「(随分と帰りが遅いな……)」

なまえの帰りを、正確には連絡を待ち侘びる俺は、リビングの壁掛け時計を見やり少しばかり心配になる。
今の時刻は二十時半。
確か今日は定時で上がれるのだと言っていた筈なのに、一体どこで油を売っているのだろう?

彼女の好物であるハンバーグのタネもすっかり完成してしまって、後は帰る時間を逆算して焼くだけなのだが、如何せん肝心な彼女からの連絡が無いので、出来るのは此処までだ。
残念ながらお前の出番はまだ少し先だな……と、困った風に笑って、バットに乗ったハンバーグのタネにラップを掛けて冷蔵庫へ仕舞う。

腰巻きエプロンを外し、椅子の背凭れに掛け置くと、コーヒーを手にソファーへ腰掛けた。

なまえが戻るまで、暫しの休息タイムだ。彼女が戻ると否応無しに騒がしくなる。
やれ疲れた、やれパワハラ上司に扱き使われただのと泣き言を垂れながら放る荷物を回収して、背に抱き着いてくる彼女を慰め、時には叱りながら夕食の準備をするのが毎晩の俺のルーティンである。

他人から見れば面倒この上ない事柄でも、正直俺は彼女の世話を焼く事に関してはそれ程でもない事に最近気が付いた。
寧ろ、心地いいとまで感じる時がある。

最初こそ戸惑ってしまったものの、今となってはすっかり慣れてしまったと言うか、なまえが『錆兎だけは特別』なんて調子の良い事ばかりを言い出すものだから、益々放っておけなくなってしまったというのもある。

そう、俺は存外チョロかった――と、言うのは勿論冗談で、路頭に迷う羽目になりかけた俺を助けてくれたという恩が、大半を占めている。
だから、これはある意味、俺にとっても彼女との関係は特別なものなのかもしれない。

けれど……恋、ではないと思う。たぶん。
それは彼女も同じであると思うし、この絶妙な関係もその感情が露わになればバランスを崩してしまうだろう。

“たぶん”なんて予防線を張るのは、先日の事があったからで……。
今でも鼻先に触れると思い出してしまって擽ったいような感情が湧くのだが、結局、自分の求めた返答が得られなかった以上、それまでだった。
確かになまえは何かを知っている様子だが……。

今度、真菰に尋ねてみるのもいいかもしれない。
子供の頃の出来事であるなら、真菰も何か知っていても可笑しくはないだろうし。

あれこれと思案した後、徐にテーブルへ置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。
しかし、画面をタップしても、電源ボタンを押してみても、俺のスマホはうんともすんとも言わず、画面は真っ暗なままだった。

「……しまった。充電が切れてしまっていたか」

普段からあまり頻繁にスマホを見る習慣が無いので、充電を切らしている事に気が付かなかった。
此れでは何かしらなまえから連絡が入っていたとしても分からない。
急いで充電器にスマホを繋いで、電源を立ち上げる。
すると予想通り、なまえから連絡が入っていた。着信二件とメッセージが一件。
メッセージアプリを開くと【ごめん、急に仕事が入っちゃった】とのメッセージと、泣き顔のスタンプ。
成る程、それならこの時間でも頷ける。
きっと、疲労困憊で帰宅するだろうから、彼女の好きなビールと、それに合うつまみでも用意しておくとしよう。

『あまり根を詰めすぎるなよ』と返信をして、冷蔵庫を開け、食材を漁り始めた。

* * *

いや、それにしても。

「遅い!」

リビングのソファーにどかっと座って腕を組み、吐き捨てる。
門限を破った娘に立腹する昭和の父親みたいな俺が、そこに居た。
メッセージアプリの返信は愚か、こちらから連絡をしてみても音沙汰がない。
只今の時間、二十三時と二十分。
残業だからと言って、なまえの帰りがここまで遅くなった事は無かった為、俺は流石に心配になる。
せめて何かしら連絡をくれれば安心できるのに、それすらも無いのでは心配するなと言う方が無理だ。

もしかして、彼女の身に何かあったのでは……?

そう思うと居ても立っても居られなくなり、俺は上着を来てスマホと鍵、それから財布を持ち、慌ただしく玄関へと向かう。
連絡がつかない事への心配と、苛立ちと――。
最後に今一度なまえのスマホへ電話をかけるも、やはり留守番サービスに繋がるだけだった。

「全く、世話の焼ける……」

何でこうも俺は躍起になっているのだろう?ならずにはいられないのだろう?
幾ら何でも、なまえだって未成年の子供と言うわけではない。成人した大の大人なのだから、この程度目くじらを立てなくたっていいのでは無いだろうか?
俺にその権利は無いのではないか?
俺達はただの同居人。彼女はこの部屋の家主で俺は居候。それ以上でも以下でもない筈なのに。
それでも、やっぱり放っては置けなかった。
俺は、彼女限定で度の過ぎた過保護体質なのかもしれない。

スニーカーの踵を潰しながら無理矢理に足を突っ込んだ、まさにその時だった。
玄関のドアがガチャガチャと鳴って暫く。僅かな静寂を経て鍵が解錠された音がして、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
漸くなまえが帰って来たのだ。
それに対する安堵と呆れと、少しの怒り。
それらをひっくるめた様な声音で、半分開いたドアを補助するように開けながら言った。

