大学の昼休憩を見計らった様に、一通のメッセージが届いていた。

【今日、夕食いらないから】

こんな文面を俺宛てに送ってくる人間なんて一人しか思い当たらない。
しかしながら、帰宅するなり今日の夕食は何かと尋ねてくる様な、俺の手料理を大層気に入っている彼女にしては実に珍しい内容だった。初めてじゃないだろうか?

だがまぁ、彼女にも付き合いというものがあるのだろうし、そこは俺が深く考える必要は無い。
そんな連絡が入ったので、俺はバイト終わりにスーパーではなくコンビニに立ち寄って帰宅した。
いつも、俺の念頭には“なまえ”という概念が存在していたので、いざ自分事となると存外おざなりになってしまうものらしい。
この短期間のうちに、俺の中にはいつしかなまえという基準が確立してしまったようだった。
コンビニの袋に入った夕食を見て、苦笑いを一つ。
これでは以前の彼女を責められたものではない。

「ただいま」

言いながらリビングのドアを開けると、なまえはソファーから顔を覗かせ、のんびりとした声音で「お帰り、錆兎」と、俺を迎えてくれた。
持ち上げた手には“ただ今20%増量中!”だなんて、甚く魅力的な謳い文句が表示されたバニラ味のカップアイスクリーム。
夜十時に増量中のカップアイスクリームとは……実に恐ろしい行為だ。

誘われるがまま彼女の元へ赴くと、俺は先日同様にギョッとした。
そして、次いで漏れるのは溜息だった。

きっとこれは彼女にとって通常運転なのだろう。
謂わば俺が彼女のテリトリーへと転がり込んだわけなのだから、俺に気を使って生活態度を改めろというのも、見方を変えれば烏滸がましい話なのかもしれない。

いや、しかし、全てと言わずともこういった場面に遭遇する度に、恥じらいみたいな気持ちを少しくらいは持ってくれてもいいのではないかと思わずにはいられないのが正直なところだか……。

「またそんな恰好をしているのか……お前は」
「だって楽チンなんだもん。いいね、このパーカー。私も買おうかな」

ニッと笑って言う彼女は、性懲りもなくまた俺のパーカーを着込んでいた。
アイスのカップとスプーンを手に握ったまま、立ち上がって一回転。一体何のお披露目かと突っ込まずにはいられない。
パーカーの裾からは相変わらずの生足が覗いていて、その肌は風呂上がりであるからか、ほんのりと上気している。髪の毛もタオルで拭きっぱなしで湿ったままだ。
その様々な要因が相まって、彼女の纏う色気が増している様に感じられた。
結論。健全な二十歳の男子に風呂上がりの女性は凶器だ。

目に毒だ、目に毒だ、目に毒だ!

大事なことだったので三度言った。

「……っ、全くお前という奴は!」
「わっ!?」

そして、俺は額に青筋を浮かべ、前回と同じく視線を逸らしながら脱いだジャンパーでその足を覆い隠す様にギュッと袖で縛って、それを強制的に視界から追い出した。
これで一安心だと思ったのも束の間、何を思ったのか、なまえはアイスクリームとスプーンをテーブルへ置いて、ジャンパーを剥ぎ取った。

おい、何故だ。何してる。何て事をしてくれる。

「やだ、ちゃんと履いてるって。なに想像してるの?」

「錆兎のえっち」などとほざいて、なまえはニヤニヤしながらパーカーの裾を捲り上げた。

「んなっ!?」
「ほらね?」

確かに捲られたパーカーの裾の下からは、彼女がいつも寝巻き代わりに履いているスエット生地のショートパンツが覗く。
しかし、問題はその上だ。所謂、トップスという物。
確かに彼女は言う通りちゃんと“履いて”いた。
だが、俺が危惧しているのはショートパンツから上部――上半身の話で。
捲り上がったパーカーからは、へそが覗いている。
その現実に、俺は卒倒しそうになった。
履いてはいても、着てはいないのかよ――と。
それを感じ取ったのか、なまえは続けて求めてもいないパーカーの中身事情を話してくれる。

「ちゃんとブラしてるよ? 見る?」
「いらん! 見ない! 開けようとするな!!」

パーカーのファスナーを下げようとするのを全力で阻止した。
何を考えているのだろう?俺は試されているのか?

