「あづい……とけるー……」

井戸から汲み上げたばかりの冷たい水を張った大きめのたらいを抱えて中庭を歩いていると、縁側から死にかけのような声がして思わず足を止めてしまった。

つい先日梅雨が明けて、本格的な夏がやってきた。
特に今日は夏本番といった茹るような暑さに見舞われている。
梅雨は雨ばかりで気が滅入るだとか、洗濯物が乾かないだとか、じめじめして蒸し暑いなんて毎日のように喚いていたなまえだったけれど、いざ梅雨が明けたら明けたで今度は暑くて死んでしまうと嘆く。
梅雨が明けようが明けまいが、結局文句しか言わないのだから。

まるで無脊椎動物のように縁側で伸び切った彼女に、もはや女の恥じらいなんて存在しないのかもしれない。
きっとこの暑さで恥じらいも理性も溶けて蒸発してしまったのだろう。

「今日はまた一段とだらしない格好だね」
「無一郎くん……どうにもこうにも暑すぎて、任務が入らない限りは動きたくなくて……それは?」
「涼む?」
「…………、ぶっかけないでください!」
「は?」

なまえは、僕の抱えたたらいを見て何を思ったのか、暫しの沈黙を経た後、だらけきった体勢から途端に跳ね起きる。
何をそんなに慌てているのかよく分からないが、ぶっかけるなんて……ああ、なるほど。この水を気付けとしてぶっかけられると思ったのか。

「別にそういうつもりで持ってきたわけじゃ無いけど、そんなに掛けて欲しかったらそうしてあげようか?」
「え、違うの? なんだぁ、良かったぁ……あははは」

全く、なまえの思考はいつも常軌を逸しているというか、変なことばかりを口にするのだから。
この暑さで頭が沸いているのではないだろうか?
それなら尚更、たらい一杯の水を頭からぶっかけるに限るけれど、良く考えるとなまえは普段からこんな感じだった。

相変わらず無表情のまま脳内で全て完結させて、抱えていたたらいを足元へ置く。
なまえと横並びに縁側へ腰を下ろすと、履いていた草履を脱ぎ、ついでに足袋も取っ払って、隊服の裾を何重にも折り曲げた後、足をたらいの中へと浸した。

「おお!」と、傍で感嘆の声を上げるなまえ。

「なまえも早く入ったら? その為にわざわざ大きめのたらいを物置から引っ張り出してきたんだから」
「いいの!? やったー!」

先程まで縁側で溶けて伸びていた時とはえらい違いで、浜に打ち上げられて死にかけていた魚が再び海に帰ったようだと思った。水だけに。
良かったね。干からびて干物にならなくて。

それにしても嬉しそうだなと、この気温に負けず劣らずの暑苦しさに呆れているそばから「お邪魔しまーす!」と無邪気に言って、足をたらいに突っ込んできた。
無遠慮に突っ込むものだから、たらいに張った水が豪快にバシャン!と飛び散る。

「ちょっと、もう少しおとなしく入って来れないの?」
「あ、ごめんね! ふいー、生き返る……」
「(絶対ごめんなんて思って無いだろ)」

良く言えば無邪気。悪く言えばがさつ。
相変わらずな調子の彼女に、僕は溜め息をつく。
少しでも涼みたくてたらいに水を張ったのに、早くもその効果が薄れてきたような気がしてならない。

「無一郎くん、冷たくて気持ちいいね!」
「!」

なまえは満面の笑みでそう言った。
途端に視界に映った彼女がキラキラと輝いて見えて、思わず目を瞑ってしまいたくなる真夏の太陽にも負けない程の眩しさであるのに不思議と目を逸らせなかった。
キラキラ、チカチカ――嗚呼、星が見える。

眩暈を覚えたのは、僕もきっとこの暑さにやられてしまったからだろうか?
「うん」と短く返す事しか出来なかった。

そこからは、なまえが話すどうでもいい事柄の数々に永遠と耳を傾けた。
弟弟子と行った甘味処でかき氷を食べて美味しかったから今度一緒に行こうだとか、最近階級が一つ上がったのだとか。
たまに相槌を打ちながら、良く喋るなぁ……なんて思いつつ足元の涼を感じながら穏やかな時間を過ごす。

「あ、ごめんね。私ばかり、ついつい喋り続けちゃって」
「それで?」
「え?」
「続けて。……なまえの話、聞きたいから」
「う、うん……うん!」

もっと、聞いていたいから。
なまえの至極どうでもいい他愛ない話に耳を傾ける事が、どうやら僕は好きみたいだ。
特に理由はないけれど、心地がいいと思うのだから、それだけで十分な気がした。

嬉しそうに再び話し始めた彼女を横目で捉えると、一つに結えられた髪の下から覗く項に視線がいく。
もっと話が聞きたいと言ったのは僕自身であったけれど、なまえには申し訳ないが意識を全てその項に絡め取られてしまって。
暑さを一層感じさせる蝉の鳴き声と、足元の水の冷たさと――。

「それでね、今度……――ひぎゃ!?」

色気の無い声と共にバシャリと溢れた水音が辺り一帯に響く。
我慢ならなくなって、僕は、ベロリと彼女の首筋を舐めた。

「んなっ、何事!?」
「うーん、何となく……舐めたくなったから?」
「何となくで舐めないで! しかも、私汗かいてるし……」
「うん。しょっぱいね」
「か、感想なんて要らないよ……!」

舌を這わせた首筋を手で覆い隠して、真っ赤になりながら喚く彼女など意に介さず、今度はたらいの中の足先をなまえの足の指へ絡ませる。
上から被せてみたり、指先で足の甲を撫で上げ、そのまま足の裏へ滑り込ませて弄ぶと益々なまえは頬を紅潮させた。
その反応に嗜虐心を擽られて、足先に気を取られている隙に手を重ね、指を絡ませる。

「う、ぁ、わあああ! ちょ、無一郎くん!?」
「何?」
「今、そういう雰囲気になるような要素あった!?」
「さあ、どうかな……でも、僕もこの暑さにやられてしまったのかも」

なまえは手を引こうとして、しかし、それは叶わなかった。
正確には、僕が重ねていた手で彼女の手首を掴んで離さなかったからだ。
こういった雰囲気になった時、なまえは一旦逃げ出そうとする癖がある。そうはさせるものか。

「残念だったね。逃げられなくて」
「無一郎く、ん……! あの、ちょっと……」

動けないなまえをいい事に、僕は焦らすような仕草でゆっくりと顔を近づける。
少し顔を傾けて鼻先をわざと擦り合わせると、彼女は頬を赤く染めたまま瞳を潤ませた。

「……そういう顔が、見たかったんだ」
「っ! ……そういうところ、本当に狡いよ」

楽しそうに表情を綻ばせて話をするなまえも可愛らしくて好きだけれど、今は――僕だけしか知らない君が欲しい。

「せっかく涼んだのに、また暑くなっちゃった……無一郎くんのせい!」
「そっか。じゃあ、責任取るよ」

「おいで」と言って、引いた手は熱かった。
それは彼女の手が熱かったのか、はたまた自分の手であったのか……まあ、どうでもいいか。
どうせ、これから手と言わず全てが溶けてしまいそうな熱に溺れるのだから。


20230722
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