「あ、錆兎がいる」
「ああ……お、お帰り……真菰」

俺は、帰宅した真菰によって早々に見つかってしまった。
帰宅というのは少し違うか。正しくは出戻りだ。
まあ、真菰は此処で暮しているのだから顔を合わせない方が無理な話であって、彼女に見つかるということは、即ちこれから怒涛の尋問タイムが始まる合図である。
真菰は、気まずそうに視線を逸らした俺と、傍に置かれた手荷物(と、呼ぶにはあまりにお粗末なスマホと財布のみ)を交互に見て、眼前にストンとしゃがんだ。

「……」
「錆兎?」

堪らず目を逸らす。しかし、逸らした方へ真菰の顔が回り込む。

「……」
「さーびーとー?」

駄目だ。誤魔化しきれない。彼女を出し抜くなんて事、とても俺には無理だった。
もう、白状する他に手はない。
それを察してか、真菰は聞いてもいないのに「大丈夫だよ。今、鱗滝さんいないから」と、言った。

「なまえの所にいたんじゃないの? 突然帰ってくるなんて……それともホームシック?」
「ホームシックじゃない」
「じゃあ急に帰ってきて何してるの?何があっても帰って来なかったじゃない」

真菰は俺に問う。
それもそうだ。彼女にはなまえとの関係も先日伝えたばかりで、自分の事の様に喜び祝福してくれた。それが僅か二週間そこらでこうして夜遅くに決まりが悪い面持ちで出戻っている。
この有様であるのだから、俺が真菰でも何があったのかと問うに決まっている。
俺は、真菰に頬を張飛ばされる覚悟で事のあらましを話した。

なまえが、職場の上司と恋人役でパーティーへ行った事。
帰りの車内でキスをしていた事。
帰宅後に嘘をつかれて頭に血が上り、手酷く抱いてしまった事。

真菰は俺が話し終わるまで一言も発する事なく、ただただ黙って耳を傾けてくれた。
全てを語り終えて真菰へ視線を向けると、彼女はじっとりとした目で俺を見ていた。
いいさ、喝破される覚悟も張り倒される覚悟も出来ている。
出来ては、いるが……。

「最低」
「う゛、」
「錆兎、最低」
「わかってる。二度も言わないでくれ。流石に堪える」

実に男らしくない事をしたと思っている。自分でも分かっていた。
二度言われたことで、まるで往復ビンタを決め込まれたような気分だった。

「……確かになまえにも非はあるよ。嘘は駄目だと思う。でもさ、錆兎はそれをちゃんと確認したの?」
「え?」
「キスの事だって、錆兎の方から見たら角度的に偶々そう見えただけかもしれないでしょ? 嘘の事も、もしかしたら錆兎に余計な心配を掛けたくなかったって線はないの?」

真菰の言葉に俺はハッとした。それこそ物理的で無いにしろ、頬を思い切り打たれたような錯覚に陥る。
恋人役でパーティーに参加を認めたのは俺だ。
確かにその瞬間を見はしたが、唇同士が重なる瞬間は見ていない。
口から出任せも、彼女の言葉に隠された本心を俺は何一つ聞いていない。

「……真菰、俺は」
「うん?」

嗚呼、なんて事をしてしまったんだ――。
確固たる確信も無いまま己が感情に身を任せ、彼女との関係を棒に振った。溝に捨てた。
けれど、もう、いくら後悔したってどうにもならないんだ。
彼女を望むなど烏滸がましい。虫がいい。あんな仕打ちをしておいて。
今でも俺の脳内には彼女の泣き顔がこびりついているのに。

「……はは、俺は本当にどうしようも無い奴だ。――情けない」
「錆兎、もう一度なまえとちゃんと話した方がいいよ」
「いや、今更何を話すんだ。勘違いだったかも知れないが、俺がなまえにした事は何も変わらない」

