(!)無一郎が記憶を取り戻し済み。


私は今、困っている。
とても、とても、とーーーーっても困っているのだ。
それはもう生命の危機を感じる程に。

「胡蝶さん……私、鼻血が止まらないんです。事ある毎に鼻血を噴いてしまって気絶してばかりだし、このままではいつか出血多量で死んでしまうと思うんです」
「はい?」
「私はいつか無一郎くんに殺されるんだと思います。だって一挙一動……いいえ、もはやその域を出た一挙手一投足に魅了されてしまって……」
「ええっと……とにかく一旦落ち着きませんか?」
「だって最近、塩だった無一郎くんが、甘塩っぱいんですよ!? 私を仕留めに来ているとしか思えない! だから……鉄剤をください!!」
「……みょうじさん、興奮するから鼻栓が飛びましたよ?」

溜め込んだ感情を一思いに吐き出したせいか、いつぞやのように鼻血でカピカピになったちり紙の栓が鼻の両穴からポン!と勢いよく飛んだ。

流石は柱の胡蝶さん。飛ばした鼻栓を笑顔のまま首を傾げて容易く交わしたかと思うと、そのまま私の背後に視線をやって「ですが、その心配はなさそうですよ?」と微笑んだ。

「やっぱり此処だと思った」

私の何処をどう見で心配無いのかと怪訝な表情で首を傾げた直後、背後から聞き慣れた声がして心臓が大きく跳ねる。
前屈みになっていた背筋も条件反射で瞬時にビシッと垂直に伸びた。
そして、私は背後を確認する間も無く襟首を掴まれてしまう。

「ぐえ! ……む、無一郎くん!」
「捕まえた。全く……ちょっと目を離した隙に屋敷を抜け出して。此処で何をしてたの? 胡蝶さんに迷惑かけないでよ」
「うう……すみません」

貴方のせいで生命の危機に瀕しているのだとは面と向かって言えるはずもなく、私はただ一言小声で詫びた。

けれど、これだけは言わせてほしい。
私は決して無一郎くんから逃げたわけではなかったし、胡蝶さんに迷惑をかけるつもりも無かった。
ただ助けが欲しかったのだ。縋れるものが欲しかっただけ。
行いそのものが迷惑を掛けているのだと指摘されてしまったら、それまでの話だけれど……。

無一郎くんが銀子ちゃんのお腹を撫でる“ほわほわタイム中”だったので、相談するなら今しか無いと思い立ち蝶屋敷を訪ねた。
二人(正確には一人と一羽)の時間に水を差すのはよく無いと思い、声を掛けずに屋敷を出たのは確かだ。
だから、事情を知らない無一郎くんに“脱走”と捉えられてしまっても仕方がない。

「お迎えが来て良かったですね、みょうじさん。先程の悩みは鉄剤では治りませんので、是非、悩みの種である時透くんに相談して下さい」
「僕?」
「わああああ! こ、胡蝶さん他言無用です!!」
「え? あら……ごめんなさい」

ごめんなさいで済んだら警察――否、鉄剤はいらないんですよ、胡蝶さん。

ついうっかり。そんな風に口元に手を当てがう胡蝶さんによって、おそらくこの後に開かれるであろう無一郎くんによる尋問タイムは避けられない状況となってしまった。
こうなれば無一郎くんは納得するまで解放してくれないだろう。

「何だか色々と聞かなくちゃいけない事があるみたいだがら連れて帰ります。胡蝶さん、なまえが迷惑を掛けてしまってごめんなさい」
「いえいえ、迷惑だなんで。私は何も(逆に私がみょうじさんに謝らないといけないかもしれません)」
「ちょ、待……ぐえ!」

無一郎くんによって問答無用とばかりに隊服の襟首を掴まれ、引き摺られながら退室を余儀なくされた。

ズルズルズルと、無一郎くんは後ろ手に襟首を掴んだまま私を引き摺って歩くものだから、私の尻は蝶屋敷でもモップの役割をしっかりと果たしていた。

こんな風に少々手荒い扱いが当然であった私にとって、最近の無一郎くんはどうにも落ち着かない。
だからといって、別に無一郎くんを受け入れられないわけじゃない。断じてそんな事は。

