夢のようだと思った。
彼から与えられるキスが、抱擁が、まるで現実味を帯びていないようなフワフワとした感覚に浸らせるので、それこそ夢でも見ているんじゃないかと思えてならなかった。
仮に夢ではなかったとして、本当に錆兎も私と同じ気持ちでいてくれているのなら、私はきっと一生分の運を使いきってしまったに違いない。
それでもいいと思った。
私の一生分の運なんて、きっと大したものじゃない。
でも、それを引き換えにして彼と共に過ごす時間を得られたというのなら、だって、これ以上に幸せな事ってないでしょう?

今、私は堪らなく幸せだ。
それが、ほんの少しでいい。彼も同じ気持ちでいてくれるなら、他に何もいらないと思う。

「……んぅ、」

目を覚ますと、昨晩抱き合って眠った彼の温もりは傍にはなく、掌で撫でたシーツは既に冷たくなっていた。
さぞかし甘ったるい恋人同士の朝を迎えられるのだろうと思い込んでいた私は、不服とばかりにぶぅっと頬を膨らませる。

今日も彼は通常運転らしい。しかし、それは誰でもない私の朝食と弁当を作る為であるのだから、不貞腐れるのはお門違いも甚だしい。
でも、少しばかり期待をしていただけに、寂しかった。目覚めは大好きな彼のキスとハグで迎えたかった。乙女の夢である。
そうは言いつつ私はもう二十四の今年で二十五を迎えるのだが、乙女たる定義について一つ論じ合わなければならないだろうか?
ならば、“気持ちだけは乙女”という結論で脳内会議を終えたところで布団を抜け出し、こっそりとリビングに忍び込む。

足音を殺しながら距離を詰めて、キッチンに立つ錆兎の広い背中を盗み見る。
腰できつく縛られた腰巻きのエプロンだとか、肘までまくり上げられた袖だとか、改めて彼を観察しているとその後ろ姿に抱き付きたくて堪らなくなる。
私の恋人は後ろ姿も最高に格好良い。

堪らなくなって一直線に背中目掛けて駆け出し、抱きつくと、錆兎は腕を上げて脇の下から私を見て、フッと笑った。

「やっと来たか」
「気付いてた?」
「流石にあれだけ見られるとな」
「穴が空いた?」
「空く手前で捕まえに行こうとは思っていた」

ああ、それでも良かったなと思った。
今度はそうしてもらおうと密かに心に決めて、抱き付く腕に力を込めた。

「どうした?」
「んー……何だか普段通り過ぎて昨日の事が夢みたい」

今でも都合のいい夢を見ているようで。
それくらい普段通りすぎる朝だった。
普通が、変わらない事こそが、何よりの幸せだと人は言うけれど私は欲張りな性分であるので、それでは満足出来ない。
彼と再会出来た事も、こうして一つ屋根の下に暮らしている事も、幸せ。
普段通りの柔らかな彼という籠の中にいるのも幸せ。
けれど、もう一度確かめたい。本当に私達の関係は変わっているのか。

「はぁー」と盛大な溜息を吐いたかと思うと、錆兎は腰に回った腕を解き、背に張り付いた私を引き剥がす。此方に向き直ったかと思えば、私を軽々と持ち上げてキッチンの上に座らせた。
私の身体を挟むように、台の縁へそれぞれ両側へ手を掛ける。
普段見上げてばかりの端正な彼の顔が、私を見上げていた。

「錆兎?」
「夢にされては、俺が困る……」

「やっと捕まえたんだぞ?」と言って苦笑すると、そのまま下から掬い上げるようなキスをくれた。
私もそれに応えるように、彼の首へと腕を回す。
離れて、また角度を変えて重なる唇は回数を重ねる度に深くなって、どちらともなく互を求めているようだった。

嗚呼……キスって、こんなにも気持ちの良いものだっけ?
思考が蕩けて、何も考えられなくなる。
触れる度に身体の芯が熱を帯びて、疼いて疼いて仕方がない。

「ん、……さび、と……もっと欲し、い」
「っ、煽るな……」

これから互いに仕事と大学。
夜まで長いなと思いながらも、お互いに何とか欲望に打ち勝つことが出来た。理性の勝利。
濡れた唇を親指の腹で拭われ、きつく抱き締められた。

「はぁ……危なかった」
「さすが漢だね、錆兎」
「……それは褒められているのか?」
「もちろん」

宍色の髪を撫でて褒めると、ふふっと小さな笑みが鼓膜を揺らした。
「髪を撫でられるのも、悪くないな」と。
そんなの幾らでもしてあげるのに。今度は、私がこっそりと小さく笑う番だった。

*** 

「んふふふ」

朝のイチャつきもさる事ながら、出社したら出社したで今度は昼休憩に私は弁当を広げて満悦に表情をだらし無く緩めた。
こんなにも幸せでいいのだろうか……そんな風に。

「へぇ。彼、料理も上手なんだね」
「うわ、先輩!」

背後から不意に声を掛けられてビクリと身を跳ね上がらせる。
ニッコリとした不自然なまでに作り込まれた笑顔が逆に怖いのだけれど。
昔からこういう時の先輩の笑顔は大概腹に一物抱えている時である。
この時私は忘れていた。彼が何の為にこの部署へ派遣されたのかを。そして、前にいた支所でどれだけ恐れ慄かれていたのかを。

「幸せそうでなにより」
「あ、はい。お陰様で!」
「だろうなぁ。顔から滲み出ているしな。その様子じゃ、頭の中もさぞお花畑なんだろうし。だからこんな初歩的なミスするんだろうな?」
「……え?」

