「まいど! チリちゃんやで」
「……」

もはや彼女にとって、その台詞はデフォルトなのだろうか?

本日二度目の“まいど!”を頂いたところで、どうこう言うわけでは無いが、この度に限っては場所が場所なだけに、何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。

「えっと……チリちゃん、これはどういう?」
「自分、水臭いわ。引越しの荷解きがあるんやったら声かけてくれたらええのに」

ここは職場ではなく、本日越してきたばかりのマンションの玄関先である。
チャイムが鳴って出てみれば、そこには思いもしないチリちゃんの姿があって、脳内は再び混乱状態に陥った。
今日一日で色々な事が起こりすぎて心身共に疲労困憊の状態であるのに、追い討ちをかけるかの如くここに来て無慈悲なチリちゃんの電撃訪問。

夢かな?

一旦、そっと玄関のドアを閉めた。

「ちょ、何で閉めんねん!」と、ドア一枚隔てた先でチリちゃんの声がする。
やはり、幻覚ではなく本物のチリちゃんであったらしい。
あまり騒ぐとご近所さんの迷惑になるので、顔半分覗く程度にドアを開けると、すかさずチリちゃんの手が掛けられた。

「……何故チリちゃんが私の引越し先をご存知なのですか?」
「敬語やめえ。オモダカさんから教えてもろたんや」
「ふーん……本当かな?」
「ほんまやって。仕事の後に荷解きするんは大変やから、手伝ったろーかなぁ思うただけや」

ジト目で問うと、場を濁す様に手に持っていた袋を私に押し付けつて、チリちゃんは中へ押し入って来る。
思わず受け取ってしまったが、一体中に何が入っているのだろう?

「これ、引越し祝いな」
「え! ありがと……ひいっ」

手渡された袋の中を覗くと、缶ビールが数本入っていてギョッとした。
昨日の今日で缶ビール。
忌々しき記憶の権化。
私は昨日以来、缶ビール恐怖症を発症中なのだった。

放心した私に構わず「邪魔するで」と呑気に言いながらチリちゃんは部屋に上がってしまった。

「お! エーフィ? へぇー、かいらしなぁ」

リビングに入るとボールから出していたエーフィがチリちゃんを出迎える。
特に警戒する様子はなく、寧ろしゃがんだチリちゃんの元へ自ら身を寄せているようにすら思えた。

「私の大切な相棒なんだよ」
「もしかして、一緒におったあのイーブイやった子?」
「……え、チリちゃん覚えてたの?」
「当たり前やん。エーフィに進化したんやね」

十年程前、ジョウト地方で暮らしていた時の事を、意外にもチリちゃんは細かく覚えていたらしい。
そして、エーフィもその時の事を覚えていたから警戒心を抱かず近付いたのだろう。

今も、心地良さそうに撫でられている。

「エーフィって、えらい懐いた状態やないと進化せんのやろ? エーフィもなまえの事大好きなんやね。チリちゃんと同じやな」

そんな風に、言葉の端々にしれっと恥しくなるような台詞を忍ばせるのは止めてほしい。
そんなつもりは更々無いのに、ときめいてしまう。

「おー、よしよし」と、チリちゃんは目尻を下げて上機嫌でエーフィを撫で回す。
その横顔は柔らかな笑みで溢れている。
そんな表情もするのかと、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ見惚れてしまった。

「なんや自分荷物これだけ?」
「ほとんど処分しちゃって。必要最低限の物しか持って来てないんだよね。その他の物は追々買い足そうと思ってて」

チリちゃんは、部屋に置かれた数箱の段ボールを見て、拍子抜けとばかりに落胆する。
だから、チリちゃんの申し出は有難かったけれど彼女の手を煩わせるまでも無かった。

「せっかく買って来てくれたんだから、冷たいうちに乾杯しよっか」

缶ビールの入った袋を持ち上げて見せると、チリちゃんは待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべる。
言わずもがな今度こそ何があろうと酒の失敗はするものかと心に誓って。

二人掛けのソファーに腰を降ろし、缶ビールを手に取ろうとすると、チリちゃんは自分が手にしていた缶を私に差し出す。
もちろんプルタブは開けられた状態だった。

「え、……ありがとう」
「どういたしまして」

もしや、チリちゃんの中で私はプルタブが開けられない奴認定されているのかもしれない。
爪の長さをもう少し短くしようと密かに誓ったところで、自然と目がいくのはチリちゃんの手元だ。
あの性癖を擽られた黒手袋は、今は彼女の手にはめられていなかった。

「手袋外しちゃったの?」
「ああ、あれは仕事の時だけやから。何や、もしかしてちょっと残念とか思うてる?」
「え!? お、思ってないし!」
「ナハハ! なまえ分かっりやすいわぁ。また明日つけたるから楽しみにしとき」
「楽しみとかじゃなくてね!?」

チリちゃんは喉を鳴らして、ゴクゴクとビールを流し込む。
缶を持つ彼女のスッと伸びた長くて綺麗な指を見てふと思った。

「チリちゃんは爪伸ばさないの?」
「爪?あー、整えはするけど伸ばそうとは思わへんな。必要性感じんわ」

必要性――まさか、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。

「それに……」と、続けながらチリちゃんは缶ビールをテーブルに置いて、私の胸元に人差し指をトンと押し当てる。

「大事な子の身体、傷付けたく無いし。……な?」

身体?傷付ける?
チリちゃんが一体何を言いたいのか分からず小首を傾げると、耳元でボソリと囁いた。

「昨日は役に立ったやろ?」
「――んなっ!」

その意地悪な笑みに彼女が何を言わんとしているのか、その全を理解した瞬間顔から火が出そうになる。

「だから! 酔っ払うの早いってば!!」
「缶ビール一本じゃ酔われへんよ……わざとやで?」
「チリちゃんんんん!!」
「アッハッハ!」

クッションでボカスカ叩いて反撃に転じてみても何の効果もないらしい。
本当に私はよくチリちゃんの手のひらで転がされる。

「今夜は絶対アルコールの力には屈しないから!」
「心配せんでも手ぇ出さへんから、安心しい」
「そっか……!」

安堵したのをいい事に、チリちゃんは隙を突いて私の顎へ指をかけ、上向かせる。

「チューはするけどな」
「へえ!?」
「ブハッ! あかん、なまえホンマおもろいわ」
「からかわないでってば!」

百面相する私をからかって遊ぶのは本当にやめて欲しいのだけど。
何気ない行動一つで私がどれだけ動揺して、振り回されてしまっているのか知らないくせに。
本当に心臓が幾つあっても足りやしない。

「けど……その可愛いい顔、チリちゃん以外に見せたらあかんで?」
「っ、」

一体どこまでが本気で、どこからが冗談なのか。
慈しむ様に細められた瞳は、少なくとも本気の方なのだと思いたい。

チリちゃんは、なんの前触れもなくサラリと――至極自然に、またしても私の唇を奪っていった。
チリちゃんにとって私の唇を奪う事など造作もないのだ。

「あーあ、さっさとチリちゃんのモノになったらええのに」

――ならないからぁ!

それは言わずもがな心の中の叫びであって、昼間と同様に固まったまま一時意識を手放してしまった。


20221216


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