「あー……アカン。頭働かへん」

眼鏡を外し、ワークチェアの背もたれに身を預けて天を仰ぐチリちゃんは、いつもに増してお疲れモードのようだった。
目頭を押さえてみてもそれは所詮気休めである為、彼女の疲労を根本的にどうこうしてくれるわけでは無かったようで、もたれた反動で今度はデスクに突っ伏した。

嗚呼、恐ろしい。これが社畜か。

面接官を務める時だけアクセサリー感覚で身につけているのだろうと思っていた眼鏡だが、パソコンを使用する業務の際は大体いつも付けているらしい。
ブルーライトのカットが出来て、おまけに頭が良さそうに見えて、箔が付くやん?なんて、上機嫌に話してくれたのはいつだったか。
しかし、連勤続きで疲労困憊の彼女は、その箔は剥がれ、美しさもくたびれてしまっている。

私は書類を持って執務室を訪れたのだが、突っ伏すチリちゃんに追い討ちを掛けてしまうようで申し訳なくなる。

「大丈夫? ここ最近残業続きだもんね……。コーヒー入れて来るから一休みする?」

覗き込みながら問うと、チリちゃんの目の下にはくっきりと濃い隈が出来てしまっていた。
これでは折角の美人さんが台無しだ。

私が変われる仕事であれば可能な限り引き受けてはいるが、それでも、チリちゃんの仕事量は膨大で気の毒に感じてしまう程だ。
毎日私の方が先に帰っているので、チリちゃんが何時まで残業しているのか分かりかねるが、同じ時間帯に退勤した記憶は久しく無かった。

「んー……コーヒーより、なまえがええなぁ」
「えぇ……」

私がいいとは、一体何をどうしろというのか。
熟年の夫婦ではないのだから、“ん”と言われて醤油を差し出せる程の意思疎通は、申し訳ないけれど私とチリちゃんの間に確立されていないのだ。

迷いに迷ったところで、私はおずおずと伸ばした出した手でチリちゃんの頭を撫でてみる。
俗に言う頭ポンポンと言うやつ。
どんな反応をされるか気が気でなかったが、意外にも心地良さそうに目を細めたチリちゃんに何だか胸の奥がこそばゆい。

もしかするとこれは、要望の“私がいい”に、あながち間違いでないのでは?

「なぁ、撫でるだけやなくて、ぎゅーっとしてくれへんの?」
「ぎ、ぎゅー!?」

正直、頭を撫でる行為ですら精一杯であった私に、さらに何倍も難易度が跳ね上がる抱擁を要求してくるチリちゃんは鬼か何かだろうか?

けれど、それだけチリちゃんは疲労困憊で極限の状態なのかもしれない。
もしも、私なんかの抱擁でチリちゃんの疲労が回復し、やる気がみなぎり、業務が捗るというのなら、こんなにも安価で容易な手段は他に存在していのでは――。

ただし、この私に実行出来ればの話だが。
それは限りなく無理に等しい。逆に私が疲労困憊になってしまう。

葛藤し、逡巡する私に対して、痺れを切らしたようにチリちゃんは言った。いや、命令した。
今や、ハラスメントが糾弾される俗世であるにもかかわらず堂々と職権を乱用して。

「チリちゃんコーヒーの苦いのより、なまえの身体で癒されたいわ……ほらほら、恥ずかしがっとらんと。上司命令やで」
「職権乱用反対!」

絶妙なバランスでセクシャルハラスメントとパワーハラスメントを織り交ぜてくる私の上司は、やはりかなりのお疲れモードだった。

さて、どうしたものか。
己の身を守りつつ、尚且つ、チリちゃんの疲労を解消できる手立てが他に無いものか……。
このままでは本当にこの身を生贄にチリちゃんを癒す他無くなってしまう。
それだけはどうしても回避したかった私が、考えあぐね、導き出した答えは、もはや今世紀最大の閃きであったと思う。

「あ、そうだ! ちょっと待ってて。とっても良い物があるよ!」

「ぎゅーがええ……」と、限界突破寸前のチリちゃんの呻き声を背に受けながら執務室を出た。

勿論、逃げ出したわけではない。あんなチリちゃんを放置して職務に戻るほど私も鬼ではないのだ。
彼女ご所望の抱擁は少々……いや、かなり私には難易度が高いので申し訳ないが叶えてあげられない。
その代わりと言ってはなんだが、私が愛用中の癒しグッズを特別にチリちゃんへ貸してあげようと思う。
私を抱きしめるよりも癒し効果は絶大だ。間違いない。

