今から思えば、どうして僕はあんなにも腹を立ててしまったのか甚だ疑問だった。
自分自身の事であるのに、だ。
思えば思うほどに可笑しなものだが、けれど、そのよく分からない感情の出所はいつまで経っても突き止められずにいる。

ただ、彼女が嬉しそうにその手紙の話をするものだからどうしようもなく苛ついて、気付けば僕はそれを破り捨てていた。

彼女が霞柱邸を飛び出して、ひと月が経つ。
あの日、着の身着の儘屋敷を飛び出したなまえを僕は引き止めなかったのだから、今更戻って来ない彼女に対してどうこう言えた立場でない事は重々承知している。
あれっきり――僕に暴言を吐き散らかしたっきり戻って来ない継子なんて、知らない。
音沙汰もなければ、手紙の一つもよこさない恋人なんて、知ったことか。

それでも頭でいくら考えたって、言葉でいくら罵ったって、人の心というものはままならないものであるらしい。
それこそ心の赴くままに彼女が使っていた部屋に入って文机の引き出しを引くと、そこには僕が真っ二つに裂いた筈の手紙が後生大事に仕舞われていて、そればかりかご丁寧に破れた箇所を貼り合わせてある。

他人の詮索なんてするだけ無駄だと思い知った。
だって現に、余計な物しか見当たらなかったから。

「……」

僕のままならぬ心には、また一つ影が落ちる。
影?いいや違う。そんな緩いものじゃ無い。
ポツリと心に一雫、黒い点が落ちて、それがじわりじわりとシミのように広がっていく感じ。
日に日に滲んで、黒に蝕まれる……そんな感じ。

その手紙を今度こそ処分してやろうと思って、伸ばしかけたところで僕はその手を止めた。
もしも、僅かに残った僕の良心がそうさせたと言うのなら褒めてやっても良いのかもしれないけれど、残念ながらそうでは無いと思う。
そんな事をしてしまったら今度こそ僕はなまえと終わってしまいそうな気がして、怖かったのだ。

怖い。彼女を失うかもしれないなんて、そんなもしもの可能性が、僕は怖いと感じている。

随分と焼きが回ったものだと思った。
いつの間にこんな感情が根を張っていたのか。心に巣食っていたのか。
いつの間にこんなにもなまえの存在が僕の根底を揺るがすほどに大きなものになっていたのか。

――分かったよ、白状する。

本当は、直ぐに戻ってくるとばかり思っていた。
私が悪かったよ、ごめんね無一郎くん。そう言っていつものように、べそをかきながら僕の元に戻って来るとばかり思っていたから。
だから僕は、この状況に少なからず参っている。

「早く戻ってきなよ……今なら、特別に許してあげるから」

ポツリと吐き出した言葉は、静まりかえった一室に小さく響いて、誰にも届く事なく消えたのだった。

***

「無一郎くん……!」

柱合会議の後に珍しく声をかけられて、ゆったりとした所作で振り向くと、今し方僕を呼び止めた甘露寺さんが何やら思い詰めたような顔でそこにいた。
彼女に呼び止められるような事をした覚えがなかった僕は、小首を傾げる。
覚えがないなどと言いながら、僕の場合はただ単に覚えていないだけ……なんて可能性が十二分にあり得るから、とりあえずその呼び止めに応じた。

少し離れた場所から眼光鋭く僕を睨め付ける伊黒さんが視界に入ったけれど、気が付かなかった事にしよう。
だって僕は呼び止められたってだけで、甘露寺さんに何をしたわけでもないのだし。

甘露寺さんは、大きく開いた隊服の胸元から今にも溢れ出んばかりに豊満な乳房を揺らしながら此方へ駆け寄って、身を寄せながら小声で話を切り出した。
チクチクと刺さるような伊黒さんの視線が、この身を貫かんとせん剣呑な物に変わったが、何度も言うようだけれど、僕は何もしていないので無視を決め込む。だって本当の事だし。

「急に呼び止めてごめんね? あの、それでね、無一郎くん最近なまえちゃんとは仲良く出来てるのかなって思っちゃって……」
「え? ……どうしてそんな事を聞くんですか?」

彼女は――甘露寺さんは、僕となまえの関係を知る内の一人だ。
何を隠そう、なまえがふろふき大根を作れるようになったのは、他でもない甘露寺さんのおかげである。
甘露寺さんの介添えの末に、唯一なまえが胸を張って料理と呼ぶ事を許された特別な一品であり、貴重な一品だ。
何故ふろふき大根であるのか、理由は答えるまでもなく僕の好物であるからだった。

甘露寺さんを見ていると否応にもなまえの事を連想させてしまって、今の僕には酷く残酷だった。

「この間、町でなまえちゃんを見かけたの」
「なまえを? 何処の町で見たんですか?」
「私が管轄する地区だったんだけど、なまえちゃん何だか元気がなくって。八百屋で大根を眺めながら今にも泣き出しそうな顔をしていて……それで、」

え、何?大根?

