「か、買ってしまった……」
いつだったか、ボタンちゃんが教えてくれた。
チリちゃんの特集が組まれた雑誌は直ぐに売り切れてしまって、買えるのは本当に運がいいんだって。
そして今日こそが、その、いつぞやの撮影でパルデア美男美女トレーナー特集を組んだ雑誌の発売日である。
雑誌が街から消えて無くなるなんて都市伝説じゃあるまいし、ボタンちゃんもまた一段と話を盛ったものだと思っていたが、どうやらそれは事実であったらしい。
何となく気になって、仕事帰りにちょっと本屋でも覗いてみるかな、なんて軽いノリで街に繰り出したのだけれど、そんな考えは甘かった。
気が付けば本屋を三軒梯子していた。
しかし、どこの店舗も品切れで、ようやっと残りの一冊を見つけたのは、いつも食料品を買うスーパーの隅っこにあるちょっとした雑誌コーナーの本棚。
それも私が手に取ったのが最後だったのだから、チリちゃんの人気には驚くばかりである。
立ち読みで済まそうと思っていたのに、こうも品薄ならば立ち読みで済ますのは惜しい気がして、私はちゃっかりチリちゃんが載ったその雑誌を購入してしまった。
紙袋に入った雑誌は外から中身が見えることは無いのに、何だか小っ恥ずかしくなって、思春期の男の子が初めてエッチな本を親に内緒で買った時のような心境で家路についたのだった。
それはもう、酷く挙動不審だったに違いない。
どこかの組織の機密情報でも抱えているかのような、それは用心深さだった。ただの雑誌なのに。
そして、家に着くなり紙袋から雑誌を取り出すが、何だか複雑な気分で雑誌を開く気になれない。
ひとまず、リビングのテーブルへ雑誌を放置して、仕事用のスーツから部屋着に着替え再びリビングに戻って来る。
それでもまだ落ち着かないのでネイルをオフして、エーフィとしこたま触れ合って、今度こそテーブルの前に正座し、深呼吸を一つ。
今一度、雑誌を手に取った。
それでは、いざ。
「んんー……無理だ、駄目だ……なんで買っちゃったんだろ」
雑誌の表紙を飾るチリちゃんを見るだけで、こうも緊張してしまうなんて。
緊張というか、気恥ずかしい。
アイドルや芸能人、モデルが表紙を飾るのとはまた違った不思議な感覚だ。
そこに写っているのは今日も職場で言葉を交わした友人兼上司である。
普段のチリちゃんとはまた違った顔をした、彼女がそこにいる。
上手く言葉に出来ないが、なんと言うか、知っているのに知らない人のようで。
何度も雑誌に手を掛けては離すを繰り返し、結局、ゴツンとテーブルに額を打ち付けて終わった。
一体何をしているんだろうか、私は。
何がしたいのだろうか、私は。
「ん? なんや、それこないだ撮影した雑誌やん。言うてくれたら出版社からもらったやつ分けたるのに」
「……」
うん?今、チリちゃんの声がしたような。
まさか雑誌から声なんてするわけがない。しかも此処は私の家だ。
幻聴まで聞こえてくるなんて、よっぽど疲れているのだろうか?
「いい感じに撮れとったやろ? ああ、でもなまえの待ち受けになっとるチリちゃんの画像はオフショットやから、世界に一枚だけのレアもんなんやで?」
「……、うわああああ!!」
幻聴かと思ったそれは、そんなわけはなく、テーブルに伏せていた顔を上げるといつの間にか傍にチリちゃんが居た。
勿論、雑誌から抜け出てくるなんてファンタジーな展開ではなく、チリちゃん本人だ。
驚きのあまり絶叫して、物凄い勢いで後ずさる。
しかし、床に落ちていた雑誌が入っていた紙袋に手を取られて、バランスを崩してしまう。
そのままの勢いで背後に体勢が傾いて、後頭部を打ち付ける直前、咄嗟に伸ばされたチリちゃんの手が私の身体を支えた。
「あっぶな! 気ぃつけや」
「ナ、ナイスキャッチ……」
ナイスキャッチとは言ったものの、この体勢は如何なものか。
何だか、見方によってはチリちゃんに押し倒されてしまっているような気がするようなしないような……。
予想通り期待を裏切らないチリちゃんは、そのまま目を閉じてキスを迫ってくるから、全力で彼女の顎を両手で押し上げた。
あらかじめ行動予測が出来ていれば、恐るるに足らず!である。
「あだだだだ! ちょ、冗談やんか!」
「迷惑防止条例違反ー!」
「意味わからん! てか、チリちゃん痴女ちゃうわ!」
「だって今のはそういう雰囲気やったやん?」なんて、唇を尖らせたって許されない。
と、いうのはどうでもよくて、いや、よくはないけれど……。
問題はそこではないのだ。
「何でいるの!? いつの間に、どうやって入って来たの!?」
「どうって、ドアの前でチャイム鳴らそう思たら、エーフィがドア開けて迎えてくれたんやけど」
「んなっ、エーフィ!」
“サイコキネシス”を悪用しては駄目だと常々言い聞かせているのに、今回もエーフィにしてやられた。
再会して以来エーフィはチリちゃんの事が大好きになったようで、極め付けにサンドイッチで胃袋まで掴まれてしまったものだから、まあ、こうなる。
私がテーブルに伏せっている間、ドアの奥から大好きなチリちゃんの気配を察知して勝手に部屋へ上げてしまったらしい。
現に今も、チリちゃんの膝に乗って構ってアピールをしていた。
ガラル地方に住んでいた時も、ダンデくんを筆頭に様々なお客様を無断で部屋に上げたものだったな……と懐古する。
「まぁ、なまえにはそんな雑誌より、本物のチリちゃんがおるわけやし?」
