あの夜は、私にとって心身共に随分と尾を引く出来事となった。
彼の腕に囚われたまま、まんじりともせず朝を迎えてしまった私は疲労困憊の状態で任務にあたる事となってしまい、やっとまともな休息を取れたのは、実にあの夜から二日後の事だった。

立て続けに入ってきた任務と義勇のせい(大方の原因はこちら)で、二徹を余儀なくされた私は生気のない顔に濃い隈をつくり、重だるい身体を引き摺りながらやっとの思いで此処――藤の家紋の家に辿り着いた。

さそっく風呂をいただいて疲れを癒し、浴衣に着替えて準備は万端。
それは、次の任務に備え、ここ二日間分の睡眠を存分に取り戻してやろうと思いつつ、廊下を歩いていた時の事。
足を止めた場所が自分に当てがわれた部屋だとばかり思っていた私は、襖を開けるなり中に人の姿を見つけて思わず襖を開けたまま固まってしまった。
居る筈のない人が部屋で行儀良く座っていれば驚きもする。

そして、私が微動だにせず固まってしまった、その最たる理由はこれだ。

“立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花”

その言葉を如実に表したかのような佇まいに目を奪われる。
すらりと真っ直ぐに背筋が伸びた姿勢で座っている女性は、さながら牡丹の花そのもののようでいて、華やかで、けれどどこか儚げな雰囲気を醸し出し――とても美しかった。
伏せていた目をゆるりと一度瞬かせ、まるで海の底を思わせるどこまでも深い青の瞳が私を捉える。

涼しげな目元に挿された化粧がとても印象的で、噤んだままの形の良い唇にも紅が施されていて目を惹く。
同じ女性として、可笑しな表現になるかもしれないが、その美しさに暫し見惚れてしまった。
そんな惚けた顔をしたまま彼女を見つめてしまった為に、女性は気不味そうに視線を逸らした。
初対面であるにも関わらず凝視していては失礼だと、絡め取られていた意識を無理矢理引き戻して頭を下げる。

「あ、えっと……すみません! とてもお綺麗だったのでつい見惚れてしまって。部屋を間違えてしまったようです。大変、失礼致しました」
「……」

一礼して、襖を閉めようとした時だった。
対面から伸びた手が、襖を掴む私の手首をむんずと掴む。

驚きのあまり、双眸を見開く。
先程、美しいと見惚れたばかりの女性は、立ち上がると私の背丈よりも頭一つ分抜けていて、手首を掴む手も女性とは思えない程節くれ立っていた。私の手よりも一回り大きく、筋張った無骨な手だ。
女性らしからぬそれらに違和感を覚えつつ恐る恐る仰ぎ見ると、女性は眉を潜め、複雑な色を滲ませた表情で此方を見下ろしていた。

「待て」
「……は? その声って、まさか――」
「……」
「うそ、義勇? ちょっと待って、なんて格好してるの!? ……ぶはっ! はははっ、あはは! 駄目だ我慢できない!」

呆気にとられ、信じがたい事実を突き付けられるや否や、じわじわと面白さが込み上げて我慢ならず吹き出してしまった。
そんな私に対し、義勇は不服そうな表情を浮かべながら視線を逸らす。
その問いに返答は無かったが、無言は肯定であるとよく言うから、義勇本人なのだろう。
それにしても驚いた。まさかあの義勇が女装をしているだなんて。
今一度よく観察してみると、顔は“女性のよう”であるが、肩幅や胸板の厚さにも何だか違和感があった。着物姿であったから即座にそれらの違和感に気付けなかったのだ。

それに加え彼の代名詞である半々羽織も無く、無造作にまとめられた髪ですら今は項が露出するように高い位置で結われているのだ。
冨岡義勇という個を表す――言わば、存在証明とも取れそうなそれらを根こそぎ取っ払った上、そこに化粧を施された美しい女性の顔が引っ付いていれば、正直、彼をあまり良く知らない人間は誰も一目で“男性”だとは気付かないだろう。
つまりは、良く出来た――完璧な女装というわけだ。
これだから無駄に美形な奴は。

差し詰め、遊郭へ情報収集の為の潜入調査といったところだろうか?
こういった事は平隊士にでも任せればいいのにと思う。
けれど、彼には継子もおらず、ましてや柱であるせいかそのとっつきにくさに拍車を掛けているような気もする。
その人間性からか、平隊士から距離を置かれる義勇には、遊郭での潜入調査を依頼出来る人材が見当たらなかったのだろう。

