らん! 何となくで面接受けるなや……何しに来てん! ああー! どいつもこいつもぉ!!」
「(チリちゃん……これは極度のお疲れモードだ)」

チリちゃんは、発狂していた。
予想以上に疲れている彼女に何と声を掛けるのが正解であるのか一瞬戸惑ったけれど、先に体が動いた。
チリちゃんの傍まで小走りで駆け寄って言う。

「ただいま、チリちゃん」
「…………へ?」

チリちゃんはポカンとした様子で、此方を見た。
固まったまま、暫く動かない。
目の下には、またしても隈が出来ていて、またこの二日間ろくに睡眠を取らずに働き詰めていたのだと思った。

「遅くまでお疲れさ、ま――いたたたっ!」
「……なまえの幻覚が見えとる……夢と、ちゃうやんな?」

頬に伸びたチリちゃんの指が、私の頬を滑るように撫でたかと思うと、そのままぎゅうっと抓り上げる。
こういった場合、普通は自分の頬を抓るものだと思うが、何故かチリちゃんは私の頬を抓った。理不尽だ。

「チリちゃん、痛い! 痛い!! 本物だから……――っ!」

散々訴えて痛みから解放された途端、今度はチリちゃんの腕の中にすっぽりと収められてしまった。
抱きしめられる。息苦しいくらいに、きつくきつく。

「なまえ……会いたかった……おかえり」

たった二日間留守をしていただけなのに、チリちゃんは私を抱きしめながら絞り出すような声でそう言った。

「たった二日ぶりでしょ? 大袈裟だよ」
「アホ。チリちゃんにとっては一年会うてへん気分なんや」
「一年は流石に言い過ぎだと思うなぁ」
「この二日間、どんな気持ちで待っとったか知らんくせによう言うわ」

行き先が行き先なだけに。
口にこそ出していないが、チリちゃんはそんな事を思っているような口振りだった。
流石に、ガラルでダンデくんに言われた事を話す気にはなれず、代わりにチリちゃんの背中におずおずとぎこちない仕草で手を回した。

「お土産、買ってきたよ」
「ホンマか! よっしゃ! ほなさっさと帰るでっ」
「え、でも仕事は?」
「ん? ええんや! 急ぎとちゃうし、なまえと過ごすのが最優先やもん」

そこには、いつも通りのチリちゃんが居て、安心した。
ニッコリと弾けるような笑顔で、先程までの業務に追われ発狂する姿はどこにも無い。

ここでお土産を渡してしまっても良かったけれど、そうしなかったのは私もチリちゃんと一緒に居たいと思ったからで。
先程、大袈裟だとチリちゃんに伝えたくせに、直帰せず此処へ立ち寄った時点で私もチリちゃんと大して変わらないのだと、苦笑してしまった。

***

「なまえー……好きや、好きすぎるー……ホンマやで? ホンマにチリちゃんなまえの事大好きなんやで? 分かっとる?」
「わ、分かっとる……です」
「ホンマかぁー? なら、チリちゃんがなまえの事どれくらい好きか当ててみ!」
「ドオー……くらい?」
「ふはっ、ははは! それええなぁ、なまえがポケモンやったら、いーっつも連れて歩けるしぃ、ポケットに突っ込んで歩きたいわぁ」
「……」
「でも、ブッブーやで! 正解はパルデア一……いや、世界一? んー……宇宙一大好きでした! ナッハッハ!」

なんだこれ。
一体何を言わされているのだろう、私は。罰ゲームか何かかな?

リーグを二人仲良く後にして、途中で軽く食べる物を買った。
そのままチリちゃんの部屋にお邪魔して、お土産のガラルの地酒を楽しく飲んでいたら、こうなってしまった。何故……。

楽しくなり過ぎたチリちゃんは、存分に酔っ払って私の肩に手を回し、ケラケラと笑う。
チリちゃんはどうやら笑い上戸であるらしい。
それだけならまだいいのだが……やれ好きだの、大好きだの、愛してる。終いにはどれ程のものか当てて見ろなんて、言い出した。
私を羞恥の谷底に転がり落とすゲームでもしているのだろうか?
このままでは恥ずかし過ぎて死んでしまう。

「チリちゃん、酔っ払いすぎだよ? 大丈夫?」
「酔ってへん!」

酔っ払いは総じてそう言うのだ。
チリちゃんも例にもれず酔っ払いの常套句を、赤らめた頬で、座った目で、堂々と言ってのけた。
今すぐ帰りたい。帰っていいかな?