傷付けた事に変わりはない。
俺は、真菰の提案を拒むように首を緩く振った。

すまない、なまえ……俺は決してお前を信じていなかったわけじゃないんだ。己が未熟だった。
もしもこの懺悔がお前に届くなら、許されるのなら、もう一度ちゃんと話がしたい。
もう、それすら遅いのだろうけれど。

***

早いもので、あれからひと月と少し経って、その間も俺は相変わらず鱗滝さんの家に居る。
アパートの水漏れが原因で内装をやり直していて時間が掛かっているだの何だのと大変心苦しい言い訳を並べて。

つい癖で真菰にコーヒーを入れると、なまえ仕様の甘ったるいものを作ってしまった事もあった。
「おえ! 何これ甘すぎ……」と言われるまで、気付かなかった。

濡れた真菰の髪を見て、つい手が出で拭いてやったりと……まあ、随分と怪訝な顔をされたが、やはり俺は今でも身体の芯まで、骨の髄まで、彼女に染まっているのだと思った。

いつになったら慣れるんだろうか?慣れる日なんて来るのだろうか?
傍になまえが居ない俺の世界に、何の意味があるんだろうか?
俺の身体も、心も、こんなにもなまえを覚えているのに。

「(荷物もいい加減取りに行かないとな。……あと、鍵も返さないと)」

踏ん切りが付かずここまで引き摺ってしまっていた。情けない。男らしく無い。

気分転換に繰り出した街で、俺は一番会いたくない奴に遭遇してしまった。何でこんなタイミングでコイツに。

「あれ? 錆兎くん。久し振りだね」
「……ああ、あんたか。何か用か?」

通りに面したカフェから出てきた男は俺を呼び止める。例の、なまえの上司だった。
彼を見て今更ながらに気が付いた。
嗚呼、しまった。此処はなまえの勤める出版社の近くだった――と。
そして、瞬時にあの時の映像が脳裏を過ぎって、眼前の男を睨み付ける。恨み骨髄とばかりに。

「相変わらず辛辣だね。用って言うか――なまえに何をしたの?」
「――それを、お前が言うのか?」
「……俺? 申し訳ないけど、何の事かよく分からないな」
「惚けるな。車の中でなまえにキスをしただろ?」
「キス?」

男は、しかつめらしく顎に手を当てがって、その日の出来事を思い出すように思考を巡らせる。
そして、思い至ったのか、突然笑い出した。クツクツと喉を鳴らして。
その笑い声が余計に俺の神経を逆撫でる。

「おい、何がおかしい」
「ははっ、だって、おかしい事でしかないだろ? あれはキスなんてしてないんだから」
「は? ……だが俺はその場を見ていたんだぞ!?」
「あれは、彼女のシートベルトを外していただけだよ。もたもたして中々外れなくってさ。それ、ちゃんとなまえに確認した?」
「い、や……していない」
「それにしても、見てたんだ? 心配性って言うか――君って随分と自信がないんだな」
「なんだと!?」

まさか、こんな奴の口から、こんな形で真実を知ることになるなんて。
真菰の言った通り、全ては俺の勘違いで、なまえは俺を裏切ってなどいなかったのだ。

「まさかとは思うけど、何かあった? 最近本当に困ってるんだよね。なまえが使い物にならなくて」
「おい、何だその言い草は。大体こんな事になったのは……――っ!」

いや、違う。俺だ。
こんな事になったのは、全部俺の勘違いから招いた事だ。
そんなのは、このひと月の間に嫌と言うほど思い知ったじゃないか。
実際、彼が話した事が本当ならば、完全にあの日の出来事は俺の非だ。もしもの可能性ばかりに気を取られて、真実を確認もしないで。

声を荒げかけて、俺は言葉を飲み込んだ。

「……なまえが、どうかしたのか?」
「その言い方だと、何も知らないんだね。いや、いいんだ。君はもうなまえには関係がないようだから」
「っ、」
「要らないなら、返してもらおうかな?」

「それじゃあね」と言って、男は踵を返した。
何も言えなかった。
あの日の出来事の真相を、まさかこんな形で答え合わせする羽目になるなんて。
本当に良いのか?このままで。
このままだと、なまえはあの男の物になってしまうかも知れないのに。
けれど、俺といるよりもあの男といる方が、彼女の為になるんじゃないのか……?