チリちゃんは、言いながら私の手を取って、手の甲に軽く口付けた。
友達以上恋人未満でこれだ。恐ろしい。
チリちゃんとお付き合いしたら、一体どうなってしまうのだろう。
現状、私が“はい”と頷けば私たちは晴れて恋人になれる間柄なのだから。
「ネイル、落としてもうたん?」
「ああ、うん。剥がれかけてたし、新しく塗り直そうと思って」
急遽明日から、重要な仕事が入ってしまったところだし。
チリちゃんは手の甲へキスをした時に、ネイルを落とした爪に気付いたらしい。
そして、すかさず「どれにするん?」と問う。
ベージュ系か淡いピンクか……めぼしいマニキュアを手に取ると、その様子を見ていたチリちゃんが目を輝かせて一つの色を手に取った。
「なあ、これにしよ!」
「え……」
ニッコリとご機嫌な様子で差し出してきた色は、まるでチリちゃんを連想させるような深い緑色のマニキュア。
正直、いや嘘だろ?チリちゃん……と、思った。
勿論、チリちゃんを連想して買ったわけではない。
去年のクリスマスぐらいに買った物だったように思う。
赤と白と緑でクリスマスカラーにしようと思って買った、そのうちの一つだ。
「ええっと……流石にこの色は……」
「ええやん! チリちゃんの色っぽいやろ?」
「だよね! 言うと思った! 嫌です!」
「何でや!」
チリちゃんの色だと言われ、一層意識してしまって全力で彼女の申し出を拒否する。
匂わせのようで嫌だったし、何より、この色のネイルで仕事をする勇気はない。
パルデアのリーグでネイルの色がどこまで許されているのか分からないけれど……。
しかし、拒否する私をよそに、チリちゃんは私の爪をその色で染める気満々といった様子だった。
いくら抵抗しても徒労に終わりそうで、チリちゃんは何が何でもその緑で私の指先を彩るつもりでいるらしい。
「かしてみ! チリちゃんが塗ったるわ」
「もう……強引だなぁ」
こうなったら、諦めた方が良さそうだ。
チリちゃんは私の爪にベースコートを施した後、緑のマニキュアを塗布する。
その手付きはなかなかに器用で、はみ出す事なく手際よく筆を滑らせた。
「だって、悔しいやん?」
「うん? 何が?」
「チリちゃんは、いっつも頭の中なまえの事で一杯やねんで?」
「っ、」
目を伏せたまま、チリちゃんは今も私の爪にネイルを施しながら続ける。
「なまえも、チリちゃんの事考えて頭の中一杯にして欲しいやん」
「な、なななっ何言ってんのぉ……!?」
その言葉だけで、すでに頭が一杯だった。
というか、自分ばかりとチリちゃんは言うが、私だってもう十分にチリちゃんで頭が一杯なのだけれど。
最近は特に。こんな風に触れられるだけで、見つめられるだけで、頭どころか胸も一杯になっている事実をチリちゃんは知らない。
絶対に言わないけど。せめてもの抵抗だ。
「せやから、なまえもこの爪見る度にドキドキしたらええわ」
「……っ、」
にしし、と悪戯っ子のような笑みを満面に湛えてチリちゃんは言った。
「大好きやで!」と、おまけに愛の言葉も添えて。
その作戦は大成功だと思う。
もう、この爪を見るたびに、私はチリちゃんに大好きだと言われた事を思い出す。その悪戯な笑顔も、全部忘れない。
「……と、ぅ」
「ん?」
「ありが、とう……」
チリちゃんは、キョトンとして此方を見た。
何に対するお礼なのだろうと言いたげに、小首をかしげる。
「だ、大好きって言ってくれたから!!」
「! ……ふはっ! あっはっは!」
「笑いすぎだよ!」
「いや、えっと……その、な?」
チリちゃんはクツクツ喉を鳴らしながら、再び止めていた手を動かしながら言う。
「可愛すぎやな、思うて。けどな、あんま可愛らしい事ばっか言うてると我慢でけへんから、程々にしたってや。チリちゃんの為に、な?」
「……ふぁい」
チリちゃんは嬉しそうに、けれど釘を刺すように、視線だけ此方に向けながら言った。
美人なチリちゃんの上目遣いの破壊力と言ったら凄まじい事この上なかった。
“はい”のたった一言もまともに返せなかったのだから。
そういえば、チリちゃんは何故訪ねて来たのだろう?と、ふと思った。
多分――いや、絶対明日の事だろうと思って、マニキュアを塗る事に集中するチリちゃんに声を掛けた。
「オモダカさんから話があったと思うけど、その事で来たの?」
「オモダカさん? ……いや、何も聞いてへんけど何かあったん?」
「え?」
「ん?」
違ったらしい。
けれど、オモダカさんから何も聞かされていないとの返事は予想外だった。
確かに私も急な申し出であったから驚きはしたが、一応直属の上司であるチリちゃんには私よりも先に話が通してあると思っていたのだけれど。
ならば、明日から二、三日私がパルデアを離れることをチリちゃんは知らないのだろうか?
いやいや、まさか。
一応確認も兼ねて、伝えておいた方が良さそうだ。
「……チリちゃん、あのね」
「んー?」
「私、明日からガラルに行くね」
ぐしゃり、左手の薬指の爪を滑る筆が盛大にはみ出した。
弾かれたように顔を上げたチリちゃんの表情は、これ以上ない程に驚いていた。
そして、一呼吸置いた後、チリちゃんの叫びが部屋中に木霊する。
「はあああああああ!?」
そういえば、左の薬指は色々と特別な意味合いのある指であるが、ここパルデア地方でもそう言う意味の指なのだろうか?
あーあ、これは塗り直しだな。
20221229