「痛っ……あー、やっちゃった」

赤く腫れた足首を見て、溜め息をつく。
呆れと焦りが混ぜこぜになった感情に蝕まれた心は疲弊しきっていた。

柱稽古が始まり、早数週間。
自分より後にやって来た隊士が自分よりも先に進んで行く現実は、どうにも私に焦りを抱かせた。
無理は禁物と頭では理解していても、焦燥感はどうにも拭えない。

もっと頑張らないと。もっと努力しないと。
もっと、もっともっと。

柱稽古の後、連日の無理な自主練の末、その結果がこれなのだから救いようがない。

汲み上げた井戸水で患部を冷やしていると、地面を擦る音が耳に届く。
夜更けに誰だろう?
私以外にも自主練に励む隊士がいたのだろうか?

「なまえ?」
「!」

振り返る前に名前を呼ばれ、ピクリと体が震えた。
声の主は現在私が稽古で世話になっている柱で、同期の無一郎くんだった。
つい最近記憶を取り戻したらしい彼の声音には確かな感情が宿っている。
雰囲気も少し……変わったみたい。

単に“同期”と言っても齢十四にして柱の地位に就く無一郎くんと、階級もそこそこの万年平隊士の私では天と地程の計り知れない差が広がっていて、本来、“無一郎くん”なんて軽々しく名前を呼ぶべき相手では無いのだ。

「まだ起きてたの? 体を休める事も稽古の一環だよ」
「か、霞柱様……はい、もう休みます」

霞柱様。彼をそう呼ぶと、無一郎くんは寂しげに表情を曇らせた。

「足、どうかした?」
「えっと、これは……何でもないです。平気なので」

指摘され、咄嗟に隠すような仕草で右足を引っ込めると、無一郎くんは「平気じゃないよ」と短く言って、その場にしゃがみ込む。
片膝を付いて、隠した右足の具合を確認する。

患部を眇めつ観察した後、右側に軽く捻られて表情を歪めた。

「痛む?」
「少し、だけ……」
「骨は大丈夫そうだね。筋を少し痛めてしまっているけど、この程度なら冷やしておけばすぐ良くなるよ。氷嚢を取ってくるから、少し待ってて」
「あ……大丈夫です。ありがとう御座います霞柱様。水で軽く冷やしたので平気です。どうぞ、お気遣いなく」
「……」

今出来る精一杯の笑みを湛えてぎこちなく笑って見せると、無一郎くんは何かを言いたげに此方を見上げる。

「いつの間にか、名前で呼んでくれなくなったよね」
「え?」
「急に余所余所しくなったし……あと、その敬語も」
「それは……」

先程も語った通り、彼はもう雲の上の存在だから。
手を伸ばしても決して届く事のない、圧倒的な場所にいる。

柱に成り得る実力を持つ者が現れた年の選別合格者は多い。
理由は、その者が一人でほとんどの鬼を倒してしまうからだ。
私もその“当たり年”の一人。本来なら私は選別で落命していたに違いない。

自分に才能が無い事は、とうに分かっていた。
潔く身を引いて後方支援に回るのも選択肢の一つと言うことも、また。

それでも、諦めきれなかったのは彼の――無一郎くんの背中を追いかけていたかったから。
ただその一心で任務もこなして、柱稽古だって勇み足で参加した。
しかし、現実は自分の実力を思い知っただけ。

「……もう、雲の上の人だから」
「何それ」
「霞柱様は、私なんかが気安く話しかけていい存在じゃないんです……――っ、ん!」

一瞬何が起こったのか分からなかった。
真っ直ぐ見上げられる視線が痛くて、逃げるように目を逸らすと同時に腕を引かれる。
そのまま下から掬い上げるように無一郎くんの顔が寄せられた。
唇を奪われてしまったのだと理解出来たのは、無一郎くんの美しい顔が眼前に広がって暫くの事だった。

「勝手に決めつけないでもらえる? 自分で納得して解決させて、突然避けられる僕はどうすればいいの?」
「え、な……ええ?」
「ずっと抱えた僕の気持ちは、どうなるの?」

彼は、突然何を言い出すのだろう?

「僕の言ってる意味が分からない?」と尋ねる無一郎くんに対し、戸惑いながら怖ず怖ずと頷く。

「また昔みたいに名前で呼んで。敬語も要らない」
「無一郎、くん」
「もう一回」
「無一郎くん――」

気が付けば、立ち上がった無一郎くんの腕の中にすっぽりと収まって、きつく抱き竦められていた。

「あ、あの……」
「これからは、もっと沢山呼んで欲しい。大切な子に呼んでもらえると、自分の名前も特別な響きに聞こえるから。……どう? これで分かった?」
「っ、」

紅潮した私の頬を撫でる無一郎くんの眼差しは、とても柔らかなものだった。
鼓膜を揺らした甘美な言葉に私の頬が更に色付いて、耳まで真っ赤に染まってしまった事は言うまでもない。

「ずっと、君が好きだった」


20240728

【お題】
無一郎くんに下からキスされる。
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