「うぅ゛……無一郎ぐん、いっじょうのお願いでず……」
「は?(いっじょう? ああ……“一生”か)」
「髪を……無一郎ぐんの御髪を一房おぐれ」
「普通に嫌だけど。気持ち悪いなぁ」
「んがっ!?」

一応誤解が無いように言っておくけれど、これでも僕と彼女は良い仲だ。
涙と鼻水と涎と。顔面の穴という穴から出る物全部垂れ流して掴みかかってくる、この世のものとは思えない面をした恋人の願いを、僕は全力で突っぱねた。
だって気持ち悪いんだもん。

気持ち悪いの一言で片付けてしまったら、話がそこで終わってしまうので、一応話だけは聞いてやる事にしよう。
勿論、僕の髪を一房あげるつもりなんてこれっぽっちも無い。一房どころか一本もやりたくない。
打ち拉がれて、その場に膝をつき、ガクンと崩れ落ちる彼女と視線が交わるように、しゃがみ込む。

「何があったの?」
「無一郎くんとひと月半も離れるなんて生きていけない」
「何それ」
「宇髄さんからの依頼で、遊郭にひと月半潜入する事になって……」
「だから僕の髪なの?」

なまえはコクンと頷いた。
突飛な事を言い出した理由は取り敢えず分かったけれど、僕が頷け無いのは、その任務内容だった。
ひと月半もの間、潜入調査って。
しかも、遊郭と来た。何で遊郭なんだよ。

そこで少し胸がザワついて、やっぱり何だかんだ言って僕は彼女の事をちゃんと愛しているのだと再認識したわけだけれど、事情を把握して、次に湧いて出る疑問と言ったらこれを除いて他に無い。

“だったら何故、それを了承したのか”

泣く程嫌なら断ればいい。
ああ、でも彼女の立場では柱の宇髄さんは目上に当たるわけだし、平隊士である彼女が口答えも反論も叶うわけがない。
けれど、それは以前までの話だと思うのだ。
だってなまえは今、ただの平隊士じゃない。僕の継子兼恋人だ。
それを盾にすれば、僕の許可無しには動けない。勿論お館様と鎹鴉が持ってくる任務は例外だけれど。

「どうして断らなかったの?」
「う゛……の、退っ引きならない理由が、ありまし……て――んぶっ」

言って、彼女は顔を逸らした。
こういう時に顔を逸らすのは、だいたいろくな理由ではないと、彼女と過ごす時間を重ねるに連れて知った事だ。
だから、決してそれを良しとしてはならない。

「顔、逸らさないで」
「ふ、ふみまへん……」

彼女の頬をむんずと掴んで無理矢理に此方へと振り向かせる。
唇がタコみたいになって、話し辛そうだけれど知ったこっちゃない。
するとなまえは、顔を逸せないとなると今度は目線を僕から逸らした。小賢しい。

「ナメてる?」
「す、すみません……!」
「理由。聞かせて」
「っ、……怒らない?」
「内容によるかな」
「嫌いにならない?」
「それは、君の身の振り方次第かな」
「! は、話します」
「うん。手短にね」

暫くの問答を経て、ようやく僕は本題に触れる事が出来た。
さて、僕の髪を一房寄越せと言った彼女の口からは一体どんな大層な理由が聞けるのだろうか。楽しみだ。

「無一郎くんの……出没場所の情報を、宇髄さんのムキムキねずみさんをお借りして横流ししてもらってました」
「……は?」

なんだそのくだらない理由は。
僕の出没場所の情報を横流し?意味が分からなかった。
そういえば最近やけに外出先で会うなとは思っていたけれど。

成る程、これはなかなかに恋人に知られたくない事情かもしれない。何だか犯罪臭すら漂っている。
というか、恋人同士になって、継子にもなって、尚もまだそんな事をしないといけないのか……彼女は。その度の過ぎた行いを看過出来るほど僕は優しくも寛大な人間でもないので。
それでひと月半も離れ離れなんて本末転倒も甚だしい。

「くだらない」

僕は立ち上がって、彼女に背を向けた。
「む、無一郎くん……!?」と縋る様な声が背中に投げかけられたけれど、僕の意思は変わらない。
振り向いて、んべ、と舌を出した。

「自業自得でしょ。遊郭潜入、頑張ってね」
「そ、そんな……!」
「いい機会だから、自分の行いを省みたらいいと思うよ」

本当、どうしようもない恋人を持ったものだ。

***

とは言っても。
あんなどうしようも無い奴でも僕の恋人だから、長らく放っておくつもりなんて最初からなかった。
暫く潜入させて、日々の己が浅はかな行いを反省させようと思ったのだ。
そうでなければ、何が嬉しくてこんな場所へなまえを放り込むのか。
けれども、いくらそこに私情が挟まれようと、受けた仕事は仕事であるから、愚かな継子の尻拭いを師範である僕自ら行う羽目になった。

大体の状況は宇髄さんの元へ届いたなまえからの文で把握している。
だから今夜、僕がその決定打を見つけ出し、さっさとこの潜入調査を終わらせようという魂胆だ。
それに、いくら辛辣な言葉をぶつけても、やっぱり気になるのだ。

さてと。無駄に広く、立派な構えのこの遊郭で、僕の愚かで可愛い恋人はどこにいるのかな?