ひとしきり笑って、目尻に溜まった涙を指で拭う。

「はぁー、笑った笑った」
「笑いすぎだ」
「だから、ごめんってば。これから任務……だよね? まあ、頑張って」

任務でなかったら困ると思いながらも、一応確認するまでもない事を問い、部屋を離れようとした時だった。
踵を返した直後、掴まれていた手に力が込められる。そのまま力一杯に引っ張られ、不意を突かれた私は抵抗も何も出来ぬまま部屋へ連れ込まれてしまった。
タン!と襖が勢い良く閉まる音が、やけに耳に残った。

「うわ! ちょ、何……義勇!?」
「逃げるな」
「はい? 別に逃げる訳じゃ……部屋に戻ろうとしただけだって。さっきまで任務だったから疲れてるの」

それでも尚、彼は私の手首を掴んだままだ。先程の言葉通り逃がすつもりはないとばかりに。
しかし、私もいい加減、部屋に戻って眠りたい。いつまでも義勇と話をしていないで休息をとりたかった。
寝不足のせいで頭痛がする。

「あー……それとも感想が必要? うん、とっても似合ってるよ。すっごく美人だし。それじゃ――っ!」

言って、手首を無理矢理に振り払って義勇の手を解く。
にべない態度で背を向けて再度襖に手を掛けると、背後から包み込む様に抱き締められた。

力強く背後から抱きすくめられて、顔が後頭部に埋められる。
そのまま、すんと鼻を鳴らす音が耳に届いた。

「っ!? んなっ、止めてよ……す、吸わないでってば!」
「女の真似事をした姿を似合うと言われて喜ぶ男がいると思うか?」
「はい?」

直後、浴衣の襟を引っ張られて露わになった項にガプッと噛み付かれる。それは勿論甘噛みであるが、耳元で囁かれる声と、不意に襲って来た背筋の粟立つような感覚に身が震えた。

「んぅ……ぎ、ゆう……やめっ、!」

何の気なしに告げた言葉がどうやら彼の感情を逆撫でてしまったらしかった。しかし、今更それを後悔したって遅いのだけれど。

項が弱い私は、相手が義勇であるにも関わらず、思わず反応を示してしまって鼻に抜けるような甘い声を漏らしてしまう。
その反応に気を良くしたのか、身体を反転させて正面から私を見下ろす義勇はしてやったりとばかりに表情を緩める。

「お前は、女の格好をした男相手に頬を染めるんだな」
「い、今のは不可抗力だから……! 義勇だからって訳じゃないからぁ!」

私を見下ろす美しい笑みがまた一つ濃くなった。
今、この状況でいくら口を開いても、所詮全てが言い訳に聞こえてしまうのだろう。
襖に背を預け、その両端には義勇の手が突かれているせいで、逃げただす事は不可能だった。
仕方がない、これ以上変な事をされるようなら全力で抵抗するとして、もう少しだけ此処に留まっているしかないようだ。……実に不本意だけれど。

「……分かった、逃げないから。その手を退かせてよ。……何か言いたい事があるんでしょ?」

その問いに、義勇はキョトンとして双眸を瞬かせると、大人しくその手を退かせた。
一刻でも早く睡眠を取りたいところではあるが仕方がない。
多くを語らずとも何となくで彼の気持ちを察してしまう私は、いよいよ絆されているように思う。

「先日、俺の屋敷に来ていたか?」
「え?」
「夜の話だ。正直、記憶が曖昧で、はっきりと覚えていないが……だが、確かにお前を腕に抱いたような気がする」
「……」

いや、言い方。
先日あの場にいなかった人間がその言葉だけを聞いたら存分に誤解を招くだろう。

腕に抱いたなんて言い方はやめてほしい。あの夜、散々言葉での辱めを受けて、抱かれたというより抱き枕にされてしまったせいで一睡も出来なかったのだ。
それでも明け方、ぐっすりと眠る義勇の腕からやっとの思いで抜け出す事が出来、音を立てずにこっそりと水柱邸を後にした。

「だから、そういう事なのだろう?」
「うん?」
「俺とお前は、あの夜、そういった関係になれたのだろう?」
「……」
「……」

あまりに一足飛びの思考と言葉に思わず固まった。
つまりはそういった関係というのはお互いの気持ちを確かめ合って、私は義勇の思いに応えたとか、そんな冗談にしても笑えない結論に至ったという事だろうか?
満悦に「ムフフ」と、笑む義勇を前にして、その予感は当たってしまったのだと気付いた。

いや、違うよおおおお!
全然、これっぽっちも、微塵もそんな事にはなってないよおおおお!

