「お! みょうじ、お前いい所に居たな!」

正直、その言葉を掛けられて良かったと思えた試しが無い。
この場合の“いい所”とは、謂わゆる“都合のいい所”と言う意味であって、十中八九、災難や厄介事を押し付けられる常套句であると思う。
私の二十一年間の人生を賭けたっていい。
今に見ていろ。面倒事を押し付けられる、お決まりの展開が待ち受けているから。

今し方、任務地から戻ってきたばかりの私は疲労困憊だった。
このまま近くの藤の家紋の家にお世話になるつもりで、持てる気力を振り絞り帰路についていたのだ。
そんな時、お決まりの文句を背後から投げ掛けられ、渋々歩みを止める。
その声の主が彼――音柱の宇髄さんでなければ絶対に私は足を止めなかったし、聞こえない振りを貫いていた事だろう。
流石に相手が柱とあれば、何も聞こえなかったの知らんぷりとはいかないものだ。
例えばそれが、何処かの水柱の誰かさんであったなら話は別だったけれども。

振り向かんとする身体が鉛のように重かった。
幾度となく経験したこのお決まりの展開に、本能が拒絶反応を示しているのかもしれない。
振り向いては駄目だ。ろくな事にはならないぞ。今まで散々痛い目を見ただろう。
己の中のもう一人の自分が警鐘を鳴らしているのだ。

立ち止まったまま一向に振り向こうとしない私に痺れを切らしたのか、宇髄さんは再度私の名を呼んだ。
足を止めてしまった時点で、私はこの運命から逃れられない。
錆び付いた発条仕掛けの絡繰の如くぎこちない動作で背後へ身体を反転させると――嗚呼、やっぱりろくな事にはならなかった。

宇髄さんに片腕を担がれるような態勢で身を支えられる人物を視界に捉えた瞬間の私の顔といったら、それはそれは酷く引き攣っていたに違いない。

「……宇髄さん、私は何も見てません。貴方に担がれているのが誰かなんて知らないし、見てないですから。それでは、お疲れ様でした。おやすみなさい」
「おいコラ、勝手に一人で完結させるな。これ、お前に任せるわ」
「うわっ、ちょ、宇髄さん……!?」

この状況で、知らぬ存ぜぬなど甘っちょろい言い訳が通用する筈も無かった。
言って、宇髄さんは私目掛けて容赦なく酔っぱらった義勇を投げて寄越す。

正直、困惑していた。何故なら、私はこんなにも酔っぱらった義勇を見た事がなかったのだ。
一体何があって、こんな無茶苦茶な酔い方をしてしまったのだろう?
放られた彼を受け止めただけでキツい酒の匂いが鼻を突き、思わず「酒くさ!」と叫んでしまう。

「ん、う……その声……なまえ、か?」
「ひぃっ! な、なななな何っ!?」

泥酔した義勇を支えるだけでやっとであるのに、掠れた声で名前を呼ばれて思わず動揺した。
常日頃、冷静沈着を絵に描いたような彼が、舌ったらずの甘ったれた物言いで私の名を呼ぶのだから動揺せずにはいられない。
なので、前もって言っておくけれど、これは決して彼への好意云々からの動揺ではなく、想定外の出来事で不意を突かれた事による動揺である。

「良かったな冨岡。今お前が凭れてんのはみょうじ本人だぞ、本人」
「本、人……? そうか……なまえ――」
「うわああああ! ほ、ほほほ頬をっ、擦り寄せないで頂きたい! 宇髄さん宇髄さん宇髄さん!!」

慌てふためき動揺の極みとばかりに叫び散らす私を、ニヤニヤと表情を緩めて眺めるだけの宇髄さんに助けを求めても、その願いを聞き入れて貰えるわけも無い。
その代わり――であるのかは定かで無いが、宇髄さんは頼んでもいない事の仔細を話してくれる。
それは勿論、義勇が何故此処まで酔っ払うに至った経緯であるが、正直そんなもの微塵も興味は無かった。
私が望む事はたった一つであるのだから。

今直ぐに、直ちに、この酔っ払いを引き剥がして欲しい。

「冨岡は、お前の話ばっかしてたぞ。飲みに誘ったら珍しく乗って来るもんだから、何があるのかと思えば……お前、コイツに相当惚れ込まれてんのな」
「そんなもの、全く身に覚えが有りませ……う゛、重」