「おい、幾ら何でも帰りが遅すぎる……ぞ、」
「ああ、こんばんは」

突然な事と、予想外の出来事に、俺は固まる。
玄関のドアノブに手を掛けたまま、動けなくなった。
だって、誰が想像するんだ。
こんな夜中にやっとの帰宅かと思えば、見知らぬ男がなまえを横抱きにして部屋を訪ねて来るなんて。

男の肩にはなまえの仕事用の鞄が掛けられていて、その腕にはまるで蒟蒻か何かの様にでろんと脱力したなまえがすっぽりと収まっている。
その、俄に信じ難い有様に、俺は実に言い表し難い感情を無意識のうちに抱いてしまっていた。

その男は俺よりも背が高く、端正な顔立ちをしているし、腕には高価そうな時計をはめている。
スーツに身を包んで、俺には持ち合わせていない大人の余裕で溢れているようだった。
視線が交わって数秒、男はいけ好かない表情で俺に笑い掛ける。

「あれ? なまえに弟さんなんていたっけ? 初めまして」と、言った。
そこでまた少し感情を逆撫でられて、ピクリと眉を顰めた。
俺はなまえの弟ではないと主張しかけて、ぐっと堪える。
だったら俺はなまえの何なのだろう?と、不意に浮かんだ疑問で頭の中が埋め尽くされたからだ。
ただの居候。同居人。
どうしても、この男を前にして言い出せなかった。

「遅い時間までなまえを連れ回してごめんね。今日は職場で俺の歓迎会を開いてくれていて」
「……」
「はは。そう睨まないでくれよ。お開きになったのに、無理を言って遅くまで付き合わせてしまったのは俺なんだ。だから、なまえを叱らないでやってくれ」

そもそも今日は、遅くなる理由が仕事では無かったのか?
飲みの席を断れなかったにしろ、お開きになってまでコイツに付き合う特別な理由がお前にはあったのか?
早く帰って来ると。俺の作った夕食が食べたいと言ったろう?

――俺を“特別”なのだと言ったのは、お前じゃないか。

半ば八つ当たりの様な感情が腹の底に沸々と沸いていた。
彼女には彼女の世界がある。俺にはどうしたって踏み込めない領域があるのは至極当然であるのに、何故俺は眼前の男に対してどうしてこんなにも落ち着いていられない?
安易に酔っ払うなまえに腹が立って仕方がないんだ?

「そうか。なまえが世話になった」
「おっと」

俺は、彼の腕から未だに眠ったままのなまえを半ば強引に引き剥がし、自分の腕の中に収め直した。
「んうー……もう飲め、ない」と寝言を漏らす彼女の呟きを聞きながら、抱く腕に力が篭る。

「ああそうだ、良かったらこれを彼女に。随分酔っ払っているから、目を覚ましたらなまえに飲ませてあげて貰える?」
「……」

ガサ、と差し出されたビニール袋には二本のペットボトルが入っている。
水だろうか?

「なまえは酔っ払った時にはレモン水を好んで飲むから」
「……よくなまえの事を知っているんだな。だが、結構だ」
「そっか。……うん、わかった。無事になまえを送り届けた事だし、今日はこれで失礼するよ」

最後までいけ好かない男だったと、玄関のドアが閉まるのを確認して、鍵を閉めた。
かく言う俺も、こんな事で苛立ってしまっているのだから、彼を責められたものじゃない。
なんというか、俺ばかりが余裕を無くしていたと思う。
今だって心がざわついて仕方が無いし、自分の知らなかったなまえをひけらかされた様な気がして気分が悪い。
そして何より、こんな事で一々気が立ってしまう自分の器の小ささに嫌気がさす。

「……こんな筈じゃ無かったんだが」

いつからこんなにも俺はなまえに拘ってしまっていたのだろう?
俺が居なければ生きていけないなんて冗談交じりに嘆いてばかりの彼女に、いつのまにか絆されていたのは俺の方だったのか。

なまえをベッドへ寝かせて、脱衣所からシートタイプの化粧落としを手に寝室で眠る彼女の元へと戻る。
人の気も知らないで、なまえはだらしない寝顔でスヤスヤと寝息を立てている。
起こさない様に気を付けながら、彼女のメイクを拭き取って落として行く。

「んむー……」
「あ、おい! 動くな。化粧が落とせないだろう?」

眉間に皺を寄せて唸りながら、ゴロリと寝返りを打つ身体を仰向けに戻そうと、細い肩に手を掛ける。
半ば強引に体勢を戻せば、不意に彼女から酒の匂いに混じった男性物の香水が漂う。
言わずもがな、それは先程なまえを送って来た男の物だろうと悟った。

色付いたままの唇が僅かに動いて、“誰か”を呼んだ。

「……先、輩」
「!」

彼女の口から紡がれた俺以外の名前も、鼻を擽った知らない香水の匂いも。
嗚呼――気分が悪い。気分が、悪い。

せめてそれが俺の名前であったなら良かったのに。
そんな事を無意識に思ってしまった時点で俺の負けだった。

「頼むから、これ以上妬かせるな……」

片手に体重を乗せて、身を屈める。
ベッドがギシリと軋む音を聞きながら、それこそ此方まで酔ってしまいそうな唇に、己のソレを重ね合わせた。

こんな感情、彼女と関わらなければ、俺は知らずに済んだ。
知らなくてよかったのだ。
強欲な自分を知りたくも無かった。

ああ、そうだとも。
これは嫉妬で、独占欲だ。
他の男にみすみすくれてやるつもりは毛頭無いさ。


20200307
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「見えない臓器の名前は」
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