兎は寂しいと死ぬらしい。
――と、言うのは勿論嘘だ。

「なまえ、いい加減起きろ! さっきから何度起こしに来たと思ってるんだ」
「んー……あと五分、いや……十、分……待って……」
「待たん! お前はそうやって何度二度寝を繰り返してる? 今日は早朝会議があると言っていたのを忘れたのか? 社会に出て働いてるのなら、その義務と責任を果たせ!」

彼女の部屋のドアの前に陣取り、朝からたれたくもない説教を浴びせる事数回目。
「あ゛ー!!」と、騒がしい悲鳴を上げて漸く彼女は部屋から出て来た。
全く。この様子だと、完全に早朝会議の存在を忘れていたな。
今日も今日とて、なまえのだらしなさと言ったらない。

「ど、どうしよう錆兎! このままじゃ遅刻する……! 意地悪お局上司にネチネチお説教されて、今日一日ボロ切れになるまでぞんざいに扱われる未来が見えるー!」
「……っ!」

なまえは喚き、泣き言を口にしながら部屋を飛び出して来たかと思えば、ドアの前に立っていた俺におんおんと泣きつく。
ダボっとして片方の肩が覗くようなメンズサイズのTシャツに、ハーフパンツ。
嫁入り前の女が、何とあられも無い格好だろうか。
小さく溜息を吐きながら、胸下辺りに纏わりつくなまえを引き剥がす。

「抱きつくな。いいから早く顔を洗って服を着替えたら朝飯を食え。髪ぐらいは手伝ってやるから」
「か、神……! 錆兎愛してる……!」
「全く。使い勝手のいい神だな、俺は」
「準備してくる!」
「ああ」

部屋のドアが勢いよく閉まるのを見て、俺は苦笑しつつリビングへ向かう。
俺が、何故このような騒がしい日常を送る羽目になったのか……それは、遡る事一週間程前。


元々孤児だった俺は、幼い頃、鱗滝さんに引き取られ、鱗滝さんの家で世話になっていた。
いつかは一人暮らしをしたいと思い大学へ進学。先日二十歳の誕生日を迎えたのを機に、お世話になった鱗滝さんの家を出たのだった。
早く一人前の男になり、鱗滝さんから受けた沢山の恩を返したい――その一心で。

大学からも近く、バイトの店にも程近い好条件のマンションも見つかった。
少し家賃が高いが、バイトもしているし、払えない程ではない。契約を済ませ、後は引っ越すだけだと希望に満ちた前途だった。
そう、“だった”のだ。そこまでは良かった。引っ越し当日、事が起こるまでは。

契約した部屋を訪れてみれば、なんとその部屋には既に人が住んでおり、慌てて不動産店に問い合わせてみると「すみません、こちらの手違いでした」ときた。
事情はわかったが、それでも、引越し屋に頼んでいた荷物の段ボールは続々とその部屋の前に積み上げられてしまって、どうしたものかと途方に暮れていたところに、部屋の住人であったなまえが帰宅し、鉢合わせになったという事の運びである。

帰宅してみれば自分の部屋の前に積み上げられた段ボールと見知らぬ男。
双眸を見開き、固まった彼女の反応は、至極当然のものだったと言える。
しかし、彼女は俺を頭の先から足の爪先まで舐める様に観察したあと、「何処かで会ったこと……無い?」と問う。
勿論そんな事は無いので、人違いだと伝えるが、何やら納得行かずと言った様子で暫く俺を見ていた。

それよりも、今はそんな事を議論している場合では無く、早急に事情を話せば、彼女は「だったら一緒に住めばよくない?」などと戯けた事を抜かすものだから、直ぐに、正気かと尋ねるが、何処にも行く宛がない俺は一瞬迷う。
しかし、見も知らぬ、しかも一人暮らしの女の部屋に居座るなど男のする事ではない。
俺は彼女の提案を突っぱねた。
部屋はまた探せばいい。しかし、問題はこの荷物。段ボール五箱。
早急に別の部屋を探すので、段ボール五箱分の荷物だけ申し訳無いが宛が着くまで預かって欲しいと申し出た。
人の良い彼女は迷わずその提案を快諾してくれ、部屋のドアを開ける。