「……」

何度考えても、悩んでも、同じだ。堂々巡りだ。
取り敢えず此処を離れよう……そう思った時だった。危惧していた事柄が、実際に起こってしまったのは。
背後から俺の名を呼ぶ、酷く懐かしい声に引き止められる。

「さ、びと?」
「――っ!」
「……錆兎でしょ!?」

嗚呼、何でこんな時に出会ってしまうんだ。
分かっていた筈だ。此処は彼女の職場の近くだと、そして今がちょうど退社時間であると。
だから早く離れなければならないと思っていた矢先にこれだ。

けれど俺の身体は酷く現金だった。なまえに名前を呼ばれただけで、こんなにも胸が高鳴る。
苦しいくらいに、泣きたくなるくらいに、心が震える。
振り返って、今すぐにでも華奢な身体を腕に抱きたいと思えてならないのだ。

それでも、俺は振り向かなかった。
振り向けば、何もしない自信がない。正直、今この瞬間、言葉を交わす事だって迷ってしまうのに。

「……っ、」

俺は振り向かず、そのまま前を向いて歩を進める。
だからどうか、お前も諦めてそのまま戻ってくれ。そんな思いを込めて。

「あ、待って錆兎……! 待って!」
「……」
「ちゃんと話をしたいから、待って! 錆、と――うわっ!?」
「!?」

カツカツと俺を追うヒールの音が急に途絶えて、直後、悲鳴と呼ぶにはあまりにも滑稽な声がした。
ドタン!と派手な音が耳に届いて、俺は思わず振り向く。
背後には鞄の中身を路上にぶち撒けて、派手に素っ転んだなまえがいた。
お笑いのコント顔負けの惨状がそこには広がっていて。

「大丈夫か!? 全く何をしてるんだお前は!」
「いだい……」

よく見ると、細いヒールの先がコンクリートの僅かな隙間挟まっていて、そのせいで彼女はつかえて前方に放り出されたようだった。
当然の事ながら衆目を集める。流石にこの状況を放って立ち去るほど俺も人間として腐っていない。

溜息を吐きながら、なまえの傍へ駆け寄る。
散らばった荷物を手早く拾って鞄に収め直すと、彼女の手首を掴んで引き上げてやった。
鼻先を擦りむいて、赤くなっている。

久し振りに交わった彼女との視線。不覚にも胸が高鳴る。
それがもう、答えなのだ。これ以上ない程の、本心だった。

「錆兎……」
「相変わらず、そそっかしいな」
「錆兎……痛い……」
「だろうな。派手に転けたからな。鼻先を擦りむいてるぞ」

俺は、挟まったヒールを外し、かろうじで折れていなかったヒールに安堵して、なまえの足へ手を添えてご丁寧に履かせてやった。大サービスだ、まったく。
泣くほど痛かったのか、彼女は瞳に涙を浮かべている。
違う、そうじゃない、そんなわけではない。

「錆兎……やっと、こっち向いてくれたぁ」
「っ! ……すまなかった、なまえ。許してくれるなら、俺ももう一度お前と話がしたい」

どうか、烏滸がましく、虫のいい話をさせてはくれないだろうか?
どうしようもない俺の話を聞いてくれないか?

それは彼女の精一杯の返事だったのだと思う。
首に腕が回って、なまえの甘い香水の匂いが鼻腔に満ちる。心地いい重さが身体に掛かった。
その温もりが酷く酷く懐かしく、そして愛おしいので、俺は此処が往来だと言う事も忘れて、ただただその温もりを噛み締めるように抱き返したのだ。


20200407
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