それからなまえは、顔を赤らめて取り乱す俺を見て、ケラケラと揶揄うように笑うと、漸く気が済んだのか、再びソファーに座ってアイスを食べ始める。
パーカーは脱がないらしい。そして、髪も乾かさない様子だった。

「髪くらい乾かしたらどうなんだ? 傷むぞ?」
「んー、いいよ別に。気にならないし」
「はぁ……」

きっと、気にならないと言いつつ、実際はただ面倒臭いだけなのだろうなと思った。
仕方なしに俺は脱衣所からドライヤーを持って戻ってくる。

「駄目だ。風邪を引いたらどうするんだ? 誰が看病すると思ってる」
「うーん、錆兎かな?」
「だろうな。だから、それは阻止させてもらうぞ」

強制的にドライヤーをかける。
ドライヤーから吹く暖かな風が心地よいのか、はたまた自分の手を煩わすこと無く髪が乾くのが楽だからか――まあ、おそらく後者だろうが、なまえは俺にされるがまま大人しく乾かされていた。

栗毛の髪がドライヤーの風で煽られて、同時にふわりとシャンプーのいい匂いが鼻を擽る。
乾くにつれて柔らかい猫っ毛のような髪質のそれは指通りが良くなり、艶も出てくる。
手櫛で梳かした髪が、指の隙間からスルスルと零れ落ちる様を見て、俺は思う。
こんなに艶やかな髪をしているのだから、もっときちんとケアをすればいいのに、と。

綺麗で、女性らしいその髪を……とても好ましく思う。

普段髪を乾かすという行為は自分自身でも行っているのに、何故かこうして彼女の髪に触れる事が妙に気恥ずかしく感じられた。
恥じらい……今のなまえにこそ一番持っていて欲しい感情である。

「髪くらい一人で乾かしてくれ」
「んー、でも、錆兎に髪乾かしてもらうの気持ち良くて好きだしなぁ」
「まさか、態とじゃないだろうな?」
「態とじゃなくて気分だよ」
「はぁ……、それはどう違うんだ……」

ドライヤーの風が、フワリと前髪を持ち上げた。
その下から覗く古い傷痕へ無意識に視線が行く。普段、彼女は前髪を下ろしている為、こんな時にしか見られない。
そして、俺は自然と先日の事を思い出していた。
脳裏に過ぎった微かな会話と、記憶の断片。

「そういえば」と、ドライヤーを止めて口を開く。
自力で思い出すよりも彼女が何か知っているのならば、聞いた方が断然早い。
先日過ぎった記憶と、初めて彼女と顔を合わせた時に掛けられた言葉が、何故か結び付いている様な……それこそ予感めいた何かに誘われて、俺は問う。

「初めて玄関のドアの前であった時、言っていたが……」
「んー?」

「俺は、何処かでお前と会った事があっただろうか? 何だか凄く懐かしい感じがするんだ。……こうやって触れていると」
「!」

彼女はその言葉に僅かながらに反応を示した。
いつもヘラヘラと緩んでいる顔が期待を帯びた表情に変わり、俺を見上げる。

「本当に!?」
「……は?」

しかし、嘘が吐けない性分である俺は彼女の期待を裏切ってしまった。それこそ無意識に。
素っ頓狂な声を上げてしまった俺に彼女は腹を立ててしまったのか……思わせぶりな言葉を吐いてしまったばかりに。

「――っ!?」

首に細腕が回って、なまえは立っていた俺に対して全体重を腕に掛けるようにして引っ張る。
グンと身体が前方に傾いて、俺はソファーに転がった彼女に覆い被さるようにして倒れ込んだ。
顔が近い。鼻先が触れる――そんな距離。
少しでも動けば互いの唇が触れてしまいそうだ。
そんな状況を自ら引き起こした彼女と言えば、こんな時でも俺をじぃっと見つめていた。誘うように。
額の傷が俺を咎めているようで、そのまま引き剥がすことも出来ず、固まったまま動けない。

そして、一層彼女の顔が近付いて、心の臓がドクンと痛い程に跳ねた直後、俺は鼻に痛みを覚えた。

「なまえ……? ――いっ!?」

齧られた。鼻をなまえに思い切り、齧られた。

「悔しいから、絶対教えない」
「はあ!?」

「ずっと待ってたのに」そう独りごちて、彼女は自室に戻ってしまった。

機嫌を損ねてしまったのか?
俺は、齧られてジンジンと傷む鼻を労わる様に摩りながら、ただ呆然とソファーに腰掛けた。
要するに、何であったのか?
俺達はやはり何かしら繋がりがあって、俺はそれを忘れていて、彼女は覚えている――そして、俺はそれを自力で思いだすしか術はないという事だろうか?

呆気に取られ、ぼんやりとする俺の視界には溶けた食べかけのアイスクリームが置いてある。
食べてもらえず、ただ溶けていくのを待つだけのアイスクリームが事実を教えてもらえず放置された自分と重なり、居た堪れなくなったので、蓋をして冷凍庫に入れてやった。

それにしても、女心というものはいつの世も実に理解しがたい代物だ。

跳ね上がった心拍と、上気した頬。
そして、齧られた鼻先から広がる熱が、俺をこうも蝕んでいる。

「(どうか、歯型だけは勘弁してくれ……)」


20200227
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