魔が差した。
そんな一言で片付けられるのならば、現在進行形で関係が拗れてなどいない。

もはやどんな言葉を持って釈明しようとも、到底彼女の機嫌が直るとは思えなかった。
下手を踏めば更に彼女の怒りを買ってしまうかもしれない状況で、この後に及んで火に油を注ぐだなんてアブノーマルな趣味は無い。
それこそ関係修復以前の問題になってしまうのは火を見るよりも明らかなので、謝罪の機会を窺う日々が続いてしまっている。

後悔先に立たず――その言葉をこうも見事に体現する日がこようとは。

デスクに突っ伏して、盛大なため息をつく。
魂ごと抜け出てしまいそうな、深く重く長い溜め息だった。

「あー……アカン。無理や。なまえ不足で死んでまう」

声、聞きたいわ。
最近あの可愛い声で“チリちゃん”て呼んでくれてへんなぁ……。

余所余所しく刺々しい事務的な会話なんてもう懲り懲りだ。

あの日以来、デスクに置かれたままのパピモッチぬいぐるみは、相変わらずつぶらな瞳でこちらを見ている。
“たいあたり”の次は“つぶらなひとみ”でも繰り出しているのだろうか。

この間はよくも顔面に体当たりをかましてくれたものだと、小憎らしいパピモッチぬいぐるみを突っついてみるが、癒されるどころかなまえの姿が連想されてしまって、また一つ胸の中に彼女への恋情が募った気がした。

「……“ダンデくんダンデくん”しつこいんやもん。そんなん妬いてまうわ」

ポツリと吐き出した本心は、誰に届く事もなく室内に小さく響いて消える。

自分の知らない時期のなまえを知っている彼。
解雇を阻止するべくなまえの為に心を砕いた彼。
遠く離れてしまっても甲斐甲斐しくなまえを気にかける彼。

今、なまえの一番近くにいるのは間違いなく自分である筈なのに、名前しか知らない彼が、今でも彼女を支えているのだ。
心の拠り所として、存在している。
その様を有り有りと見せ付けられてしまった日には、焦燥感に苛まれ嫉妬に身を焦がしてしまう。

けれども、結果としてやり過ぎてしまった事実は変わらない。どう足掻こうとも。
“あんぽんたん”からの“大っ嫌い”のコンボは流石に堪えた。心を存分に抉ってくれた。

あんぽんたんは……まだ、百歩譲って許せる。
けれど、大っ嫌いは駄目だ。辛すぎる。
大好きな子に大嫌いと言われる程ショッキングな事は存在しない。
なんなら、今年一ショックだったと言っていい。

今日こそは理由を説明して、きちんと謝罪して、仲直りをしようと考えていた矢先、なまえはオモダカさんの遣いでチャンプルタウンに向かったまま直帰だなんて……何処までも仕組まれている。

午後からの予定はオモダカさんの一言でおじゃんになってしまった。
ここ最近、残業続きだったがそれも漸く落ち着いて、早めに上がれる今日こそ仲直りをする絶好の機会だと思っていただけに、やっと巡ってきた好機を逃してまったのは余りに痛手だ。

結局今日も夜まで執務室に篭って仕事をしてしまった。
帰宅したって、どうせなまえの事ばかり考えて気が滅入るのだから、執務室で仕事をしていた方が気が紛れて幾分もましだった。
その点に関して言えば、気分転換にピクニックへ誘ってくれたアオイにも申し訳ない事をしたかもしれない。
結局、何処で何をしていようと、気掛かりなのはなまえの事で、頭に浮かぶのはなまえの笑顔なのだから。

そんな時だ。
捨てる神あれば拾う神あり、という。
アオキさんからの電話は、まさにそれだったと思う。

「もしもし、アオキさん? どないしたんです? アオキさんから電話くれるやなんて珍しいですね」
『ええ……実は今、チャンプルタウンの宝食堂でなまえさんと食事をしているのですが、悪酔いした彼女が貴女の名前ばかり呼ぶもので』
「は? なまえが悪酔い?」
『申し訳ありませんが、可能でしたら迎えをお願いしてもよろしいですか?』

是非もない。
アオキさんには一生分の感謝をしてもしきれないだろう。

「直ぐに向かいます」と、電話を切るなり執務室を飛び出して、空飛ぶタクシーを捕まえる。
逸る気持ちを抑えて、チャンプルタウンへと飛んだのだった。

***

チャンプルタウンに着いて早々に、アオキさんから聞いていた宝食堂を訪れると、ビールジョッキ片手に突っ伏すなまえの姿があった。
悪酔いどころか泥酔と言った方がしっくりくるその様に驚いたのも束の間、彼女の口を突いて出る言葉の数々に、きょとんとしてしまう。

がやがやと賑わう雑音の混じった店内で、その言葉はしっかりと耳に届いた。

「チリちゃんに会いたいよぉ……ごめんね、って言いたいいい……からかわないでってぇ、本気にしちゃうからぁ……」

なまえは今も怒っているのだと思っていたし、当分許してもらえないだろうと踏んでいた自身にとって、それはあまりにも想定外の言葉だったからだ。
まるで懺悔か何かのようなそれは、拗らせた果ての彼女の本心であると受け取ってもいいのだろうか?