ビシ!とタブレット端末を眼前に突き付けられて、これを見ろと言わんばかりに画面をトントンと指し示す。
それは私が撮影で必要な雑貨の発注を掛けた担当者へ送ったメールだった。

「時間帯! 連絡ミス!!」
「……あ!」
「お陰で予定していた時間に雑貨が届かなくて撮影が流れた。カメラマンも場所もそれに合わせて準備してたんだ。一つズレるだけで全体の流れに支障がでる。こんな初歩的なミス、有り得ないんだが?」
「も、申し訳ありませんでした! 確認不足でした。以後気を付けます! それで……撮影は」
「手配しておいた。運良く空きがあったからな。雑貨はこれから直接受け取りに行く」
「すみま、せん……」

何をやっているんだろうと思った。
一つのミスがどれだけ全体の進行に影響を及ぼすのかよく分かっていた筈なのに、言い訳の理由にしたくは無いが、先輩に指摘された通り、少し私は浮かれ過ぎていたのだろうか?
久し振りにガツンと叱責されて、気を引き締め直す。
私が今出来ることは?そう考えた時、上着を手に取って先輩の背を追う事だった。

「私も行きます! 仕事のミスは仕事で挽回します!」
「一つ貸しだぞ?」
「へ?」
「貸しは返す為にあるって知ってるだろう?」

くしゃりと髪を撫でられて、先輩は何やら企んでいるような顔をして笑っていた。
嫌な予感しかしない。

*** 

あれからバタバタと駆けずり回って、帰宅出来たのは終業時刻から三時間程過ぎた頃だった。
酷く疲れた。しかし、その原因は自分にあるのだから文句を言えた立場ではない。
こんな時は、錆兎に癒してもらいたい……。

「錆兎ぉ……」

癒しを求めて三千里。いや、十数歩。ズルズルと重たい身体を引きずって廊下を歩き、リビングへ入るも、そこに恋人の気配は無い。
脱衣所に明かりが点いているので、風呂に入っているらしい。

今直ぐ抱きしめて欲しかったけれど、仕方がない。
私は冷蔵庫から取り出した缶ビールを手にソファーへダイブ。
脱力する私の身体を受け止めてくれるマットレスの感触が絶妙で、もう一歩も動けない。
このまま寝ちゃおうかな、なんて思っていた矢先の事だった。

テーブルへ投げていたスマホがけたたましく鳴って、着信を知らせる。
思わずビクリと身体が強張った。

「え、誰? 夜遅くにやだ、誰?」

戦々恐々としながらスマホの画面を見ると、そこに映し出された名前に「んげ!」と声が漏れてしまった。

【鬼編集長様】

不意に脳内に流れ込んできた彼の言葉。

『貸しは返す為にあるって知ってるだろう?』

いやまさか。私は彼に一体何を返す事になるのだろう?
こういう嫌な予感こそよく当たる、それが世の常。諸行無常。沙羅双樹の花の色。

よし。これは気が付かなかったという事にしてやり過ごそう。
そんな狡賢い事ばかり考えてしまうから罰が当たるのだ。

「う゛あ!?」

不意に指が当たってしまって無情にも着信は通話中へと切り替わってしまった。
なんという事でしょう。

切るわけにもいかないので、私は横たえていた身体を起こして座り直す。

「も、もしもし……」
『お疲れ。今、少しいい?』
「ほんの少しだけ……でしたら」
『ははっ。つれない事言わないでくれよ。実は、さっそくなまえに返して貰おうと思って。昼間の貸し』

それ見た事か。
だから出たくなかったのだ。言いくるめられる自信しかない。
昼間の事を持ち出されたら私に拒否権などないと言うのに。

『なまえ? 聞いてるか?』
「聞いてます……難しい事は、その、無理ですよ?」
『大丈夫。全然難しい事じゃ無いよ。ただ一晩、昔の俺達に戻って貰えたらそれでいいんだ』
「はい?」

益々意味が分からない。
昔から先輩はこういう風に小難しく言葉を言い回す癖がある。
一晩?昔の私達?やっぱりよく分からない。

「先輩、あの、もっと分かりやす、く……――っ!」

不意に、耳に当てていたスマホが手から擦り抜けた。
正確には取り上げられた。“彼”によって。

見上げた先には、今し方風呂から上がったらしい錆兎がいて、何やら気に入らないと言いたげな顔をしていた。

「錆……ん、ぅ」

背後から顎を掬われて、すかさずキスが降ってくる。
逸れていた意識は完全に錆兎に奪われた。きっと、私と先輩が話していた声が漏れていたのだろう。
リップ音を残して離れた錆兎の唇には、私の付けていた口紅が移って甚く扇情的だった。
思わず頬が熱くなる。

『もしもし? なまえ?』
「悪いが、取り込み中だ。無粋な真似はしてくれるなよ」

スマホに向かって一言告げると、強制的に通話を切ってしまった。
一瞬の出来事で、私はその様にポカンとしていると、錆兎は少し申し訳なさそうにしながらスマホを此方に差し出した。

「すまん。我慢が利かなかった」
「錆兎もやきもち焼くんだね」
「俺を何だと思ってるんだ? 言っておくが、俺はお前が思っている程聞き分けは良く無いぞ」

そう言って苦笑する彼に、私はこうも夢中になってしまっている。
それはお互い様なのかもしれないが。

「これからも覚悟しておいてくれ」
「ふ、はははっ! 錆兎可愛い」
「それはあまり嬉しく無いな」
「ん、好き。そういう所も」

そう言うところが、たまらなく。
ニッと悪戯に笑って、錆兎の腕を全体重で引っ張る。
驚いた表情で此方へ倒れ込んでくる彼を、私は目一杯に抱きしめた。


20200320
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