女物の着物に身を包んで、化粧を施して、髪を結って、簪を挿す。
いつだったか、一度旅館に仲居として潜入した事があったけれど、あれとはやっぱり訳が違うなと思った。
男女の欲望、愛憎渦巻くこの場所は、身を置くだけで気分が悪い。
僕は少しだけ、素行矯正の為とはいえなまえをこんな場所へ放り込んだ事を後悔した。
宇髄さんの調査任務も終えた事だし、早くなまえを回収しなくちゃ。

「(全く、何処にいるんだよ……)」

しかし、こうも広くては中々彼女の姿が見当たらず、段々と苛立ち始める。
そんな時だった。何やら廊下を折れた先で、男女の声が漏れ聞こえていたのは。

ああ、はいはい。取り込み中ってわけ。
そういう事をするなら部屋でしろよと思ってしまう。ただでさえ僕は今、なまえの姿が見当たらなくて虫の居所が悪いんだから。

踵を返そうとした時だった。
その漏れ聞こえてきた声が、聞き覚えのあるものであって、それと同時に全身を巡る血液が沸騰したみたいに熱くなる。
瞳孔が開く。怒りで震える。思考するよりも身体が動く。こんな感覚を、僕は初めて覚えた気がした。

「ちょ、やめてくださ……――っ!?」

ダン!と、彼女に言い寄っていた客に掴み掛かって、乱暴に引き剥がすなり壁に押し付けた。
一瞬の事で抵抗する事も叶わないまま、男はただただ驚いた表情で僕を見る。

「汚い手で、なまえに触るな」
「んなっ、何だお前、は――っ!」

鳩尾に一発。トドメに首へ手刀を一撃入れると、男は気絶した。
一般人相手に僕はとんでも無い事をしてしまったなと、のびた男を見てやっと正気を取り戻す。
いや、まあ、いいか。なまえに気安く触った罰だもの。

このまま放置しても良いけれど、バレたら面倒くさいので、そこら辺の空き部屋に男を放り込んでおいた。証拠隠滅、完了。

脱力して、その場にへたり込むなまえは、呆然としてこちらを見上げていた。
僕はその場にしゃがみ込み、そっと彼女を抱き寄せる。

「む、無一郎……くん?」
「ごめんね駆け付けるのが遅くなって。怖かったでしょ?」
「う、ううん……平気。でも、あの、その格好は?」

格好を指摘されたけれど。彼女は平気だと言ったけれど。そんな説明は後回しだ。
平気じゃないから。全然平気じゃないんだ、僕が。

「アイツに何処触られたの?」
「え?……特には何も、大丈夫だよ! 無一郎くんが駆け付けてくれたから!」
「いいから。言って。さっき腕掴まれてたよね?」
「掴まれたけど、でもその程度で……――っ、ん」

僕は、彼女の手首へ口付ける。そして、舌を這わせた。
嗚呼、なんだったっけ……聞いた事があったような気がする。よく覚えてはいないけれど、確かここの遊女達が話していたのを聞いたんだっけ?
手首への口付けは欲望の意味があるのだと。上手いこと言ったものだよなと思った。
確かに、僕は欲しているもの。なまえの事を。旅館でのあの時も、今この時も。

掴んでいた手首を離し、今度は両手で彼女の頬を包み込む。そのまま顔を寄せて唇を塞いだ。

「んん、ぅ……は、ぁ……」
「なまえ、口開けて……はぁ、っ……」

戸惑いながらも薄っすらと開かれた唇を割り入って、口内へ舌を滑り込ませる。
執拗に舌を絡めて、脱力する彼女の身体を抱き締めながら、僕は思う。
これじゃあまるで、やってる事はさっきの客と一緒だなって。
けれど、欲しいんだ……今、彼女がどうしようもなく。

此方へ近付いて来る足音に気付いて、僕はなまえに問う。
こんな状況でその問いかけは卑怯だと思うけれど、仕方がない。

離れるのを拒むみたいに、互いの舌を繋ぐ唾液がプツリと切れた。
乱れた呼吸と、上気した頬。涙の膜で潤んだ瞳が訴える様に此方を見上げていた。
今更、こんな事を聞くのはで無粋で愚問かもしれないが、こういう行為は互いの想いが存在してこそだと思うから。

「ねぇ、僕はこのままなまえを放したくないんだけど……どうする?」
「っ、その聞き方は……狡いよ」
「そうかな?そんな顔で僕を見上げるなまえだって十分狡いと思うけど」

脱力した彼女を抱き上げて、空き部屋へ雪崩れ込む僕達は、そう、お互い様なのだ。
女の格好の僕に欲情するなまえも、こんな状況下ですら我慢が効かなくなった僕も。

所詮は似た者同士って奴。


20200507
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