《今日は全国的に晴れますが、東日本の一部の地域では夕方から雨が降るでしょう。帰りが夕方以降になる方は傘を持ってお出掛けした方が良さそうです》

朝っぱらからやけに明るいお天気お姉さんの声を聞き流しながら、俺は二人分の弁当を包む。
今日こそはきちんと確認したし、大丈夫だ。先日の二の舞を演じる俺じゃない。
しくじる事のないように、何度もおかずとご飯を確認して組み合わせたからな。

その日(後に日の丸ご飯二段重ねショックと命名)、なまえは窶れた顔で帰ってくるなり『私が悪かったよぉ、許しておくれよぉ』などと喚いて涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした酷い顔で縋り付いて来た。
どうやら彼女は、前日に酷く酔っ払って帰宅した事に対して俺が立腹し、故意に翌日の弁当をご飯だけにした仕置きだと思ったらしく、顔から出るもの全部を垂れ流しながらの全力謝罪をしてみせた。

あの日は俺も色々と一杯一杯だったし、背後に張り付くなまえを少々乱暴に引き剥がしたこともあって、彼女も少し――いや、大分と気にしていたらしい。
勿論、あれは俺の手違いで起こった事だと伝え、引き剥がしたのも別にお前に愛想を尽かしたわけでは無いのだと弁解し、無事に誤解は解けたのだけれど、ある意味トラウマの域に達しそうな、それは恐ろしい絵面だった。

「錆兎、錆兎!」
「どうしたんだ?」

珍しく時間通り支度を終えて、存分に朝食を堪能し終えたなまえが上機嫌で此方へやってくる。
アイランド型のキッチンを隔てるようにして、手に持ったマグカップを掲げて向かいから声を掛けた。

「ねえ、そのタンブラーにカフェオレ入れて。同じやつ! 持って行くから」
「まだ飲むのか? 朝からそんなに甘ったるいものばかり飲んでると太るぞ?」
「だって……新しく来た編集長が鬼でスパルタで、すぐ糖分が足りなくなるんだもん」
「(新しい編集長……か、)」

その言葉に、つい反応を示してしまう。先日、なまえを送ってきた男の顔が脳裏を過ぎった。
まさかとは思うが……いや、しかし。あの男は編集長にしては若すぎやしないか?確かに歓迎会を開いてくれた云々と言っていたが。

「おーい、錆兎?」
「! ……いや、何でもない。大変だな」
「そうなの! もうサイアク」
「だったら、砂糖の代わりに蜂蜜を入れておくか。疲労回復にもいいからな」
「やった!」

なまえは両手を高々と伸ばし、至極嬉しそうに笑った。
その笑顔がいつもに増して輝いて、可愛らしく思えるのは、俺が彼女を見る目が、彼女へ抱く想いが大きく変わったからだと思う。
認めてしまえば、こうも簡単に見える世界は変わってしまうものだ。

タンブラーにカフェオレを注ぎ、蓋をしめる。
忘れないよう、弁当の横にタンブラーも一緒に置いておこうとした時、俺は不意になまえの着ている服が視界に入って動揺のあまりタンブラーを置き損ねた。
底が滑って、ゴトン!と横倒しになった。

「さっきからどうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ。本当に、何でもない、んだ……気にするな」
「そう?」

ああは言ったが、全然大丈夫ではないし、寧ろ問題しかない。
彼女の着ているブラウスは、何を隠そう俺が先日独りよがりで自分勝手な欲望で汚してしまった“例のブラウス”。

「本当にスマン……」
「?」

なまえは当然訳が分からずと言った様子で首を傾げた。
丁度、彼女の出勤時間と重なったのでその訳を深く追求されずに済み、本当に救われたと思う。
せっかく時間に余裕を持っていても結局慌ただしく出て行くのだから余り意味がない。
「行ってきます!」と言って玄関へと駆けてゆくなまえの背中に慌てて声を掛けた。

「傘を忘れるなよ!」
「あ、うん! 分かった!」

今日も我が家の朝は忙しない。

*** 

ぽつり、ぽつりと窓を叩く雨音がして、カーテンを開けて窓越しに薄暗い空を眺めてみると、今朝の天気予報の通り雨が降り出した。
だんだんと強まる雨脚に、俺は彼女に傘を持たせておいて本当に良かったと安堵した。
流石に家を出る直前に声を掛けたのだから、忘れて出掛けるなどあるまい。
ある筈が無いのだ。ある筈が……。

