「はぁああ……! 今日も美味しそう」

この瞬間の為に働いているといっても過言ではない程、ここ最近の私は昼休憩を心待ちにしている。
錆兎が居候するようになってから、ほぼ毎日彼は私の為に弁当を作ってくれている。
なんとも有り難い。彼に言わせれば、栄養の偏りが酷い私の食生活を放って置くわけにはいかないとの事らしいが。

どうやら今日の昼食はサンドイッチらしい。
所謂、萌え断と呼ばれる彩り鮮やかで豪華なサンドイッチは、よく見てみると私の好物ばかりがサンドされていて、彼の優しさと気遣いに心が温かくなる。ホワホワする。
午前中の上司からの無茶振りもパワハラ業務の疲れも吹っ飛ぶというものだ。

あーん、と大口を開けて一口かぶりつけば、口中に広がる幸福感。
嗚呼、まさに錆兎様様……。

それと同時にふと先日の事を思い出す。そう、彼の鼻を齧ったあれだ。
期待していた私が悪かったのだろうか?それとも世間では十年も前の(正確には十二年前)、しかも子供同士の約束なんて無い物に等しいのだろうか?
確かに、そんなものはただの口約束だと言われたらそれまでで、記憶に無いと断言されてしまえばそこまでの話だったのだと片付けられてしまう事柄に過ぎないのかもしれない。
だって、その時私は十二歳。四つ下の錆兎に関しては僅か八歳である。
そもそも八歳であんな発言……今思えば、随分とませたガキんちょだ。

それを、今も期待して待っている私が今更何を言えたものでもないけれど。

「思い出して欲しいなぁ……」

私はスマホを手に自分のデスクに突っ伏した。
十年振りに再会した錆兎はとても男らしく、凛々しく、精悍な顔付きをしていて正直めちゃくちゃ格好いい。好き。本当、好き。

昔の事をいつまでも忘れられない、この激重感情を悟られまいと必死に隠しているみょうじなまえ、二十四歳、独身。

もしも、うっかり悟られてしまって、錆兎が思い出ごと私を忘れていたとして――。
そうなれば、彼の性格上絶対に出て行ってしまうに違いない。
せっかくこうして再会出来たのだから。
……思い出して欲しいと思う。でも、記憶に無いのなら、このまま気付かないでいて欲しい。

「わっ」

私の念でも通じたのか、突然メッセージアプリの新着表示がポップアップされる。
言わずもがなそれは錆兎で、私は突っ伏していた上半身を勢いよく起こしてシャキッと音がしそうな程に背筋を伸ばす。

【今日、急遽バイトが休みになった。夕食は何が食いたい?】
「!」

表示されたメッセージに私の表情はだらしなく緩む。
メッセージを返信しかけて、私はスマホを耳に当てがう。呼び出し音が数コール鳴った後、待ち侘びた声がスピーカー越しに聞こえた。

『どうした? 電話なんて珍しいな』
「うん。錆兎の声が聞きたくなって」
『!  ……はは、何だそれは。今朝も聞いただろ?』
「そうだけど、そんな気分だったの。あ、夕食はハンバーグがいいな! チーズが乗ったヤツ」
『わかった。中にもチーズ入れとけばいいんだな?』
「お! 分かってるね。さすが錆兎。愛してるっ」
『ぶほっ! ……げほ、ごほ!』

電話越しでも分かるくらい、彼は盛大にむせていた。
その可愛らしい反応に自然と頬が緩む。お互い顔は見えないが、私は意地悪く笑って見せる。

『っ、またお前はそんな事を軽々しく……』
「だって本当だし」

本当の事だし。

『はあ……』と、溜息をついて、錆兎は言う。

『まさかとは思うが、外で誰彼構わず言っているんじゃないだろうな?』
「もちろん! 錆兎だけだよ。胃袋鷲掴まれちゃってるし?」
『……そういう言い方はよしてくれ』

ケラケラと笑う私に、錆兎は呆れた風に言う。
お手上げだと言わんばかりに眉をハの字に歪め、悩ましげな表情をした彼の顔が容易に想像出来て、私はまた一人で小さく笑った。
心地がいいな……と。