「ほら、帰るで」

頭を撫でてやると、夢見心地とばかりにふにゃりと表情を緩める。
撫でられたからか、はたまた酔っ払ってただ良い気分になっているだけかは分からないけれど。

「んうー……チリちゃんの声がするぅ……」
「せやで。チリちゃんと一緒に帰ろな?」
「んふふ、ふふ……チリちゃん……」
「なんや今度はえらいご機嫌さんやね」

酔っ払ったなまえを負ぶって、今一度アオキさんに礼を伝えた。

「ほな、アオキさんお疲れさんでした。このお礼はいつか必ずさせてもらいますんで」
「お気になさらず。お疲れ様でした」

アオキさんは、まるで、呼び付けたのはこちらであるのに、何故礼なのか……と、言いたげな顔をしていたけれど(いや、いつもと変わらない無表情だっかたら、そう思っていそうだなという事にしておこう)、それは彼がどう感じようと、こちらにとっては感謝してしかるべき事だった。

待機してもらっていた空飛ぶタクシーに、今度はなまえと二人で乗り込む。
大層酔っ払っているなまえは、テーブルシティの自宅に到着する前に、このままタクシーの中で早々に眠ってしまいそうだった。

肩を抱き寄せると、そのまま無抵抗に身を預け、自ら擦り寄って来る。
それは、彼女と再会してから今に至るまでにおいて、初めて見せてくれた姿だ。

トクンと胸が高鳴って、ああ、好きだな……と、ただ純粋にそう思った。

行き先を自分の住うマンションへと変更してしまった事は不可抗力だったと見逃してほしい。
酔っ払っていようといまいと、彼女の懺悔ともとれそうな本心を聞いてしまった以上は、どうしてもそのまま帰すのは惜しかった。

***

マンションに着いて、負ぶっていたなまえを起こさないように、そっとベッドへ寝かせると、彼女は寝返りを打って素気なくこちらに背を向けてしまった。

タクシーに乗っていた時とは随分と態度が違う。
案外なまえはツンデレ気質なのかもしれない。

そんな事はさておき、先ず初めに取り掛かったのはなまえの衣服を脱がす事だった。
勿論、卑猥な意味も、その意図もなく、ただ単に仕事用のスーツが皺になるといけないのでそうしたまでの事だ。
上着とスカートを脱がせてハンガーに掛けると、チェストから適当に引っ張り出した服を着せてやる。

自分もシャワーを浴びて再び寝室へ戻って来ると、なまえは寝返りを打ってこちら側へ向いて安らかな寝息を立てていた。
やはり、彼女はツンデレの気質があるのかも知れない。
ベッドの端に腰掛けて、眠るなまえを起こさないそうにそっと頭を撫でた。

「ふはっ、よだれ食うとる」
「んん……アオキしゃん、もう飲めま、しぇん……」
「分かった分かった。もう飲まんでええし、一緒におるんはチリちゃんや言うとるやろが」

仕返しとばかりに鼻を摘み上げると、なまえは眉間に皺を寄せて、苦しそうにフガッと鼻を鳴らした。
仕返し大成功。
ざまあみろとばかりにクツクツと喉を鳴らして笑っておいた。

悪戯はここまでにして、手に持っていた拭き取り用の化粧落としで手際よくなまえの化粧を落としてやる。

「ん、ぅ……チリ、ちゃ……」
「ん?」

てっきり目を覚したのかと思ったが何の事は無い、ただの寝言だったらしい。
なまえは、むにゃむにゃと他にも何か言っていたけれど再び寝息を立て始める。

「夢の中でも、チリちゃんの事呼んでくれてるん? ……嬉しいわ」

慈しむようにソッと額に口付けて、鼻先へ、頬へ、最後は唇へ。
アルコールの強い匂いが鼻を掠めて、一体どれだけ飲んだのかと苦笑する。
明日も仕事があるのに、また随分とめちゃくちゃな飲み方をしたものだ。

“からかわないでってぇ、本気にしちゃうからぁ……”

ふと、なまえの言葉が頭を過った。
からかっていたつもりはこれっぽっちもなかったし、毎度大真面目で迫っていたのだけれど。
寧ろ、本気にしてもらわなくては困る。

その言葉通り、なまえは不安だったのかもしれない。
始まりこそ、あのような形になってしまったけれど、彼女への気持ちに嘘偽りなど一切ないのだから。

「明日、目が覚めたらチリちゃんの気持ち全部伝えるから、逃げずにちゃーんと聞いてや?」

眠るなまえに伝えても、当然反応は無い。
意思表示であり、意気込みでもあるような、それは独り言だった。
最後にもう一度、柔らかななまえの唇の感触を確かめるようにキスをして、彼女を腕の中へ収める。
腕に抱いたなまえの温もりを噛み締めるように、そっと目を閉じた。

「……おやすみなまえ。また明日」

段々と微睡む意識の中で、ぼんやりと思う。
そう言えば、ここ数日随分と苛まれていた焦燥感も苦悶も無くなっているな、と。

何だか、随分と久しぶりに熟睡出来たような気がする。


20221224


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