よりにもよって、宇髄さんに話すだなんて、彼は何を考えているのか。
これ以上事を荒立てて欲しくない。
そもそも私は彼の告白を断ったのに、受け入れて貰えないばかりか、こんな風に外堀を埋めて逃げ場を無くすような展開に持ち込むなど姑息千万な真似を。

こうなれば断固としてこの駆け引きに屈するわけにはいかなくなった。
それは、意地でも。何としてでも。
どんな手段を使われようと、交わることのない平行線のような関係を貫いてやる!などと、少々脱線し、捻くれた観念の元、戦いの火蓋が切られた瞬間だった。
生殺与奪の権は、何があろうと握らせない。

「お前ら案外上手くいくんじゃねぇの? 同期で付き合いも長いし、お互いの事も理解してんだろ?」
「やめて下さいよ……縁起でもない」
「あとそれも、よく似合ってるしな」

宇髄さんの“それ”という言葉に反応して、思わず髪に結んだリボンを手で覆い隠した。

“それも”なんて言い方はよして欲しい。嫌でも、意識してしまうではないか。
きっと、酒の勢いに任せてリボンの事も喋ったのだろう。
言っておくけれど、これは断じて義勇にいつも付けていろと言われたからそうしているのではない。
リボンが可愛らしいから付けているだけ。だって、どんな理由があろともリボンに罪はないでしょう?

義勇から手を離したばかりに、支えをなくした彼の身体はズレ落ちる。地に伏す既の所で何とか受け止めた。

「うう……こ、腰が!」

泥酔し、自立困難である成人男性を支えるのは非常に厳しい。
幾ら日頃から鬼殺の剣士として鍛えていても、鬼の首を切っても、大の大人を支えるのとは訳が違う。

その様を見て満悦に表情を緩める宇髄さんには疑問しか残らないが、彼は「それじゃあな」と、勝手に一人満足し、自己完結させて私の頭をポンとひと撫ですると踵を返した。
つい先程一人で完結させるなと言ったのは宇髄さんであるのに。

夜も更けた路地に人通りはなく、宇髄さんが立ち去ったこの場にはポツンと佇む私と酔っ払った義勇の二人のみ。
そこら辺の電柱にでも凭れ掛からせ、そそくさと帰ってしまおうかとも思ったが「なまえ……」と、混濁する意識の中で名前を囁かれ、その気も削がれてしまった。

そもそも強烈に酒臭いので、そう言った雰囲気になる筈もなく……。
こんなもの、ただの酔っ払いの戯言として終わらせるに限る。

仕方がないと溜息を吐いて、脱力した義勇の身体を支え直す。
自分よりも大きな体躯を効率良く運ぶには背負うしかない。
勿論、完璧に背負う事など出来やしないので、私の背に義勇が凭れかかる様な格好にして、左右それぞれ肩から伸びた両腕をしっかりと握り、下半身はズルズルと地を擦るような態勢で引き摺りながら水柱邸を目指す。

幸い水柱邸は此処から目と鼻の先程の距離にある。
一刻も早く運び終え、さっさと玄関に捨て置いて帰るとしよう。
藤の家紋の家で湯を貰って、ふかふかの布団でゆっくり眠りたい。

この厄介事から一早く解放されたい、自由になりたい……そんな望みばかりが湧いていたのだった。

***

――と、思っていたのに。

「ちょっと! 玄関で寝ないでよ」
「……ん」
「あー、もう……」

捨て置くなどと言ってはいたものの、結局私は義勇を玄関先に放って帰る事が出来なかった。
玄関の上がり口へ義勇を横たえると、床の冷たさが心地よかったのかその場で寝息を立て始めるものだから、致し方無しに再び義勇を担ぐ――のは流石に重たくて無理であったので、玄関で伸びる義勇の両足を両脇にそれぞれ抱え、さながら荷車でも引くかのようにズルリズルリと身体を引き摺りながら廊下を行き、部屋へと向かう。

一体私はこんな所で何をしているのだろうかと思えてならなかった。
全ては宇髄さんと出会ったのが運の尽きであったのだ。
厄介事を押し付けられたばかりに、いつまで経っても私は休息出来ない。

部屋に入り、押し入れから引っ張り出した布団を手早く敷き、そこへ義勇をゴロゴロと転がしたところで漸く私は宇髄さんから託された役目を完遂させたのだった。
全く、骨の折れる役目であった。こんな事は御免被る。

