今日の私は、珍しく朝から安寧の時を過ごしている。
思い悩む事が何も無い――それが、こうも気分の良いものだとは思わなかった。
仕事は滞りなく進むし、また何かこの身に降りかかるのではないかという不安も杞憂も無い。

事務室で黙々と仕事に励んでいた私は、一段落ついたところで、同じく隣で軽快にキーボードを打鍵するボタンちゃんに声を掛けた。

「ボタンちゃんが朝からずっとリーグにいるの珍しいね」
「今日はアカデミー休講日で授業ないんよ。だからうちは奉仕作業」
「そっか……お休みの日まで大変だね」
「別にもう慣れたし。部屋にいたらネモとアオイにピクニックとかレイドバトルに駆り出されるし、こっちの方が楽」
「あはは。なるほど。みんな元気だね」
「特にあの二人は規格外だから」

ボタンちゃんとは初めこそ話しかけても「うん」だの「はい」だの一言でほぼ壁打ち状態の、お世辞にも会話と呼べたものではない独り言状態だったコミュニケーションも、ふとしたきっかけで今ではこんなにも話が出来るようになった。
それというのも、ボタンちゃんの手持ちポケモンがイーブイの進化系であり、その中でも私が彼女の手持ちでないエーフィを相棒にしていたからというポケモン繋がりからだ。
以前、昼休憩の際に互いのイーブイの進化系、通称ブイズを放った時のパラダイスと言ったらこれ以上の癒しはなかった。

定期的にこの癒しの会を開催しようねと約束をしたのは私とボタンちゃん二人の秘密。
ボタンちゃんが少し嫌そうな顔をしていたような気もしたが、そこは見なかった事にしよう。

「そういうなまえさんだって今日はずっと此処にいるの珍しいと思う……いつもチリさんに拉致られてる時間だし」
「ふふん、今日はね……チリちゃん午前中は不在なんだよね!」
「なんかめっちゃ喜んでね?」

そう、冒頭でも語った通り本日チリちゃんのリーグ出勤は午後からなのである。
最近気まずい出来事ばかりがひっきりなしに起こっていたので、こういったイレギュラーは願ってもない事だ。
とても有難い。
私の心の安寧に一役も二役も買っている。

ここで一つ訂正しておくが、午後からの出勤だからといって、チリちゃんは勿論午前中の仕事を放棄しているわけでは無い。
サボりだなんてとんでもない。
それこそ今回の仕事は彼女でなければならないーーチリちゃんの為に存在する仕事内容と言っても過言では無いと、私は思う。

「チリちゃん、午前中は雑誌の撮影らしいんだ」
「雑誌?」
「そうそう。パルデアの美男美女トレーナー特集」
「うわ、あからさま」
「勿論、リーグの事もきちんと宣伝してくるからって言ってたけど」

それが本来の目的だとチリちゃん本人は言っていたけれど。
オモダカさんもその事があったから承諾したらしいし。
実際チリちゃんの特集が掲載されたら、リーグそっちのけで皆チリちゃんの写真しか見ないのではないかと疑念を抱くが、なんせ部外者の私が事務室でああだこうだ言ったところでどうにもならない。

「チリさんの特集が組まれた雑誌は毎回売れ行きヤバいらしいって聞いたことある」
「そうなの?」
「チリさん、アカデミーの生徒からもめっちゃモテとるし、前も掲載された雑誌がすぐ売り切れてなかなか手に入らなかったって」
「さすがチリちゃん効果……恐るべし」

先日のアオイちゃんの事もあるし……確かに、一緒に街を歩いているとすれ違う人が揃って振り返り、チリちゃんに目を奪われていた。
特に女性の割合が多く感じたのは気のせいじゃ無い。
雑誌が発売されたあかつきにはアイドルよろしく読む用、保存用、切り抜き用と数冊買い込む人もいるのだろうか……。
いそうだな、あの美貌だもの。

「うちは、そんなチリさんに構い倒されてるなまえさんもなかなかだと思うけど。何者なん……」
「いやいやチリちゃんは別として、私はただの一般人だよ。村人B的な」
「村人Bって」
「昔馴染みで仲がいいけど、からかってるだけだよチリちゃんは……あはは」
「(チリさん……全然相手にされとらんし)」

ボタンちゃんは何か言いたげな、何とも言えない微妙な表情を浮かべて私を見ていた。
心なしか憐憫の情が滲んでいるような。
何か見当違いな事でも口走っただろうか?