けれど、胡蝶さんに打ち明けた通り、最近の無一郎くん……つまり、失くしていた記憶を無事取り戻した“本来の無一郎くん”と“以前の無一郎くん”との間で生じた変化に私が順応出来ないだけ。

その変化は喜ばしい事であるし、私だって、いつか彼の記憶が戻る事を切に願っていた。
しかし、いざ記憶が戻ってみると、その変わりように私の心臓が耐えられる筈が無かったのだ。

茫洋としていた瞳に光が宿った。
語調が和らぎ、表情に喜怒哀楽が芽生えた。

つまりは、私の知らなかった本来の無一郎くんが、戻って来たのだ。

彼に対する好意に気付いてからというもの、今までの無一郎くんでさえ私は堪らなかったのに、ここに来てそんな魅力的な一面を際限なく押し出されてみろ。
しかもそこには、変わらず私への愛情が存在する――もう、彼の一挙手一投足に鼻血を垂れ流すのは致し方がない。

私があれやこれやと思いを巡らせているうちに玄関まで辿り着いて、そしてそのまま二人肩を並べて霞柱邸までの帰路につく。
胡蝶さんの部屋を出てから無一郎くんは何も喋ってくれないので、私は自分より頭半分高い位置にある彼の顔をチラチラと盗み見る。
すると、その視線に気付いたのか、無一郎くんはこちらへ視線を寄越し、歩を止めた。
光が宿った瞳には、今まで感じられなかった彼の確固たる意志が宿っているようにも感じて、絡まった視線を逸らす事が出来なかった。
つられて足を止めると、無一郎くんは漸くその口を開いてくれた。

「あのさ、蝶屋敷に行ったのは僕が原因だっていうのは本当なの?」
「……えっと、その」
「まあ、何となくは分かっていたけど。僕が記憶を取り戻してからずっと様子が変だったし、余所余所しいし、目もろくに合わせてくれなかったしね」
「う……」
「前の僕の方が、良かった?」
「っ!」

嘲笑気味に吐き出された言葉が胸に突き刺さった。
やっと無一郎くんは記憶を取り戻せたのに。本当の彼自身に戻れたのに。そんな無一郎くんに“前の方が良かったか”だなんて――私は彼になんて事を言わせてしまったのだろう。

無一郎くんは眉を下げ、困ったように小さく笑った。
こんな微細な表情だって垣間見える。
他の何者でもない、私の目の前の彼は本当の無一郎くんであるのに。

「そ、そんな事ない!」
「!」

往来であるにも関わらず大きな声をあげてしまった為に、衆目が一挙に私達二人へと集まった。
視線の先の無一郎くんも声の大きさに驚いて双眸を見開く。
そして、尚もその声量のまま言葉を続けようとするものだがら、無一郎くんは少し慌てた様子で私の口元を手で覆い隠し、その辺の路地へと引っ張り込んだ。

「むごご――ぷは! ……無一郎くん?」
「ちょっと、あんな人通りが多い場所で急に叫ばないでよ」
「え? あ、ああ……ごめん、その、つい」
「それで? 違うなら、何がどう違うの?」

私を捉える眼差しには、呆れの色が混じっていた。
それも仕方のない事だった。無一郎くんが記憶を取り戻してからというもの、前述したように最近の私ときたらそれはそれは酷い有様だったから。
余所余所しく、まともに顔も見れず、鼻血ばかり出して失神する始末……。
まだ他にもあるが、それら全てを挙げていたのではきりがないので以下省略。

生憎と此処は狭い路地であるから、逃げ出す事は不可能だった。
それも踏まえてこの狭い路地に私を引き摺り込んだのなら、無一郎くんはどこまでも抜け目がない。
だとすれば、私に残された選択肢なんて潔く降参して、観念して、全てを洗いざらい話す事くらいだろう。

「む、無一郎くんが……」
「僕が?」
「無一郎くんが、甘塩っぱい……から……です」
「……」

これ程までに簡潔で、私の心境をピタリと言い表せる言葉は他に無いと思う。
無いと、思ったのだが……。

無一郎くんはじっと私を見つめたまま、眉を潜めて訝しげな顔をする。
一呼吸置いて何か考えるような仕草を見せるが、それでも合点が行かないからか、頭を擡げて再度思案する。
けれど結果は同じだったようで、結局、沈思黙考した彼の口から紡がれた言葉といえば、「……は?」であった。なんとも呆気ない。