世間には、見ず知らずの人間に親切にしてくれる善良な人間も存在するのだな。存外世の中捨てたものでは無いのかもしれない……鱗滝さん。

思いもしない。世話になった恩人に思いを馳せながら、暖かい気持ちに浸っている俺の頬を張り倒す様な俄に容認し難い絶望的な光景が扉の先に広がっていよう事など。

「どうぞー」と、彼女が玄関のドアを開けたその先に広がる景色に俺は固まる。

お世辞にも綺麗だとは言えない室内。これは、俗に言う汚部屋……!
彼方此方に物が散らかっていて、物を置くどころか、足の踏場が無い。
しかし、彼女は気にする素振りも見せず、あろうことか足先でその散らばった衣服やらゴミやら何やらを、そうするのが当然であるかのように慣れた様子で器用に端に寄せながら歩く。

「あ、気にしないで。私ズボラだから、片付けとかちょっと苦手なんだよね」と笑いながら言う彼女に、俺は言ってのける。仮にも親切にしてくれた恩人に対してだ。
でも、これは流石に看過出来ない。

「笑い事では無いだろう!? ズボラで済まされる話では無い。大の大人がこんなに部屋を散らかして、それを恥じる事もせず笑って他人を中に招き入れるなど情け無いとは思わないのか!」

気が付けば俺の口は勝手に動いてしまっていて、会ったばかりの人間相手に説教をたれたのだった。
そして、その後はあれよあれよと掃除をする羽目になり、食事を共にし(勿論、それも俺が作った)、汚れたから風呂を借り、夜が更けたから泊まってしまった。
なし崩しとはきっと、こういう事を言う。

そして、彼女を放って置けないという妙な使命感に駆られてしまったばかりに現在に至っている――なんとも奇妙な馴れ初めだった。



彼女との回想を終えた俺は、リビングで彼女の支度が終わるのを待つ。
なまえ専用の可愛らしいピンク色のマグカップにミルクたっぷりの暖かいカフェオレを注いで、テーブルに運んだ所で、着替えを済ませたなまえが慌ただしく姿を表した。
トーストにサラダ、オムレツとデザートにジャムを掛けたヨーグルト。あと、彼女の大好きな甘い甘いカフェオレ。

「わー! 今日も美味しそうっ! 錆兎のご飯本当に大好き! 毎日食べられるなんて私、幸せ者だなー」
「大袈裟だな。簡単なものしか作ってないぞ?」
「毎朝の栄養機能食品ゼリーに比べたら天と地の差だって!」
「お前はもう少し自炊をしたらどうなんだ……」

「頂きます!」と手を合わせ、バターをたっぷり塗ったトーストを頬張る彼女の髪を櫛でとかしながら、呆れた口調で言う。
此処で世話になる事が決まり、冷蔵庫の中身を拝見したらば、大量の野菜ジュースと栄養機能食品ゼリー、ミネラルウォーターと言った飲み物類しか食材が入っていなかった事に絶望したのをよく覚えている。
今まで本当によく生きてこられたなと思わずにはいられない程に。

「一家に一人錆兎的な必須要員だね」
「それはお前に限った話だろう?」
「そうかも! 錆兎がいなかったら私、生きていけないかもしれない……」
「なまえが言うと本当にそう思えてしまうから、滅多な事は言わないでくれ」

初めは慣れなかった髪を結う作業ですら手慣れた物だ。
そして、こんなにも世話の掛る同居人兼家主ではあるが、自分の作った物を喜んで食べてくれたり、感謝されると満更でも無くなってしまう。
何より、幸せそうな彼女の笑顔に絆されてしまっているのだと思う。

「ほら、出来たぞ。もうそろそろ出ないと電車の時間に間に合わないだろ?」
「んー! そうだった! ありがとう、錆兎」
「弁当も忘れるなよ」
「もう、本当お母さん!」
「よしてくれ。お前みたいなズボラな子供は願い下げだ」

カフェオレを飲み干して、いそいそと鞄に弁当をしまう彼女は慌ただしく玄関へ向かう。
彼女を見送るために、俺も後に続いた。

「お弁当楽しみだなぁ」
「ああ。仕事が捗るような弁当にしておいたぞ。精一杯励めよ」
「本当? やった!」

「行ってきます」と元気よく家を出るなまえを見送って、パンプスのヒールをカツカツと鳴らす音が遠のくのをドア越しに聞きながら、俺も自分の支度に取り掛かる。

ご飯の部分に“働け!”と、海苔で喝を入れてやったやる気の出る弁当を彼女も食べて今日を乗りきる事だろう。

拝啓、鱗滝さん。
なんやかんやあって、結局一人暮らしとはいかなかったが、俺は今日も元気に賑やかな毎日を健やかに過ごせています。


20200209
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