“人生山あり谷あり”とはよく言ったもんだ、全く。
ある日突然勤めていた職場から出向命令が下され、縁もゆかりも無い地へ単身赴く事になってしまい、そのせいで結婚を視野に交際していた恋人にもあっさりと振られてしまった私の人生のどこに山があるというのか。
谷しかない。
それも底の見えない、もはや絶望的な深淵の如き谷である。
長く住み慣れたガラル地方を離れたのは今朝方の事で、遠路遥々やって来たこのパルデア地方こそこの度の目的地であるが、傷心旅行などでは決してない。
出向先がこの地パルデアのポケモンリーグであるからだ。
ガラルのポケモンリーグからパルデアのポケモンリーグへ転籍出向。
まあ、クビを切られなかっただけ、マシだと思わなければならないのかもしれない。
ガラル地方で起こった未曾有の大事件――
リーグ委員長であったローズ元委員長自らが引き金となったかの一件で私の勤め先であったポケモンリーグでは大規模な内部改革が行われた。
それはトップの首をすげ替えるだけでは事足りず、ローズ元委員長と関わりが深かった者は例外なく排除されたらしい。
直接ではなくとも、彼の秘書を勤めていたオリーヴさんの直属の部下であった私はグレーゾーンだと見なされたらしく、首の皮一枚繋がった形で他地方のポケモンリーグへの出向処置で落ち着いたそうだ。
それに苦い顔をする者もいたそうだが、そこにはローズ元委員長に代わってリーグの顔となった、ダンデくんの計らいがあったからなのだと後から聞かされた。
だとすれば、こんな底の見えない人生の谷を永遠転がり落ちる事無く、覗き込む程度の絶望に留まったのは紛れも無くダンデくんのお陰であったのだろうから、落ち着いたら彼に改めて感謝の言葉を伝えるべきなのだろう。
今し方辿り着いたテーブルシティの大門を見上げつつ、そんな事をぼんやりと思った。
「やっと着いた……出発したの朝方だったよね? パルデアってガラルから遠すぎない?」
だから余裕を持って前日に到着していた方がいいと勧められたのかと得心したところで、見計らったようにスマホロトムが鳴る。
そしてそれは鞄の中から眼前に飛び出した。
【ロトロトロトロト……ダンデから着信ロト!】
たった今思いを馳せていた相手からの着信とあって、少々驚きながらも「繋いで」と促した。
「もしもし、ダンデくん?」
『なまえ、パルデアには無事に着いたか? そろそろ着く頃かと思ってな』
「うん。たった今」
『そうか、安心したぜ。見送りに行けなくて、すまなかった。それから、こんな形になってしまって……キミには本当に申し訳ない事をした』
スマホロトムを通じて聞こえるダンデくんの声に、今彼がどのような表情をして言葉を紡いでいるのか容易に想像が付きそうで、堪らず苦笑した。
ダンデくんに全く非は無いのだから、彼が謝るのは筋違いだ。
この程度の処遇で済んだ事実に感謝こそすれ恨み言を並べるわけがない。
寧ろ、いくら感謝したってし足りないくらいだ。
「何でダンデくんが謝るの? 今回の事、本当に感謝してるんだから。ダンデくんの計らいが無かったら私、今頃路頭に迷ってたかも知れないし。だから、ありがとう」
『……いや、少しでもキミの役に立てたのなら良かったんだ』
『それから』と、ダンデくんはまだ何か言いかけていたが、それは不意に受けた衝撃によって私の耳に届く事は無かった。
スマホロトムごと何かにぶつかってしまって、そこで通話は途絶える。
ドン!と、勢い良く肩をぶつけてしまったせいで体勢を崩し、鞄は肩からズレ落ちて地面に中身をぶち撒けてしまう。
「っ、すみません」
「いってぇな! どこ見て歩いてんだよ」
散らばった鞄の中身を拾おうとしゃがみ込んだ私の頭上から吐き捨てられた台詞に、言い返す気力は不思議と湧いてこなかった。
小さく謝罪の言葉を返す事しか出来ずにいると、続けて「邪魔くせぇ」と、追い討ちを掛けられ書類を拾う手に力が篭る。
そんな事は言われなくても分かっている。
自分でもこんな所で何をやっているのだろうと思うのだから。
先程の電話だって、最後までダンデくんに気を使わせていた。
こんな現状に縋りついていないで、いっそ全部やり直せば楽になるのだろうか?