そんな時だった。
私のスマホへメッセージが届いて、スマホロトムはご丁寧に差出人の名前を告げながら私の眼前をふよふよと漂う。

【“チリちゃん”からメッセージが届いたロト。画像も添付されてるロト】

噂をすれば。
事務室の時計を確認すると、針は昼前を指していて、時間的にもそろそろ撮影が終わる頃だろう。
ロック画面をスワイプしてメッセージを確認すると“待ち受けにしてええよ”と、よく分からない一言が。
そして、撮影で使用したと思われる衣装に身を包んだ見目麗しいチリちゃんの画像が添付されていた。

格好いい。美しい。芸術作品。顔面600族。
彼女を準える言葉の数々が脳内をぐるぐると回る。思わず、見惚れてしまった。
チリちゃんのファンなら幾らお金を積んででも入手したい代物ではないだろうか、この画像は。

「……」
「何の画像だったん? ……うわ、えぐ。また雑誌無くなるし……」

画面を凝視したまま微動だにしない私を見かねて、ボタンちゃんも同じく画面を覗き込む。
彼女の言葉が全てを語っていた。
そう、全て何もかもひっくるめて限界を突破すると人間語彙力を手放してしまう生き物なのだ。

えぐ。

***

その後、ボタンちゃんは早々に作業を切り上げて午前中一杯で奉仕作業を終わらせて帰って行った。
「それじゃあ、お疲れさまでスター」と、言い残して。
何だか癖になる……お疲れさまでスター。
今度私も使ってみようかと密かに心に決めて、ボタンちゃんを見送った次第だ。

午後からも勤務がある私は昼休憩でテーブルシティの街へと繰り出している。
当然その目的はお昼を買いに来たからだが、午前中はずっとパソコンと睨めっこの事務作業であったから気分転換も兼ねて外の空気を吸いにきた。
今日は日差しも暖かくポカポカ陽気で、とても過ごしやすい。
こういう日は外でお気に入りの店のサンドイッチとコーヒーを買って公園の広場で食べるに限る。
エーフィもボールから出してやって、日向ぼっこと洒落込むのも悪くない。

自然と軽くなる足取りで街中を歩いていると、突然ちょんちょんと肩を突っつかれた。
何かと思い振り向くと、そこには雑誌の撮影画像とは打って変わって人懐こい笑顔を湛えたチリちゃんの姿があった。

「なまえ」
「わあ! チリちゃん……びっくりした。撮影終わったの?」
「おん。ちょっと前にな。送った画像のチリちゃん美人さんやったやろ?」
「ははは、とっても」

はい、それはもう。
あんなのが雑誌に掲載されるのかと思うと、既にチリちゃんに心を奪われている人達の精神状態が心配でならない。
こうして今私の隣で笑うチリちゃんは、顔も名前も知らない数多の人達を夢中にさせている。なんて罪作りな。

「お昼これからやろ? 一緒に食べよ」

言って、チリちゃんは二人分のサンドイッチが入った紙袋を私に手渡す。
「コーヒーもあるで」と、付け足して。

「え、でも……悪いよ」
「ええよ、これぐらい奢ったる。チリちゃん結構稼いどるから、なまえを養うくらい余裕やで」
「んなっ、い、言い方ー!」
「ナハハ!いつでもお嫁にもらったるよ?」

冗談と分かっていても、ときめいて顔が真っ赤に染まってしまうのは不可抗力だと思うのだ。

公園のベンチに座って紙袋を開けるとサンドイッチとコーヒーが二つずつ入っていて、そのサンドイッチは今まさに私が食べたかったお店の物だったから、とても驚いた。
何でチリちゃんはそんな事まで分かってしまうのだろう。
コーヒーを取り出そうとすると、チリちゃんは片方を迷いなく掴んで私に手渡す。

「なまえはこっちな。砂糖とミルク多めのカフェラテ、好きやろ?」
「スパダリだ……!」
「せやろ? もう付き合ってまう?」
「あ、それは大丈夫かな!」
「なんでやの。なまえはホンマいけずやわ……チリちゃんがこない好きや言うてるのに」

何で、なんてそれはこちらのセリフだった。
何が良くて私なんかに構うのか。

でも、その言葉はそっと胸にしまっておいた。
初恋なんてそんな純粋で無垢で不確かな感情は私にはもう眩しすぎるから。
けれどはっきりと、きっぱりと、突き離せないでいるのはチリちゃんと一緒に過ごす時間が少しずつ私の中で掛け替えのないものになりつつあるからで――。

あーあ、大人って面倒くさい生き物だ。

「そういや自分、さっき送ったチリちゃんの画像待ち受けにしてくれたんやろな?」
「へえ!? あ、えっと……う、うん!した!したした!勿論」
「ホンマかぁー?」

嘘だ。してない。
だって、あの格好いいチリちゃんを待ち受けになんてしたら、スマホを見るたびチリちゃんで頭が一杯になってしまうではないか。
私の人生、おはようからおやすみまでチリちゃん一色になってしまう。

「ちょっと見してみ!」
「ああああ! 返してよ!」
「なまえー?」
「これにはのっぴきならない事情があります……」

即刻バレてしまった。
「そんなんかまへんわ」と、私からスマホを取り上げて、チリちゃんは慣れた手つきで操作する。
困り顔になったスマホロトムがチリちゃんの手から私の元へふよふよと漂って戻ってくると、送られてきた画像がきちんと待ち受け画面に設定されていた。
ご丁寧にどうも有難うございます。

「チリちゃん以外は禁止やで。よそ見したらあかんよ?」

よそ見とは?
そんな隙など一分も与えてくれないくせによく言うよ。

不貞腐れてサンドイッチにかぶりつく私を、チリちゃんは大層満足そうに眺めていた。
くそう、今日も今日とて顔がいい。


20221219


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