人違いじゃないですか?と切り出そうとして、それは間違いなくなまえだろうという確信に変わった。
だって、大根を見ながら今にも泣きそうな顔をする人間なんて、全国津々浦々探し回ったってなまえしかいないだろう。
実に彼女らしいと言うか、彼女そのものと言うか、真髄とでも言うのだろうか。
思い詰めた表情で売り物の大根を眺められたんじゃあ、さぞかしその八百屋もいい迷惑だったろうに。
そんな彼女の姿が目に浮かぶようだった。

「あまりにも元気がなかったから、どうしたのかなと思って声を掛けたの」
「……」
「その時は私も任務中だったから時間が取れなくて、今度蜂蜜たっぷりのパンケーキを焼くから、無一郎くんと一緒に屋敷に遊びにきてねって誘ったら……なまえちゃん、突然滝のような涙を流して泣き出しちゃって」
「……(滝って)」

相変わらず所構わず人様に迷惑をかけて、一体何をやっているのだろう?僕の継子兼恋人は。

「甘露寺さん、なまえが迷惑を掛けてすみません」
「ううん、ううん! そうじゃないの! それは全然迷惑とかじゃないから大丈夫。でもね、気になったのはその先で……。なまえちゃん、私に言ったの“もう、無一郎くんと一緒には行けないかもしれません”って」
「!」

何それ。もう、僕らはそれっきりですって、そういう事なの?
あの日の事は既に彼女の中で過去の事になっていて、終わった事になっていて、悩むまでもなくあれっきり修復する事もなく僕達は終わってしまっているって、つまりはそういう事?

ざわざわと、心が音を立てていた。
「だから、大きなお世話かなって思ったんだけど、二人が気になって……」と、僕達の仲を心配してくれる甘露寺さんの言葉は、申し訳ないけれど耳に入っては来なかった。
だって、僕の中では何一つとして終わってなんていないもの。
答えなんて出ていない。
ただ心が、日に日に黒く影を落として、濁った色に染まりゆくばかりだ。

「破ったんです」
「え?」
「僕、なまえの大切な手紙を目の前で破ったんです」
「え!? や、破るって一体……」
「本当はそんな事するつもりなんて無かったと思う。でも、男から貰った手紙を大切そうにしているなまえを目の当たりにしたら、つい手紙を取り上げて、破ってた」
「無一郎くん……」
「それから、なまえは屋敷を出て行ってしまったんです」

自分でもよく分からない。あの時、何故あんな事をしてしまったんだろう?って。
そして、それを甘露寺さんに話して、僕は何がしたいのだろうかと、ますます自分自身が分からなくなった。
甘露寺さんに話をしたところで、何も解決なんてしないのに。

完結に事のあらましを話し終えたところで、甘露寺さんは急に僕の手を取り、ぎゅうっと握り締める。
そして、身を乗り出し、言った。

「無一郎くんはなまえちゃんの事が大好きなのね!」
「え?」
「確かに手紙を破ったのはちょっと……あれだけど……だって、それは無意識でも、無一郎くんがなまえちゃんの事が大好きだから、その手紙の差出人の男の子になまえちゃんの気持ち向けられるだけでも嫌で、取られたくないって気持ちが強かったからでしょう?」
「……え?」
「なまえちゃん、無一郎くんにそんなに思われて、幸せね。ふふっ、私までドキドキしちゃうっ!」

僕は茫洋とした瞳で甘露寺さんを見つめ返した。
僕の手を握る甘露寺さんの手に力が籠ったけれど、思ってもいない言葉を矢継ぎ早に浴びせられて、思考が停止し、まるでその場に取り残されたような気分に陥る。
想定外も想定外。もっと言えば、ちょっとした小宇宙にぽいっと放り込まれたような感覚だ。

それでも、甘露寺さんは固まった僕を気にも止めず、縷々述べる。
それから彼女は最後にとても暖かで、柔らかな笑顔を湛えて僕に言ったのだ。

「無一郎くん、そのモヤモヤした感情を何て呼ぶか知ってる?」
「知りません」

僕は、その感情の正体が何であるのか知りたかった。
彼女から手紙を取り上げて、破いて、酷い言葉の羅列で彼女を嬲った。
こんな真っ黒い感情、僕は知りたくなんてなかったし、彼女と関わらなければこの先もずっと知る事のなかった感情だったろう。

「ヤキモチよ」
「!」
「無一郎くんは、なまえちゃんの事が大好きなんだって証拠よね。とっても素敵」
「ヤキモチ……」

即ち、嫉妬。
嗚呼、そうか。そうだったのか。僕は彼女の目に映るものが、彼女の琴線に触れるものが、心を支配するものが――言ってしまえば、彼女の一切合切が総じて僕じゃないと嫌だって、そういう事であったのだ。

「屋敷に戻ります。なまえが帰ってきているかもしれないから」

僕は、にこやかに微笑む甘露寺さんにお礼を告げて、産屋敷邸を後にした。
帰る場所が僕には在る。
それが、彼女にとっても同じであったならと願わずにはいられない。


20200822
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