「お待たせ! 今日一日、チリちゃんに貸してあげる」
「……いや、なんやねんそれ」

再び執務室へ戻るなり手にしていた物を差し出すと、チリちゃんはヒクリと口角を引き攣らせた。

「え、チリちゃん知らないの? 今巷で話題沸騰中の大人気癒しグッズ“等身大モッチモチパピモッチぬいぐるみ”」
「な、何て……? モチモッチ?」
「この間ポピーちゃんと一緒に見たナンジャモちゃんの動画配信で紹介されてて、本当にこの感触が堪らないんだよ」

疲れて一息入れたい時に、この子のお腹に思いっきり顔を埋めてよく癒されている。
撫でてよし。抱き締めてよし。顔を埋めてよし。
この三大モーションに、堪らない愛らしさが加われば、あらかたの疲労は回復してしまう優れものだ。
日々この子のお世話になっている私が言うのだから、癒し効果はお墨付きなのである。

「だからほら、チリちゃんもこの子抱きしめて癒されて……――っ!」

全てを言い終わる前に、腕を掴まれ引き寄せられる。
椅子に座ったままの状態のチリちゃんに腕を引かれたものだから、体勢を崩して彼女の胸の中へ倒れ込んでしまった。

「チ、チリちゃん……!」
「せやから、チリちゃんは“この子”の方がええ言うとるやろ?」

耳に届いたのは、普段快活なチリちゃんからは想像できない弱々しい声だった。

チリちゃんは、私を膝の上に乗せ直すと、腕の中の存在を確かめるように、ぎゅーっと抱き竦める。
それはまるで縋り付いているようにも感じられて、それが本当に彼女は極限に疲弊しているのだと物語っているようだった。

人が弱っている姿というのは、なかなかに庇護欲をそそられるものだ。
普段は見せない姿を見せられると、どうにもいけない。
ここまで弱ったチリちゃんを見たのは初めてで、そんな姿を見せてくれた事が何だか少し嬉しいなんて、不謹慎だろうか……。

頭を撫でようと手を添えた瞬間、チリちゃんはあろう事か私の首元へ顔を埋めたまま、思い切り息を吸い込んだ。
同時に計り知れない羞恥心が込み上げて、庇護欲も母性じみた感情も、一瞬で消え去ってしまった。

「はぁー……落ち着く」
「ちょ、待、嗅がないでくださいお願いします! ついでに降ろしてください!」
「いーやーや。却下やそんなもん」

必死に肩を押し返すが、びくともしなかった。剥がれない。
顔を上げたチリちゃんは拗ねた子供のように頬を膨らませて抗議する。

可愛いなんて思うものか。思うもの、か……。

駄目だ、やっぱり可愛い。
庇護欲を擽られる。
それに、いつもチリちゃんを見上げてばかりであるから、見下ろす景色はとても新鮮だ。

「ちょ、でも、本当に重いから……」
「重ないよ。チリちゃんこれでも鍛えてるんやで? ……せやから、な? もう少しこのままぎゅーっとさせたってや」
「っ、……だ、誰か来るかもしれないし」
「ええよ。その時は見せつけたったらええやん?」
「む、無理いいい!」

あとどのくらい私はチリちゃんの膝に鎮座すればいいのか。
こんな事になるなら、初めから割り切ってハグをしていればよかったのかもしれない。
膝に乗って抱き締められるだなんて、拷問以外の何だというのか。

「は、はい! 終わり! 終了ー!!」
「早いわー、もうちょい」
「早くないよ! 十分だよ!」
「自分、最近ポピーばっかり構ってるやん……膝に乗っけて。チリちゃん放置しすぎやで?」
「いや、今そんな事を言われても……」

今そんなことを引き合いに出されても。
だから私を膝に乗せているのだとしたら張り合うところが違う。

ああそうか、ポピーちゃんと視聴した等身大モッチモチパピモッチぬいぐるみの話をしてしまったのだった。
うっかり口を滑らせてしまったのを、チリちゃんは聞き逃してくれなかったみたいだ。

ポピーちゃんばかり構っていると言うが、スマホロトムの待ち受けにしろ、この無茶振りな拘束にしろ、私はチリちゃんに十分過ぎる程独占されていると思うのだけれど。
寧ろ、ポピーちゃんとの触れ合いが息抜きになっていると言っても過言ではないのに。

「でもほら、いい加減仕事に戻らないと!」
「はぁ……なまえは働き者やな」

再三お願いしたところで、漸く観念したのか諦めたのか――。
チリちゃんは、今度こそ名残惜しそうに私を膝から降ろしてくれた。

やっと執務室から帰れると安堵した時、スマホロトムが上着のポケットから飛び出して着信を知らせたのだ。
これがまさか、これから起こる揉め事の引き金になるとも知らずに。

【ロトロトロト……ダンデから着信ロト】

「へっ!?」

ダンデくん!