煙たがられながら出向までして、それでも縋るこの仕事ってそんなに自分にとって価値があるものだろうか?
別れた元カレだってそうだ。遠距離で別れるくらいなら、いっそ仕事を辞めて結婚しようってプロポーズしてほしかった。
――駄目だ、気持ちがぐしゃぐしゃだ。
涙の膜に覆われて視界がぼやけ始めた頃、無反応の私に気味悪さを感じたのか、舌打ちを残してこの場を去ろうとした男を制する声が耳に届く。
「お兄さん、ちょい待ちや。そっちからぶつかっといて邪魔はないやろ? “ごめんなさい”も言われへんの?」
「ああ? なんだテメェ」
突然割り入った声にハッとして、顔を上げる。
吐き捨てて去ろうとする男の肩を臆する事なく掴み、引き止めるその後ろ姿は――何故だろう、どこか既視感に溢れていた。
緑色の髪も、コガネ弁も、すらりと伸びる手足も、臆する事のない物言いも、その一つ一つが酷く懐かしく感じられて仕方がない。
「お、何やお兄さん元気ええな。――ええよ? その喧嘩、チリちゃんが買うたるわ」
「――っ!」
嗚呼、まさか本当にこんな事が。
自分の事を“チリちゃん”なんて称する人物を、私は一人しか知らないし、顔を確認せずともその後ろ姿だけで、もう十分だった。
感じていた懐かしさと既視感は、ストンと胸の中に落ちる。
「クソッ!離せ……!」
ワントーン低くなった声音と、手に握られたモンスターボールを見て、男は自分に分がないと悟ったのか表情を歪ませ、肩に掛けられていた手を乱暴に払い除ける。
不機嫌を微塵も隠さずにこの場を去って行った。
「ったく、なんやアイツほんま気分悪いわ。大丈夫? 怪我してへん?」
男を追っ払った後、私の前にしゃがんで地面に散らばった鞄の中身を手早く拾い集めてくれる彼女を視界に捉えた瞬間、じんわりと胸の奥が温かくなる。
「あ、えっと……」
「ん? あー、手ェ擦ってもうてるやん。血も出とるし、とりあえずコレで押さえとき。そこら辺で絆創膏買うてくるから」
ポケットから取り出したハンカチで患部を押さえてくれる彼女は、先程から反応の薄い私の様子を窺うように、深い赤色の瞳で此方を見る。
そして、印象深い垂れ目を大きく見開いた後パチパチと二、三度瞬かせたと思うと美しく整った顔が驚きの色に染まった。
それもそうだ。
彼女と最後に顔を合わせたのはいつだったろう?
優に十年は経っているのではないだろうか。
「チリちゃん……だよね?」
「……もしかして、なまえ!?」
まさかの再会だった。
こんな形でチリちゃんとまた出会うことになるなんて誰が想像しただろう?
「ごっつ久しぶりやな! もう十年振りぐらいやないか?」
「そう……かも」
「まさかこんな所で会えるとはな! 元気にしてたん?」
懐かしいチリちゃんの笑顔に、何故か私は心底安心してしまって、さっきは助けてくれてありがとうだとか、また会えて嬉しいよだとか言いたい事は沢山あったのに、その一つも伝えられないままボロボロと涙が溢れてきた。
「チリちゃん……チリ、ちゃ……う゛ぅぅ」
「な、ちょ、ええ!? 急にどないして……なまえ!?」
目まぐるしく環境が代わって、縁もゆかりも無い地に単身赴いて、大切な物まで失ってしまって。
張り詰めた感情の糸がプツリと切れてしまう瞬間なんて本当に些細な出来事だったりするのだろう。
今この瞬間、私にとってチリちゃんとの再会が、存在が、どれほど大きなものだったか――心の支えになったのか到底言葉では言い表せやしないのだ。
ただただ焦るチリちゃんを他所に、人目も気にせず大の大人がわんわん声を上げて泣いてしまった、そんなパルデアの夜である。
20221211