「ごめん、ちょっと意味が分からないんだけど?」
「な、何で!?」
「だって、何が言いたいのかさっぱり分からない。僕が甘塩っぱいってどういう意味?」

勇気を振り絞った私の告白は、残念ながら無一郎くんに届かなかったらしい。何と言う事でしょう。

「だから、その……最近の無一郎くん、気持ちを素直に口に出してくれるようになったから……は、恥ずかしくて」
「え?」

今度こそ、これ以上ないほど分かり易く胸中を吐露したのに、無一郎くんはまたしてもキョトンとして双眸を瞬かせた。
先程の言葉の何処に瞬く要素が含まれていたのか甚だ疑問である。

私は自分の気持ちを形容する術を他に持ち合わせていないので、さらに言及されてもどうする事も出来ない。
問われても、これ以上は何も出てこないのだから。

壁に背を預けながら蟹歩きでなんとかこの場から逃げ出そうと試みる。
狭くてかなわないこの路地は、二人が対面で向かい合うとほんの僅かな余裕しかない。
そんな狭い場所で逃げ出そうだなんて浅はかな行動を無一郎くんが見逃してくれる筈もなく、顔の真横に手を突かれ、一瞬で逃げ道を塞がれてしまった。

「僕がこのまま逃すと思ったの? ちゃんと、なまえの気持ちを確かめるまで放さないから」
「ひぃ……!」
「ねえ、なまえ……恥ずかしいだけ?」

片手だけでなく反対側にも手を突かれ、両端を塞がれる。いよいよ逃げ道どころか逃げ場すら無くなった。
袋の鼠とはまさにこの事。

「む、むむむ無一郎くん!?」
「逃げないで、ちゃんと答えて」

しかし、その強引な行為とは裏腹に口を衝く言葉は懇願に満ちている。
戸惑うばかりで何も出来ないでいると、無一郎くんの腕の中に閉じ込められた。
抱き竦められ、彼の艶やかな長髪が頬を掠める。

「なまえ、もっと今の僕を好きになってよ」
「も、ももももうっ、十分すぎるくらい好きだよ……!」
「そんなの全然足りない。もっともっと好きになって。……僕と同じだけ、なまえにも求めて欲しい」
「無一郎、く……」

その言葉は今までの記憶を無くしていた彼からは決して聞くことの出来ない本音であると思った。
これは記憶を取り戻した彼の本心からの、嘘偽りのない言葉。
くらりと眩暈がして、甘ったるい彼の愛情に溺れてしまいそうだった。

互いの鼻先が触れて、最後はただただ無一郎くんの熱い吐息に混じった独り言のような愛が私の唇を撫でた。
「今の僕じゃなきゃ駄目だって思えるくらい――」と囁かれた言葉ごと、深く唇が合わさった。

優しいけれど私の感情を丸裸にするような口付けだな……と、蕩けた頭でぼんやりと思う。
段々と重ねるだけでは足りなくなって、無一郎くんの熱い舌が閉じられた唇を割って歯列をなぞる。
中に入りたいと求められるその行為は些か強引であるのに、少しも嫌ではなかった。
いっそこのまま彼に隅々まで奪われたいと望む情欲がその舌をおずおずと受け入れる。

「んぅ……は、ぁ」
「ん、……なまえ」

長い長い口付けから解放され、柔らかに解けた眼差しが真っ直ぐに注がれた。
「好きだよ」と囁く声は融けて落ちそうな程に甘く、いよいよ私を極限まで追い詰めた。
早鐘を打つ心臓がこのまま爆ぜてしまいそう。

またもや限界を突破してしまったらしく、私は性懲りもなく卒倒した。
勿論お約束のように鼻血を垂れ流して。

「……はぁ。ちょっと、また鼻血?」
「私の人生、悔いは無い……です……」
「鼻血で人生終わったら悔いしか残らないと思うんだけど。相変わらず君の頭はおめでたいね」

こんなにも貴方に求められて、惜しみない愛情で満たされて、私は世界一の幸せ者だと鼻血を垂らしながら噛み締める。
ああ、本当……甘塩っぱいなぁ。

20200709
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