こんな時に。
よりにもよって、チリちゃんと一緒にいるこのタイミングで狙ったようにダンデくんからの着信とは。
普段なら嬉しいそれも、今は正直困惑してしまう。

「あ、えっと……後でかけ直すってメッセージ送信しておいて」
「出たらええやん」
「いやいや、今仕事中だし……」
「かまへんよ? “大事な大事な恩人のダンデくん”やろ?」
「……う、」

背後から声を掛けられて、思わず身を跳ね上がらせてしまった。
その反応が面白く無かったのか、隠し立てをしているのではないかと勘繰られてしまったのかは分からない。
けれど、ダンデくんに対して刺々しく感じたのは、気のせいじゃない。

恐る恐る振り向けば、チリちゃんはニコニコと張り付けたような笑みを湛えている。
それがとてつもなく恐ろしく、私を震え上がらせた。
いくらニコニコしていても、目が笑っていない。圧が凄い。
私は今、彼女の圧迫面接でも受けているのだろうか?

いつだったか、テーブルシティで男子学生が面接の人怖かったと話していたのを思い出す。
激しくそれに同意する自分がいた。

「じゃ、じゃあせめて休憩室で電話しようかな……――うわっ!?」

やっとの思いでチリちゃんの膝から解放されたというのに、何が悲しくて再び膝の上に逆戻りしなければならないのか。
今度は背面から抱き竦められてしまう。
「逃げんなや」と、相変わらずのニッコリ笑顔で圧を掛けられるので、こちらも引き攣った顔で笑い返すしかない。

戸惑う私に痺れを切らしたチリちゃんは、勝手にスマホロトムの画面をスワイプして通話ボタンを押してしまった。
いっそこのまま切れてしまう事を望んでいたのに、チリちゃんはなんて無慈悲なのだろう。

『もしもし、なまえ?』
「ひゃいっ! ダンデくんこんにちは! 良い天気ですね!」
『……ん? 何だ今日はやけに可笑しな話し方だな』
「そ、そうかな?普通だよ。いつも通り……あはは。今日はどうしたの?」

繋がってしまったものは仕方がない。
とりあえず当たり障りのない会話を心がけて、頃合いを見て切り上げる。
しかし、それが返って可笑しな話し方になってしまったようで、ダンデくんは訝しげに尋ねた。

気まずい。ただただ気まずい。
チリちゃんの膝の上でダンデくんと電話をしている状況を彼は知るよしもないのだから。

以前、チリちゃんにガラル地方に住んでいた時の話を尋ねられた事があった。
その時にダンデくんとの関係を話した記憶がある。
それ以来、彼の名前を出すとチリちゃんは面白くないと言いたげな顔をするから、話題を避けていたのだけれど。

“大事な大事な恩人のダンデくん”

さもありなん、である。

『元気にしているかと思って電話したんだ。異動してもう直ぐひと月だろう? そっちの生活にも慣れたか?』
「うん。パルデアのリーグの人達も皆優しいし、よくしてもらってるよ。ダンデくんは? リーグ委員長の仕事には慣れた?」
『ああ。……と、言いたいところなんだが、色々と行き詰まって大変だ。一朝一夕とはいかないな』
「そう……また無理してない?」
『ここ最近ずっと泊まり込んで仕事をしていたせいで叱られてしまってな。強制的に休みを言い渡されてしまった』

笑いながら話す彼の声は、少し疲れているようだった。
今までチャンピオンとしてポケモンと向き合う事に百パーセントを費やしていたダンデくんにとって真逆のような生き方だろう。
それでも、ローズさんの後を担うのはダンデくんしかいないのだ。

ガラルで少しでもその手助けが私に出来たなら……そんな思いは、今はもう抱いてはいけない。

『だから今日はワイルドエリアで久しぶりにキャンプでもしようかと思ってるんだ』
「いいね! あー……また、ダンデくんのリザードン級のカレー食べたいな」
『ああ、もちろんだぜ!』