何だか一抹の不安を覚え、俺はリビングを出て玄関へ向かう。

「はぁー……まったく、アイツは」

あった。
ある筈が、あった。そして、傘もあった。
傘立てに残されたソレを見て、俺はガックリと肩を落とす。

手に持ったスマホの画面に映し出された時間は十八時前。
大体いつも今から帰ると連絡が来るのは十九時だから、今から家を出れば退社時間までにはなんとか間に合いそうだ。
残業になるようなら、近くのカフェで時間を潰せばいい。

スマホと財布と、それから鍵。
ズボンのポケットにそれぞれを突っ込んで、自分のビニール傘となまえの桃色の可愛らしい花柄の傘、二本を持って家を出た。

【傘を忘れただろう? 近くのカフェにいるから終わったら連絡をくれ】

なまえの勤め先付近で一度メッセージを送って、カフェに入る。
表通りの様子が見える窓際の席に座って、注文したコーヒーを飲みながら時間を潰していると、スマホの画面が光って、メッセージがポップアップされた。
言わずともメッセージはなまえからで、泣きながら土下座をするスタンプが送られてくる。
それを見て、俺は思わず小さく笑った。
そして、すぐ様【ごめんね! あと三十分あれば上がれるから!】とメッセージが送られて来た。
急がなくてもいいと返事をして、時間を見計らって店を出る。

カフェから徒歩十分程の位置にある彼女の職場まで向かい、出てくるのを今か今かと待つ最中、約束通り三十分と少し経ったところでなまえと思しき姿の女性の姿が見受けられた。
ガラス張りのロビーから、なまえも外で待つ俺の姿を見つけたらしく、満面の笑みでブンブンと手を振りながら此方に向かって駆けて来る。
ヒールを履いてそんなに急いで走ると転けるぞ、と思った矢先だった。
本当に彼女は俺の危惧した通りにつんのめり前方へと身が放り出される。 

「っ!」

しかし、どんなに反応しても、ガラスで仕切られている以上、俺にはどうしてやることもできないのだ。彼女に声を掛けてやる事も、身体を支えてやる事も出来ない。
そんな歯痒い状況を嘲笑うかのように、素っ転びそうになるなまえを支える男の姿が視界に飛び込んで来た。
――例の、あの男だった。

何でこんな時にまでコイツが現れるのだろう?
お陰でなまえは転ばずに済んだのだから、ここは素直に感謝しなければならないが。

「た、助かったぁ……」
「相変わらずそそっかしいな、なまえは。気を付けなきゃだ駄目ろう?」
「すみません……先輩、ナイスキャッチです」
「いえいえ。目が離せなくて困る所は今も健在なんだと思うと、少し心配だ」

その弾みで自動ドアが開いた。
ウィーン、と静かにドアが開く音だけが響いて、なんとも言えない心境にしてくれる。
そして、そんな状況下で俺達三人は何の因果か再会を果たしたのだった。
取り敢えずなまえの腰から手を離せと思ってしまう。

「錆兎……! ごめん、お待たせ!」
「錆兎? ああ……! 弟くん、この間はどうも」
「……どうも」

だから、俺は弟では無いんだがな。

反論したくとも、此処は彼女の職場で、この男は彼女の上司。
なまえの立場を考えると、俺からは何も言えなくなった。
下手なことを言って、迷惑を掛けるわけにはいかない。
そんな事はこの男だって分かっていそうなものなのに、俺に対して態と言っているのだと思うと、益々いけすかない。
まるで全てを理解して俺を挑発しているのか、それとも反応を楽しんでいるのか知れないが……。
俺がなまえの腰に回った手を一瞥した事に気が付いて、彼は苦笑しながら手を離した。
「はは、他意はないから睨まないでくれよ」と言って漸くなまえから離れた。

「なまえ、弟さんがいたんだ?」
「え!? 弟じゃないです!」
「じゃあ、どなた? 是非、紹介して欲しいな。“君の上司”として、さ?」

顔を合わせたのは二度目だが、やっぱり俺はこの男が嫌いだと思った。
この状況で、その問いは卑怯だ。
なまえも殆困り果てたと言いたげな顔をしている。

だったら、今俺が出来る精一杯の虚勢を張って彼女を守ってやるしか無い。
いや、守るだなんて大それたものじゃないな……ただ俺が、そう望んでいるだけだ。
弟でも何でもない。だから、彼女に気安く触ってくれるなと主張したいだけの。