「楽しみにしてるね。夕食」
『ああ』
「ダッシュで終わらせて帰るよ!」
『はは。そんなに焦らなくても夕食は逃げやしないだろ?』
「出来立てが食べたいの!」
『分かった。なら、会社を出る時にまた連絡をくれ。待ってる』
「うん」

これで午後からの勤務も頑張れそうだ。今日は比較的に仕事が立て込まない曜日だし、何事も無ければ定時で上がれる。
またね、と通話を切って私は上機嫌でサンドイッチに噛り付いた。
錆兎が昔の事を忘れていても、こんな何気ない会話が私はとても嬉しく感じられた。
幸せとは、きっとこういう事を言うのだろう。

「お! 何だみょうじ、最近お前の弁当旨そうなヤツばっかだな」
「ええ、まあ。日頃の行いってやつですよ」
「はあ? よく分かんねぇけど、お前今晩は予定空けとけな」
「え!? 無理です!私今日は定時で上がってハンバーグ食べる予定なので」

仮にも上司の言い付けであるのに、私は怯まずノーを呈する。
ビシッと前方に手を突き出して、徹底抗戦の構えである。

「ハンバーグだぁ? そんなの許されるわけないだろうが」
「何故ですか? 私の舌はもうハンバーグなんです。たった今それ以外は受け付けない身体になってしまったんです」
「どんな身体だお前。言ってる側からサンドイッチ齧っちゃ駄目じゃん。ハンバーグ以外受け付けちゃってるもん、それ。……て、そんな事はどうでもいいんだよ」
「パワハラ反対!」

直属の上司の言い付けは絶対!だなんて、いつの世の職場なんだと思えてなら無い。
即ちそれは、私が連行されるのが決定しているも同義。

「諦めろ。上からのお達しなんだから。俺も何でお前が呼ばれるのか謎だわ」
「……ちなみに、上からって言うのは誰なんですか?」

上司とそんなやり取りをしている最中、何やらオフィスに面する廊下が騒がしい。
特に、女性社員の黄色い声がドアを隔てていても聞こえてくる程度には。
そして、上司は「あれだ、あれ」と至極面倒くさそうに顎をしゃくる。
あれとは一体?
私はサンドイッチを食べながら小首を傾げる。

「上が本社から引っ張ってきた、若手の敏腕編集長」
「ほう……就任早々に売り上げが低迷していたファッション雑誌を立ち直したと言う、あの」
「そー。んで、今夜その歓迎会と言う名の接待だ。それで、直々にお前に指名が入ったわけよ」
「後半の下りが意味わかりません」
「安心しろ。俺もだから」

地味に失礼だった。
接待の相手が相手だけに、益々私は断れなくなってしまった。
再び錆兎へ電話を掛けたが繋がらず、メッセージを送っても返信がない。もう授業が始まってしまったのだろうか?
私は落胆しながら残りのサンドイッチを平らげたのだった。

* * *

歓迎会と言う名の接待で予約されていた店は、いつも職場の飲み会で使われるような大衆向けの居酒屋ではなく、庭に鹿威しがありそうな立派な料亭のような場所で、私は益々萎縮する。
若手の敏腕編集長だなんて、此処で下手を打てば使えない奴だと目を付けられて直属のパワハラ上司以上の仕打ちを受ける事になるかもしれない。
嗚呼、どうか粗相の無いように、粗相の無いように。

早く帰って錆兎に癒してもらいたい一心だった。
文句を言いながら脱ぎ散らかした服を拾って、ミルクたっぷりの甘いカフェオレを入れてもらって、それから……今日も一日よく頑張ったなと頭を撫でて貰えたなら、どんなに幸せだろう。