「お! ちゃんとチリちゃんのネクタイ付けとるな。ええ子やねぇ」
「無理矢理付けさせたくせに」
「んふふ、お揃いや」

チリちゃんは、ご機嫌な様子で私が身に付けているネクタイを手に取ると、へらりと笑う。
お陰でダンデくんに雰囲気が違うと訝しげな目で見られてしまったのに。

「そんで、爪もチリちゃんの色。なまえはぜーんぶ、チリちゃんのや」
「だって…… ――ぎゃあっ!」

だって、それもこれも全てチリちゃんが私にした事だと抗議する前に、変な声が出てしまった。
私の手を取って、指先を満足そうに眺めていたかと思えば、そこに唇を寄せるのだから。
ちゅ、と軽く口付けた後、チリちゃんの舌が指先をなぞる。

「むー……なあ、もうちょい色気ある声出してや」
「なんで!? 何言ってんの! 無理だよ」

チリちゃんは不服そうに、不貞腐れた表情で無理難題を押し付けてくる。
掴まれたままの手を振り解こうとしても、びくともしなかった。
普段から鍛えているチリちゃんは私より遥かに力が強いが、けれど、相手は酔っ払いであるのに、それを差し引いても力の差は埋まらないらしい。

アルコールの作用で肌が上気して、瞳が潤んだチリちゃんはいつもに増して色気が漂っている。
ビールとは比べ物にならないくらいガラルの地酒はアルコール度数が強かったようで、普段ほろ酔い程度にしかならないチリちゃんがこんなにも酔っ払ってしまった。

そして、強く思った。チリちゃんを酔わせてはいけないと。

「ほなら、チリちゃんが出させたろかな?」
「へ?」

チリちゃんの形の良い唇が、私の人差し指を食む。
指先を食んで、舌を這わせ、それは段々と指の付け根まで降りてゆく。
時折混じるリップ音と水音が聴覚を刺激して、赤色の瞳にゆらりと滲んだ色香と情欲で私の意識を絡め取る。

「……っ、ふ、ぅ……チリ、ちゃん」
「んー?」
「やめ、て……」

せめてもの抵抗に、きつく瞳を閉じて顔を背けた。
背筋を這って全身に広がる快感の波に、抗えなくなりそうで怖くなる。

「チリちゃ、ん……?」
「あー……アカン、待つって決めたのになまえが可愛い声出すから、我慢できひん」
「チリちゃんのせいだよ!」

全て貴女のせいですと、潤んだ瞳で睨みつけても何の意味もない。
寧ろ、それは欲情したチリちゃんの、ほんの僅か一握りの理性を砕くだけだった。

「せやね……チリちゃんのせいや。なまえをこないえっちな表情にさせるんも、可愛い声出させるんも、ぜーんぶ。……ものごっつええ気分やわ」
「……ひぃ!」

このまま意識を失いそうになった。
チリちゃんの色気にあてられてくらくらする。
私の遺言は“ひぃ!”であるなんて、末代までの恥だ。笑い種だ。

けれど、チリちゃんはその言葉通り我慢ならないと言った様子で距離を詰めてくる。
にじり寄って、私の手の上に自分の手を重ね合わせ、押さえつけた。
その判断は正しかったと思う。
だって、私はこれでチリちゃんから逃げられなくなった。

「逃がしたらんし。諦め」
「っ、」

這うような低い声でチリちゃんは言った。
その言葉通り手が私の頬へ添えられて、唇が近づく。鼻を掠めたアルコールの匂いが心底恨めしかった。

「んぶ!」
「お土産!!」

しかし、往生際の悪さに私は定評があるので。
咄嗟に取り出した、もう一つのお土産をチリちゃんに差し出した。
正確には、私とチリちゃんの顔を遮るように間へ差し込んだと言った方が正しい。

「んもー! 何やねん! タイミング悪いわ」
「お、お土産、パート2です!」
「パート、ツー……?」

タイミングが悪いのは当然だ。
その為に、流れを断つために、これを取り出したのだから。

チリちゃんは、不貞腐れながら私の手に握られたそれを見る。

「じゃーん! キルクス温泉の素だよ」
「温泉?」
「視察の時、オモダカさんと一緒にキルクスタウンの温泉に寄ってね。そこで見つけたから、チリちゃんにお土産」
「……」
「チリちゃん? 気に入らなかった……?」

チリちゃんは温泉の素を受け取ると、じっとそれを見つめたまま動かなくなってしまった。
お気に召さなかったのだろうかと、不安になりながら声をかけると、チリちゃんは声を張り上げる。
そして、言った。

「ズルい!!」

その一言で全て完結してしまったかのように。
そして、チリちゃんは再びグラスに入った酒を煽ってしまって、面倒くさい事この上ない酔っ払いが復活してしまったのだった。

「裸の付き合いズルい!」
「はい?」
「チリちゃんとはまだやんか!? それなのに、オモダカさんに先越された……」

正直、とても面倒くさかった。
口に出しはしないが、非常に面倒くさい。

自分があまり酔っていないと、他人の酔っ払いのテンションがたまにどうしようもなく滑稽に思えてしまう。
一歩引いたところから、確かに裸の付き合いはしていないけれど、別の意味で私たちは裸の付き合いをしてしまったけれども――なんて、どうしようもない事を思い付いてしまった私が、チリちゃんを滑稽扱いする資格は無い。
私も酔っ払っているのかもしれない。

「そうや、ええ事思いついたわ!」

こう言う場合、大概ろくな事ではないし、とんでも無いことを口にすると分かっている。
チリちゃんとも、大分付き合いが長くなって来た証拠だろうか?