なまえの腕を掴み、此方側へと引き寄せた。
まんまとなまえを取り上げられた事に、男は双眸を見開く。

「……わっ!」
「お前には関係ない。今後宜しくするつもりもないが、説明が必要か?」

なまえの上司と名乗った男は驚いた様な表情をしたが、直ぐにクツクツと喉を鳴らして笑った。
やはり、コイツのやることなすこと逐一腹立たしいな。小馬鹿にされている様で。

「ははっ、悪かったよ。意地悪しすぎたみたいだ」

「おつかれ様」と言って、男はなまえの頭をくしゃりと撫でて戻って行った。
だから気安く触るなというのに。

「あの、錆兎……わ! さっ錆、さび、と……!?」
「……」

男が撫でた上から、ぐしゃぐしゃとなまえの頭を撫で付けた。
なまえが戸惑っている事も気に留めず。
……本当、昔から俺にはしょうもない意地っ張りな一面がある。
それは二十歳になっても健在であるらしかった。

*** 

「……ごめね、錆兎」
「何の事だ? ああ、傘は次から忘れずに持って行けよ。今日は偶々家に居たから良かったが」
「そうじゃなくて……いや、それもあるんだけど」

傘を並べるようにしてマンションまでの道を行く。
突然謝罪するなまえに、俺は特に歩みを止める事も無く、だからと言って深くまで聞く事なく返答をした。

「……その、先輩に“弟か?”なんて言われたから、咄嗟に言い訳出来なくて。……“はとこ”とかにしとけば良かったかな?」
「……」

はとこ?
私と彼の関係は、母の父親の妹の息子の子供なんです。みたいな事か?

「それはそれで余計に面倒臭い設定だからやめてくれ」
「あはは。そうだね」

先程の一件でどっと疲れて、シトシトと降る雨の中、なまえはそのやり取りを改めて俺に詫びたわけだが、そこまでシリアスな表情で謝られると、逆に彼女とあの男の関係性が気になる。
それこそ、初めてあの男と顔を合わせた時から、ただの上司と部下という関係ではないのだろうなとは感じていた。

「なまえはアイツとどういう関係なんだ?」
「……上司と部下、だよ」
「本当にそれだけか?」

俺の言及に誤魔化せないと思ったのか、なまえは小さな声で呟いた。
それこそ、この小雨にまで掻き消されてしまいそうな、小さな小さな声だった。

「……元カレ」
「そうか」

嗚呼、やはりそうだったのか。
よく彼女の事を知っていたし、何となく雰囲気から察していたけれど、実際こうして彼女の口から直々に聞かされると、色々と考えてしまう。

それに今は、もう終わった関係である。
元、なのだから。
だから、そんな申し訳ない顔をして俺に話さないでくれ。

そうこうしているとマンションに着いて、エントランスへと入る。
オートロックを解除して、エレベーターが来るのを無言で待った。
こんな時に限ってエレベーターの乗客は俺達二人だけ。その状況が余計に気まずさを増幅させていた。
五階までの距離が酷く長く感じた。

「そ、そうだ! あのね、今日職場で……」
「なまえ」
「は、はい!」

二階、三階――
ぐんぐんと目的階まで昇ってゆくエレベーターの中で、気を利かそうと話題を振るなまえの言葉を遮った。
今しかないと思ったのだ。
この気持ちを彼女に伝えるのは。

「俺は……弟も、はとこも御免だ」
「そ、そうだよね! うん! ごめ、ん……――」

五階に着いて、ポン!と知らせる音が鳴って開きかけた扉を拒む様に、“閉”のボタンを押したまま、俺はなまえの肩を抱き寄せる。

「好きだ、なまえ。十年前の、あの日から」
「っ、錆兎……」
「だからどうか、拒まないでくれ――」

それは懇願に近い感情だったのかもしれない。
俺のこの台詞こそ、アイツよりも狡いに違いない。

抱き寄せた腕に力が篭った。
そのまま上から被さるように寄せた唇は、薄いピンク色で彩られた彼女のソレにそっと重なった。


20200316
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