近況報告から懐かしいカレーの話まで。
ついつい話に花を咲かせてしまっているが、私は今、チリちゃんの膝の上に座っている事を――囚われの身である事を忘れてはいけない。
私の腰に腕を回して、肩に顎を乗せ、会話を聞いているチリちゃんの存在を、決して忘れてはならないのだ。

ここまで何もせず、静聴しているチリちゃんに対して違和感を覚えて、これはそろそろ切り上げたほうが身の為だと警鐘が鳴っている。
「それじゃあ……」と、言いかけたまさにその時だった。

「っ、んぅ……!?」

ちゅ、と音を立てて首筋にチリちゃんの唇が押し当てられたかと思うと、次いで舌が首筋を這い上がる。
ぞくぞくとした感覚が背筋を伝い、甘い刺激となって身体中を駆け巡った。
思わず上擦った声が漏れてしまって、慌てて両手で口元を覆い隠す。

振り向くと、意地悪な笑みを浮かべたチリちゃんが口角を吊り上げている。

『なまえ、何かあったのか?』
「う、ううん! 何でもない……よ――っ、」

これ以上は止めて欲しいと、首を振って必死に訴えたが、それが余計にチリちゃんの加虐心を擽ってしまったらしい。
首筋への愛撫もそのままにチリちゃんの手が太腿を這い回って、スカートをたくし上げる。
いくら口を押さえて声を堪えても、溢れる吐息は段々と色を孕んで、自分の意思と反して身体は与えられる快楽を素直に受け入れようと熱を持ち始める。

太腿を撫でるチリちゃんの手を窘めるように叩いても、何の意味も無ければ、抵抗にもならなかった。
だって今、私の意識も身体もチリちゃんに支配されてしまっているのだから。

『キバナやソニアもなまえに会いたがっているから、またガラルへ帰って来てくれ』
「う、ん……私も皆に会いたいな。近いうちに帰るね。それじゃあ……――っ、」

“それじゃあ、またね”

その言葉を最後まで紡ぐことはなく、ダンデくんとの通話が切れる。
否、居た堪れずに私が切った。
先んじて強制的に会話を切り上げさせたのはチリちゃんだったけれど。
会話を遮って私の唇を奪うなんて蛮行、チリちゃん以外の誰が働くというのか。

「ふ、んん……っ、はぁ……チリ、ちゃ」

背後から顎を掬い上げられ、唇を塞がれる。
抵抗して顔を背けても、後頭部へ差し込まれた手によって再び抑え込まれてしまう。
散々口腔内を食い尽くされて、やっと解放された時には瞳に生理的な涙が滲んでいた。

「ええの? “ダンデくん”との電話、途中やったのに」
「チリちゃんのせいだよ……! 声、聞かれるところだった!」
「別に聞かれてもええんちゃう?」
「良くないから!」

しかも相手がダンデくんなのだから、絶対にばれたくはない。
チリちゃん本人はちょっとした悪戯感覚だったのかもしれないが、されるこちらはたまったもんじゃない。
「ドキドキしたやろ?」なんて戯けるチリちゃんに対して抱いた感情は、羞恥より、呆れより、沸々と腹の底から湧き上がる怒りだった。
まさに、怒髪天を衝く。

私は半べそをかきながらチリちゃんを睨め付け、腕の中から抜け出す。
今までとは明らかに様子の違う私に、さすがのチリちゃんも何かを感じ取ったのだろう。
しかし、遅きに失した。

「えっと……なまえ?(ヤバ、やりすぎてもうた)」
「……」
「……なまえちゃーん? その、チリちゃんな――ブフォッ」

デスクに置きっぱなしになっていた等身大モッチモチパピモッチぬいぐるみをむんずと掴んで、チリちゃんの国宝級の顔面目掛けて投げつける。
等身大という事もあって、実質パピモッチの体当たり攻撃だった。
その名の通り、モッチモチだから大したダメージは入っていないだろうが。
顔面にさく裂したぬいぐるみが床に落ちると同時に私は吐き捨てる。

「チリちゃんの……チリちゃんの、あんぽんたん! 大っ嫌い!」

今回ばかりは許せない。
そんな思いで吐き出した言葉だったはずなのに、何故だろう?
実に締まりのない滑稽な捨て台詞だった。


20221220


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