まだ始まってもいないのに、私は今直ぐに帰りたくなった。

そう、始まっていないのだ。本日の主役である“若手敏腕編集長様”がお見えにならないのだ。
お偉いさんは忙しいのだろう。人を呼び付けておいて、良いご身分で結構なことだ。
心の中で不服を垂れていると、ガラリと個室のドアが開く。
やっとお出ましだ。
私の楽しみ(錆兎の特製ハンバーグ)を取り上げてまで呼び付けたのが一体どんな人物なのかこの目で見定めてやろうと不機嫌な眼差しを向けた――その瞬間だった。

一瞬、時が止まる。息をする事も忘れて、双眸を見開いた。

「へ?」
「遅くなって申し訳ありませんでした。取引先との打ち合わせが長引いてしまって」

その姿を視界に捉えて、思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。
それに気が付いて、彼は私を見た。
隣に座る上司が「すみません、失礼な奴でして」などと言って、グイグイ頭を下げさせる。
だから、パワハラ反対。

「……なまえ、久しぶり。今日は来てくれてありがとう」
「な、え、ええ!? えー!? 敏腕若手編集長!?」
「あ! お前はまた……指を差すな!」

思わず指差してしまった。その指を上司に叩き落とされようが知ったこっちゃ無い。
そんな事を考える余裕など無い程に、私にとってこの再会は衝撃的だったのだ。

「お二人は……お知り合いですか?」
「ええ、まあ。大学時代に少々……」

やめて。本当にやめて、言わないで。
そんな念を込めた視線を送っても、彼は涼しそうな顔で私を見る。
私の必死の訴えも虚しく彼は口を開いてしまった。

「お付き合いをしていました」

ざわめき立つ室内で、私は呆然としてしまった。
普通言うだろうか?こんな場で。
仮にも上司と部下として、これから共に同じ職場で働く間柄だと言うのに。
まるで抜け殻のような私とは対象的に、彼はニコニコしながら私の横に腰を下ろす。

「こうしていると懐かしいね。なまえ」
「……ソウデスネ」

人数が揃ったところで酒と料理が運ばれてくる。
私は視線を逸らしながら、元恋人兼上司にお酌をする。それが今日の私の仕事なのだから。
内緒にしておきたかった過去も、開始早々喋ってくれちゃったりなんてしたものだから、もう、割り切ってお酌に徹しようと決めた。
一刻も早くこの場を去りたいと思いながら。

「ありがとう。なまえもちゃんと飲んでる?」
「ハイ。ソレハモウ」
「ごめんね、驚かせちゃって。でも、同じ職場だって知った時、凄く嬉しかったんだ」
「……」

別に、彼とは変な別れ方をしたわけじゃ無い。大学の先輩で、その時から彼は男女問わず人気者だった。
勿論、その当時から私に想い人がいたのは知っていたし、先輩とも割り切った付き合いをしていて、就職を機に別れた。ただそれだけの関係だ。
それなのに、何で今更――。
これが単なる偶然だと言うなら、私は神様を心底恨む。

目が合わない様に逸らしていると、彼は私の前に一つの皿を置く。
コトリ……と、音がして視線を向けると、そこには私の好物のハンバーグが置かれていた。
勿論、チーズは乗っていない。
こんな敷居が高そうな料亭にチーズが乗ったハンバーグなんてある訳が無い。寧ろ、こうやってハンバーグが出てくること自体驚いた。

「……あ」
「好きだったろう? ハンバーグ。ミルクたっぷりのカフェオレは、また今度ご馳走するから」
「覚えてたんですか?」
「当然だよ」

この瞬間、数年前に別れた元恋人の顔を、私はまじまじと正面から見つめたような気がした。
相変わらず女の子にモテそうな端正な顔面は健在で、呼吸をするように自然な気遣いも完璧だった。
眼前の美味しそうなハンバーグを一口食べてみる。
「美味しい?」と問う彼は、ぎこちなく頷く私を観察でもするかのように見て、満足そうに微笑んだ。

けれど、こんな時でも思ってしまう。
上品すぎるハンバーグより、私はやっぱり錆兎が作ってくれたハンバーグがいいと、それはそれは心底に。


20200306
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