「一緒に入ろ!」
「はい?」
「今から! 一緒に風呂入るで!」
「ええー……」

ほら見ろ。やっぱりろくな事にならなかった。

***

まさか本当に裸のお付き合いをする羽目になるなんて。
温泉の素が乳白色に濁るタイプのもので良かったと心底思った。

逃走を試みようとする私を、チリちゃんが逃してくれるわけもなく、あっという間に衣服を剥ぎ取られてしまった。

せめてもの温情で、向かい合って湯に浸かるのは免除してもらえた。
こうして、背後から包まれる格好というのも中々に恥ずかしいものであるが、正面から見られるよりは幾分かましだった。私の気分的に。

「(恥ずかしい……し、死ぬ)」
「なんや、そない恥ずかしがらんでも、一回全部見とるやん。風呂入るよりもーっと恥ずかしい事もしたやろ?」
「や、やめて……これ以上聞きたくない……うう」

あの日の夜の出来事は、きっとこれから何か起こる事に引き合いに出されて、ネタにされてしまうのだ。
人質として、生涯チリちゃんに弄られ続ける未来が見える。

それにしてもと、チリちゃんは湯を手で掬って不服そうに言う。

「白い色が付いてもうたら、なまえの身体がよう見えんやん。つまらんわ」
「はい、それセクハラー!」
「ナハハ! せやから、チリちゃんがセクハラでリーグをクビになってまう前に、はよう恋人になってや?」

背後から胸元に片腕を回され、引き寄せられる。
背中にチリちゃんの肌の感触が伝わって、思わす心臓が大きく跳ねた。

振り返った先のチリちゃんは、長い髪を団子にまとめ上げている。
水分を含み、垂れ下がった前髪を鬱陶しそうに掻き上げる仕草も相俟って、色気が爆発した彼女に、早くも私のキャパシティーは限界を迎えていた。
早く上がりたい。今すぐにお風呂から上がりたい。

「そう言や、どやった?」
「どうって?」
「ガラルや、ガラル」
「うーん、久しぶりだったけど視察の名目で同行しただけだし……」

本当は視察の後のちょっとした時間で大変な事があったけれど、それは今チリちゃんに伝えない方がいいだろうか……。

「帰りたなった……?」
「……ううん。そんな事ないよ?」
「“ダンデくん”は?」

バシャン!と動揺のあまり身を跳ね上げてしまって、お湯が波立つ。
たった今、言わない方がいいかもしれないと考えていただけに、その動揺と言ったらない。隠しきれなかった。

「んげっ元気そうだった!!」
「ほーん。……それだけ?」

疑念の目が向けられている。
チリちゃんは、私とダンデくんの会話を何処かで聞いていたのだろうか?それとも、私が動揺を隠せていないから、勘付かせてしまった?
明らかに後者だった。一片の迷いもいらない。

こうなったら、正直に話すべき……だろうか?
まだ話を持ちかけられただけで、誘われただけで、私自身は何も決めてない。
いや、ほとんど決まっているようなものだけれど。

「それだけ、だよ」

だって、チリちゃんとは離れたくないと思う。それは本心だ。
だから、迷ってなどいない。迷ってなど。

――本当に?

百パーセントの答えが出るまで、僅かな迷いが残った状態でチリちゃんに伝えるのはどうかと思ってしまった。
“ダンデくんに誘われたけれど、行かないよ”そんな風に、今は伝えられないかもしれないのに。

歯切れの悪い返事になってしまったせいで、いよいよチリちゃんに確信を待たせてしまった。

「なまえはホンマ嘘吐くんが下手やな……何もあらへんって顔ちゃうやんか、それ」

真っ直ぐに見据えられると、嘘をつけない。誤魔化せない。
「ホンマは?」と、その先を尋ねられて、もう誤魔化すことは許されないのだと思った。

「……さ、誘われた」
「は?」
「戻って来てほしいって。勿論、今すぐじゃないから返事もまだ要らないって……考えてくれって言われただけで」
「……」

急に黙りこくってしまったチリちゃんの様子が気になって恐る恐る伏せていた顔を上げると、怒るわけでも取り乱すわけでもなく、ただ複雑そうな表情で私を見ていた。
そこには様々な感情が入り混じっているように思う。

「あの……チリちゃん、」
「勿論、行かんやろ?」
「え……う、うん……」

当たり前だよ。チリちゃんの事を放ってガラルに帰るわけがないじゃない。

そんな風に嘘でも答える事が出来たのなら良かった。
そうすれば、チリちゃんにそんな顔をさせなくて済んだのに。

「やらんわ……誰にも」
「っ、」

正面から抱きしめられて、耳元で囁かれた言葉はまるで懇願のようでいて、ぎゅうっと胸が締め付けられた。「行かんといて」と。
それは小さく響いて、鼓膜を揺らし、静かに溶けて消えていった。


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