「大仕事だった……今度こそ帰る。絶対帰る――うおわっ!?」

しかし、踵を返した瞬間、不意に足首を掴まれる。
不意を突いて無防備な人間に対しそのような蛮行を働いたらば、一体その相手がどうなってしまうのかなど、考えるまでもないだろうに。
まさかそんな斬新な引き止め方をされるなど露程も思わなかった私は、前方へとつんのめり、倒れ込む。
情け容赦無く顔面から畳へと突っ伏した。

「ほげぇ!」

顔面を激しく打ち付けてしまい、さながら蛙が潰れたような声が漏れ出てしまった。
正に、百年の恋も冷めるであろう滑稽な呻き声であったと思う。
「痛ぁーい!」と喚きながら、未だ違和感の残る足首へと視線を滑らせると、今し方布団へと放ったばかりで、眠りこくっている筈の義勇の手が足首を握り締めているではないか。

しかし、私が散々喚き散らしても反応が無い所を見ると、この引き止めるという行為は無意識下で行われたものであるらしく、私をこのまま逃すまいとする彼の執念みたいなものがその行いを介して滲み出ているようで少々恐ろしかった。
恐ろしくあると同時に、ドン引きだった。

やる事なす事尽く重いわ!

一思いにペチン!と頭を叩いてみるも、義勇はピクリとも反応を示さない様子から、本当に眠ったまま無意識の内に私を引き止めていたらしかった。

「……そうまでして私に居て欲しいの?」

義勇が眠っているのを良いことに、らしくない言葉を吐き出して、尚も足首を掴んだままの彼の手に自分のそれをそっと重ねた。
大きな手。私の手など優に包み込んでしまいそうなゴツゴツとして筋張った男性の手だ。
けれど、それでいて指がスラリと長くて綺麗な彼らしい手だった。

ぼんやりと義勇の手を観察していた事に、はたとする。
私は一体何を思い、何を口にし、何て事をしていたのだろうと。

「……いやいやいや、何やってるの私。帰るんだよ! さっさと帰る! 帰るけども……は、離れない!」

正気を取り戻したは良いが、いざ義勇の手を解こうにも相当な握力で足首を握られてしまって、私の腕力を持ってしたところで、それはびくともしなかった。

「……なまえ」
「あ、義勇! 起きたなら早く手を離して。帰れない」

今し方、布団の上で伸びていた男は、私の名を寝言のように呟きながらのっそりと上半身を起こし、虚な瞳で私を捉える。
酔いが回っているせいなのか、焦点の合わない瞳からはいつも以上に感情が読み取れなかった。
普段から彼の感情も思考も読み取れたものではないが、今の状況ではいつもに増して読み取れそうにない。
つまりは、もうさっぱり。お手上げ状態というわけだ。

「離さない」
「は?」
「このまま、お前を帰しはしない」
「はぁ!?」

足首から手は離れたものの、今にも覆い被さらんとばかりに四つん這いで距離を詰めてくる義勇に、私は座り込んだまま後退して距離を取る。

幾ら後退しても、その分距離を詰められれば一向に状況は変わらない。
いつまで経っても義勇からは逃げきれない。
しかし、物には限界がある。
さして広くもない部屋で後ずさっていれば、いつかは行き止まりになってしまうもので――。

その最悪の事態に陥ってしまった。
いよいよ追い詰められ、背に壁の感触を受けた時には、義勇の端正な顔が眼前にまで迫り来ていた。

「どうした……もう、逃げなくていいのか?」
「逃げたくても逃げれないんだよ! 後ろが壁だから!」
「そうか。なら、もう諦めろ」
「――っ」

しかし、諦めろと言われて大人しく諦める私ではない。
持ち前の往生際の悪さを遺憾なく発揮して、鼻先が触れ合わんとする距離まで近付いた美しい男の顔を全力で突っぱね、押し退けた。

これは全方位からどう見ても拒絶行為であるのに、何を勘違いすればそんな都合の良い思考に至るのか彼の脳内が知れなかった。
義勇は、顔を押し退ける私の手を掴むなり、何を思ったのか己が頬へとその手を再度当てがい直した。
そして、あろうことかその当てがった私の掌に自ら頬を擦り寄せたのだ。
まるで猫が甘えるかのような仕草で、その無駄に美しい顔をスルリと。