心の中で、存分に叫び散らかす。

「い、いや……義勇、ちょっと待って、違うから!」

「恥ずかしがらずともいい」なんて勘違いも甚だしい言葉を口にする義勇に私は一体どうしたものかと頭を抱えた。
無言は肯定とよく言うが、違う。驚きすぎて、思考が追いつかないが為の無言だったのだ。

徐に顎へ掛けられた指が私を上向かせる。
先程、息を呑むほどに美しいと感じた瞳が、物欲しそうな色を滲ませて私を射抜く。
魅せられて、見惚れて、一瞬抵抗を忘れてしまう。
彼は存外、色事に向いているのかもしれない。

「義、ゆ……」

嗚呼、駄目だ。唇を奪われる。
いつだったか、二度あることは三度あり、三度あった事はこの先もずっとあるだなんて皮肉ったものだが……冗談でも考えるべきではなかったと痛感する。

いよいよ互いの唇が重なる、その刹那――。
襖一枚隔てた先から「冨岡様」と女性の声がする。
それは鈴を転がすような美しく、可愛らし声だった。

近付く唇が途端にピタリと止まったかと思うと、顎から指が離れてホッと安堵の息を吐く。
絶妙なタイミングで声を掛けられた事で救われた。
あのまま何もなければ、今頃私の唇は又候義勇に奪われていたに違いない。

――残念?いやいや、そんな事あるわけがない。

私をその場から退かせて襖を開け、女性を迎え入れる義勇の仕草に一瞬言葉にならない何とも言い難いもやっとした感情が胸に湧いた。
それこそ気のせいだと思えるほどの、僅かで小さな……けれど、今までには感じた事のないこの感覚。

私をお座なりにして、部屋を訪れた女性を優先した。

義勇にそんなつもりはなかったのだろうが、何故、私はそんな事を僅かであっても思ってしまったのだろう?

この家の使用人だろうか……いや、それにしては小綺麗な格好をしているし、その身なりから察するに使用人ではなく此処のご息女だろう。
その腕には良く知る彼の“半々羽織”が抱えられている。
大切な物だと言って、いつも肌身離さず身につけており、義勇はよっぽどの事がない限りその羽織を脱がない。だから、驚いたのだ。

「出過ぎた真似かと思ったのですが……ほつれが見受けられましたので、繕っておきました」
「そうか、手間を取らせてすまない。助かった」
「い、いいえ……そんな事は」
「(……へぇ)」

そのやり取りと言うよりは、特に彼女の反応だろうか。実にわかりやすいと感じたのは。

「それで、あの、冨岡様……」
「その羽織は俺にとって大切な物だ。任務が終われば、また取りに戻る。それまで預かっておいてもらえるか?」
「はい、勿論です。どうか無事に戻って来てくださいませ」
「ああ。よろしく頼む」

何だか二人のやり取りに居た堪れなくなってしまった。
頬を染めて初々しい反応を見せる彼女は、女の私から見てもとても可愛らしく、好ましく感じられた。
気立も良く、女性らしく、透き通るような白い肌。
引き換えに、私は愛想もなければ可愛げの一つもない。肌だって傷だらけであるし、女性らしさなんてものは微塵もない。
女性として、彼女と私を天秤に掛けるまでもなかった。

「それじゃ、私はもう部屋に戻るから。此処から先はお二人でどうぞー」
「は? おい、待て。話はまだ終わってない」

その声を背に受けながら、けれど私は振り向くことはせず部屋を後にした。
廊下を行く最中、私は小さなため息を吐き独り言ちる。

「何でこんなにモヤモヤしちゃうの……ああもう、くっそぉ……」

左胸が酷く痛む理由を暴き、認める勇気が私にはまだ無い。


20230709
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「見えない臓器の名前は」
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