もう二度と酒の失敗はするまいと固く固く誓った筈なのに、その決意をこうもあっさりと覆すなんて。
最早それは一周回って一種の才能なのかもしれないと、思わざるを得なかった。
「……う、嘘だ」
目が覚めると、それはそれは美しい彫刻のようなチリちゃんの寝顔が視界一杯に広がっていた。
艶やかな深碧の髪が、陶器のように白く透き通る肌を一層引き立てている、息を呑むそれは美しさだった。
自分と同じ生き物とは、とても思えない。
どうして私はまた、こうしてチリちゃんと同じベッドで眠っているのだろうか?
昨日の記憶を辿ろうと思考を巡らせると、途端に酷い鈍痛に襲われる。
ズキズキよりも、ガンガンと表現した方がしっくりくる、そんな二日酔い独特の頭痛によってそれは遮られてしまった。
一体何がどうなれば絶賛仲違い中のチリちゃんと私が抱き合って一緒に眠る状況に陥るのか。
「と、とりあえず……状況確認」
もぞもぞと蠢いて、チリちゃんの腕から抜け出そうと試みる――が、前回の様に上手くはいかなかった。
身体を反転させたところで、背後からぎゅうっと抱き締められてしまったのだ。
「おはようさん。今回は逃さへんよ」
「ひいっ……チ、チリッチリちゃん!!」
「チリッチリちゃんて誰やねん。えらいちぢれとるな」
「起きてたの!? ひ、卑怯だよ……!」
「よう言うわ。また勝手に逃げ出すつもりやったやろ? 油断も隙もないわ」
「そりゃあ、目が覚めてこんな状態だったら誰だって……」
言いかけて、ふと気付く。
あれ?今は普通に話せているな、と。
昨日まで、あれだけ険悪で言葉を交わす事すら憚られる様な雰囲気だあったのに。
その原因はほぼ自分にあったのだけれど……。
こうなってしまっては、もう逃げ出す事は諦めた方が良さそうだった。
昨夜の事を自力で思い出せない以上、おそらく何らかの事情を知っているであろうチリちゃんに聞くしかない。
けれど、その前に私はチリちゃんに謝らないといけない。私にできるだろうか?
踏ん切りがつかないでいると、チリちゃんは私を抱き締める力を強めて、ポツリと言った。
「ごめんな……」
たった一言。その一言を、絞り出すように言った。
「……ううん、わたしの方こそ、その……ごめんね」
素直になれなくて、ごめん。
大嫌いだなんて嘘だよ。
だから私の事、嫌いにならないで。
私は臆病者だから、伝えたい言葉は沢山あったのに、上手く口に出せなかった。
ほんの出来心だったとか、実はからかっただけだとか――チリちゃんの口からそんな言葉を聞くのがとても怖くて、どうしてあんな事をしたのか聞き出せずにいる。それは今でも。
「ヤキモチ、妬いてもうてん」
「……へ?」
「カッコ悪いやん。好きな子の前でそんなん」
思わずチリちゃんの方へ顔を向けると、彼女の深紅の瞳と視線が交わった。
久しぶりに、まともに目があった気がする。
「なまえ、よう聞いて。チリちゃんな、なまえの事からかっとったつもりなんて無いで」
「え?」
「ずーっと本気や言うてるやん」
私を抱きしめていたチリちゃんの腕が身体から解け、今度は両手で頬を包み込まれる。
目を、逸らせなかった。
「あの夜、なまえに伝えた言葉覚えとるやろ?」
「っ! ……う、ん」
「あれ、全部本心やで」
「っ、」
「ぜーんぶホンマやから」
覚えている。忘れたくても忘れられる訳がない。
あの夜、チリちゃんから与えられた言葉の数々に身も心も溶かされて、耽溺してしまった事か。
だから、尚更避けてしまったのだ。
「なまえ、好きやで」
「チリ、ちゃん……」
「好きや。めっちゃ好き」
「う、ん……」
「小さい時から、ずっとずっと好きやったんやで?」
「わ、分かった…! 分かったから!」
恥ずかしさで死にそうになった。
けれど、チリちゃんの言葉は本心なのだと知って、からかわれていた訳でもないと気付いて。
チリちゃんにこんなにも深く想われていて、どうして今まで平気だったのだろう。
愛を囁かれて、見つめられて、触れられて。
「ちゃんと、その……真剣に考える、から。逃げないから。もう少し時間が欲しい……です」
やっとの思いで口にしたのは、酷く自分勝手で都合のいい言葉だった。
本当はもう、既に答が出ているようなものなのだから。
そんな狡い私だと知って尚、チリちゃんは受け入れてくれる。
「……ん、分かった」
「ごめんね」
「そこは、ありがとうて言うところやで」
「……うん。ありがとう」
チリちゃんは、今一度私を抱き締めた。
今度は正直からぎゅうっと。
それに抗わず、されるがまま抱きしめられて、まして目を閉じてしまう私は、やっぱり考えるまでもなく既に答えは出ている気がした。
「なまえ、シャワー浴びてき。朝食ぐらい一緒に食べてくれるやろ?」
「あ、うん! ありがとう」
「ええよ」と、笑うチリちゃんはとても嬉しそうで、初めて彼女と朝を迎えてしまった日の事を思い出して、置き手紙一つで逃げ出してしまった自分の行動を後悔した。
あの日もこうやってちゃんと話せていたら、今の私たちはまた違った形で存在していたのだろうか?