「ひぃ! な、何をして……」
「お前は俺の顔が好きなんだろう? 甘露寺から聞いた。満足するまで触れるといい」
「(蜜璃ちゃん……!)結構です! あれは語弊があって……消去法だったというか、その」
「恥ずかしがらずともいい。遠慮するな」
「遠慮とかそういう問題じゃ無くて! 義勇、本当に酔ってるんだよね!?」

終始真顔であるから、思わず酔いの有無を確認してしまった。
酔っ払っているのを良い事に好き勝手してるのではないかと、疑わしい程に顔色が変わらないのだもの。
しかし、まるで会話が成り立た無い事を思うと、彼は確かに酔っ払っているらしかった。

「もっと触れて、眺めて、確かめろ。お前の好きにして構わない」
「しないしないしない!」

何が私のしたいようにすれば良い、だ。
そもそも好きもクソも無いのだから、そんな風に迫られたって彼の言葉には応じかねる。
無駄に顔が良いばかりに、嫌でも意識してしまう。この密接した状況下では尚の事。
好きでも何でも無い筈なのに、私の心臓は意に反してバクバクと暴れ回り、早鐘を打つ。

「……なまえ」
「今度はな、に――っ!」

名前を呟いたかと思うと、今度は一思いに抱き締められて、いよいよ突き飛ばすことも、抗い、拒絶する事も叶わなくなってしまった。
ただただ息苦しかった。それくらい思いの籠もった抱擁に、私は困惑する事しか出来ずにいる。

頬に触れさせたり、抱き締めたり……忙しいことだ。
次は一体どのような手を使って私を絆しにかかろうと言うのか。
それでも、私は屈しないけれど。

「好きだ……愛しい」
「!」
「お前が欲しい。誰にも渡したくない……早く、俺を選んでくれ」
「……酔っ払うと、口が良く回るのね」

普段からこのくらい饒舌であったなら、誤解を招くこともないのだろうけれど。

「なまえ、好きだ。腕に抱いて、何処にもやりたくない」
「あの、義勇……ちょっと」
「隠して、誰の目にも触れさせず、俺だけのものにしてしまいたい」
「う、あ……あのっ」
「お前の全てを奪う権利が欲しい。余所見など出来ないくらい俺で満たして……いっそ、このままお前を閉じ込めてしまえたら」
「わあああ! もう、いいから! 分かったから、もう止めてってば! この酔っ払い!!」
「好きだ――もごご」

一体何の嫌がらせであるのか。
胸が焼け、胃もたれを起こしかねない重たすぎる数々の愛の言葉を浴びせ続けるだなんて、ある種の羞恥プレイであると思う。
そして安定の重苦しい愛情であった。

「そうか。分かってくれたのか。ならば、お前はもう俺のものだな」
「いや、断じて違います」

今この状況では酔っ払った義勇に何を言っても、どんな言葉をかけても無駄なのだと思った。
その結果がこの検討違いも甚だしい返答なのだから。
しかし、今までに見たこともないくらい柔らかな表情で「ムフフ」と、それはそれは幸せそうに笑うものだから、彼を引き剥がす事も、声を荒げて拒絶する事も出来なかった。

漸く気が済んだのか、はたまたただ単に限界で眠気に抗えなかっただけであったのかは分からない。
義勇は今度こそ寝息を立てて眠りに就いたのだった。
当の私と言えば、現在も義勇の腕に捕われたままだ。
義勇が眠りに落ちる前に腕を解いてくれなかったが為に身動きが取れない。
再度力を込めてみても、やはり彼の腕はびくともしなかった。
結局藤の家には泊まれず終いであるし、ゆっくりお風呂に浸かる事も、ふかふかの布団にて大の字で眠る事も叶わなかった。

冒頭で絶対にろくな目に合わないと、嫌な予感しかしないと危惧していた。
蓋を開けてみればその通りに物事は進み、こうして夜は更けてゆく。
私の二十一年間の教訓が証明された瞬間であった。全く嬉しくないが。

どうせ明日になれば今夜のことなんて忘れているんでしょう?
酔っ払いの言葉ほど間に受けてはならないものはないのである。

「……だから、信じない」

自分で吐き出した言葉であったのに、どうして僅かでも心がザワついたのか。
それはほんの少しだけ、言うなればそよ風で草が揺すられたような微かで不確かな物であったけれど、気付いてはいけない――そんな気がしたのだ。

20200729(202326 加筆修正)
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