「(チリちゃんの服……やっぱりちょっと大きいな)」
ベッドから抜け出して自分の格好を確認すると、スーツではなくチリちゃんの部屋着と思しき衣服を身につけている事に気が付いた。
袖丈も、ズボン丈も(特にズボンの裾の長さが異常に長い)余っていて、自分の体躯には不恰好なほどにダルダルだった。
一丁羅ではなく、ただの部屋着にすら着られてしまう私とは一体……。
「チリちゃん、服ありがとね」
「これが俗に言う“彼ジャー”か……うん、めっちゃええな」
「チリちゃん?」
「次、シャツいってみよか」
「いや、いかないからね?」
***
「……ええー」
シャワーを浴び終えて脱衣所に出てみると、さっきまで着ていた部屋着は跡形も無く撤去されていて、きっちりと畳まれたチリちゃんの仕事用と思われるいつものワイシャツが置かれていた。
いや、朝食を食べたらお暇するのだから、昨日着ていたスーツとブラウスで良いのだけれど……。
無言の圧が凄い。
着られるのを今か今かと待ち侘びるチリちゃんのワイシャツの圧が。
何だこの着るまでは退室を許さないと言わんばかりの重圧は。
圧迫面接は彼女の専売特許だが、その情念は彼女の持ち物にまで移っているのかと慄くばかりだった。
「シャワー……ありがとう御座いました」
「ええよー。お! やっぱええな、彼シャツ」
「何でワイシャツ一枚だけなのかな!?」
「ええやん。よう似合うてるで?」
「そう言う問題じゃなくてね!?」
問題はそこじゃない。
大問題なのは、“ワイシャツだけ”しか置かれていないと言うことなのだ。
下がない。パンツが見える。
かろうじで見えていないが、シャツの裾を引っ張らないといつ見えてもおかしくない究極で極限の状況に私は陥っている。
朝食の準備を済ませて着席していたチリちゃんは、脱衣所から出てきた私を甚く上機嫌で眺めている。
頭の天辺から足の爪先まで鑑賞するかのように矯めつ眇めつ見て、とても満足そうにしていた。
何だこれ。羞恥プレイか何かか。
チリちゃんは、椅子に座ったまま身体だけこちらに向けて両手を広げて見せる。
それは多分、“こっちにおいで”と言うい意味なのだと理解して、一歩、また一歩吸い寄せられるようにぽてぽてとチリちゃんの元へ歩む。
そのまま広げられた腕は私を抱きしめた。
「そう言う問題やろ? チリちゃんのモンて感じでたまらんわ」
「……うぐ」
「ナハハ、なまえはすぐ顔に出てまうな」
「……はぐぅ」
何だか、今までよりもチリちゃんが数倍も甘ったるくなった気がして、最早私の口は擬音しか発せなくなっていた。
それから、チリちゃんは満足したのか漸く腕の中から解放してくれて、私はテーブルを挟んだ向かいの席に着いた。やっと朝食にありつけるのだ。
「うわあ……! すっごく美味しそう!」
サンドイッチとヨーグルト、それからカットフルーツにミルクたっぷりのカフェラテ。
朝からこんなに豪華でちゃんとした食事は久しぶりで感動してしまった。
自分一人の時はどうしても睡眠優先になってしまって、コーヒーと軽くパンを齧って終わらせる事はしばしば。
酷い時はエネルギーゼリーを流し込んで終わりの時もある。
「チリちゃん特製スペシャルサンドイッチやで」
「ねっ、ねっ、食べていい?」
「ふはっ、ええよ(耳と尻尾見える)」
チリちゃんお手製のサンドイッチを手に持って豪快に齧り付くと、口一杯に広がる美味しさに至福の表情になる。
さすが、スペシャルと銘打ってあるだけある。絶品だった。
「んむむむー! 美味しいっ!」
「せやろ? 毎日でも作ったるよ?」
私の口の周りに付いたパン屑を払って、チリちゃんは言った。
確かに毎日でも食べたくなる味だけれど、毎日……毎日ってつまりは――。
思わず色々と想像してしまって固まる私に、チリちゃんは目元を細めて微笑み、追い討ちをかける。
「せやから、はよチリちゃんのモンになってや?」
「もう……!」
俯く私は耳まで真っ赤に染まっているに違いない。
けれど、これももう、からかっているわけではないのだよな……と、改めて思うと堪らなくドキドキしてしまった。
私は、なんて単純な奴なのだろう。
「ドオーとエーフィもこっちおいで。チリちゃんの美味いサンドイッチやで」
いつの間にボールから出ていたのか、二匹は嬉しそうに駆け寄ると、仲良くサンドイッチを食べる。
エーフィの頭上には、まるでハートマークが飛んでいる様に思える程ご機嫌に尻尾を揺らしていた。
私と同じく、エーフィもすっかりチリちゃんに胃袋を掴まれてしまっていた。
何ともちょろい、一人と一匹だった。
ドオーとエーフィと、チリちゃんと私。
皆で食べる朝食はとても幸せで、掛け替えのない時間に感じられた。これが幸せと呼ぶのだろうなと、思った。
こんな毎日、か――。
「すっごく良いかも……あ、」
思わず声に出してしまって、ハッとして前を向いた時には既に遅かった。
その言葉はしっかりとチリちゃんに届いてしまっていたらしい。
「かーわいい」
頬杖をついて、満足げにこちらを見るチリちゃんは言う。
細められた深紅の瞳はガーネットの宝石の様にキラキラ光って、目が奪われるようでいて、とても美しかった。
20221225