「よォ! 不死川妹」
「へ? 宇髄、先生……?」

“よォ!”ではない。
そもそも、そんな軽い挨拶で済ませる時間帯では無い事を、この人は分かっているのだろうか?

もう直ぐ日付が変わろうかと言う時間にインターホンが鳴るなんて可笑しいと思ったのだ。

よく飲みに出掛ける父親も今日は在宅していたし、不審者や泥棒なら絶対にインターホンなんて鳴らさない。
不自然極まり無い深夜の訪問者に対し、私は護身用のゴルフクラブ(何故か傘立てに混じって刺さっていた)を手に持って恐る恐る玄関のドアを開けたのだけれど――。

豈図らんや、その先に立っていたのは自分の通う学園の美術教師、生徒からつけられたあだ名は輩先生こと宇髄天元先生だったとは。

いつでも応戦出来るようにと胸の前で強く握り締めたゴルフクラブの存在に気付いた宇髄先生は、キョトンとした後、吹き出して「オイオイ、随分と物騒な出迎えじゃねーの」と揶揄うような口振りで言う。

「あ、ああ……これはその、違くて! もしもの為と言うか、決して宇髄先生をボコボコにしようだなんて思ってません」
「そいつは逞しいこった。悪いな、こんな遅い時間に」
「どうしたんですか? ……って、実兄!?」
「そー、お前の兄ちゃんちょっくら飲ませ過ぎちまって。アパートの場所知らねぇし、こっちに連れて来たってわけ」

そこには、宇髄先生の肩に腕を回して凭れ掛かった状態の泥酔した兄の姿がある。

宇髄先生の言葉通り、兄は“ちょっくら飲み過ぎた”らしい。
正直これは、飲み過ぎと言うよりもはや泥酔ではないだろうか?
呼び掛けても返事が無く、反応すらない。
こんなにも酔っ払った兄を目の当たりにしたのは初めてであったから、驚きよりも心配が先に立つ。

とは言え、自立歩行が不可能なこの状態の兄をこのまま玄関に放って帰られてしまったら、私一人では到底どうする事も出来ないので、その状況だけはどうしても回避しておきたい。

「ええっと……玄弥を呼んで来るので、少し待っていてください」
「おう、悪いな」

直ぐ様眠っていた玄弥を叩き起こし、宇髄先生からへべれけ状態の兄を預かる。
実兄は筋肉質であるから、身長が僅かに優っているだけの細身の玄弥一人では足元がふらついて何とも心許ない。
ここはやっぱり玄弥ではなく父親を呼ぶべきだったかと人選をしくじったと思ったが、しかし、父と実兄は父子でありながら犬猿の仲であるので、やっぱり選択肢は玄弥しかいなかった。

玄弥と挟むように反対側から身体を支えつつ、何とか二人掛かりでリビングのソファーへ実兄を運び終えた。
運ぶと言うより、最後はソファーへ放り投げたと表現した方がしっくりくる。
あとは大丈夫だから任せていいと告げると、眠気がピークであったらしい玄弥は気怠そうに身体を引き摺ってさっさと部屋へ戻ってしまった。

そろそろ寝るつもりでいた私も、就寝前に実兄をソファーまで運ぶという肉体労働をこなしたせいで、急に眠気が襲ってくる。
薄暗く、静まり返ったリビングに響くのは規則的に刻む時計の秒針の音と、実兄の寝息だけ。
実兄と私の二人きり。
二人きりだと言ってみても、兄は酔い潰れて眠っているので実質私一人だけみたいなものだった。

眠気に抗うように目を擦りながら、その場にしゃがみ込んでソファーで眠る兄を繁々と見つめる。
父親似の強面である兄の寝顔は、想像の五百倍可愛らしかった。
目の当たりにした兄の寝顔は無防備そのもので、スマッシュ事件で学園の生徒を恐怖に陥れる兄からは想像もつかないほど人畜無害なものだった。

寝顔を眺めながら、ぼんやりと思う。
そう言えば、一緒に飲んでいた宇髄先生は普段と変わらない様子だったけれど、実兄は見た目によらず酒に弱い質なのだろうか?
それとも、こんなにベロンベロンに酔わなければやっていられない程の悩みや不満を抱えている……だとか?

兄の心労――思考を巡らせて暫く、思い浮かんだ事と言えばこれだ。
制服のスカートを折って校則違反を繰り返す妹だとか、部活にかまけて数学で赤点を取る弟だとか、毎週金曜日になれば欠かさずアパートへ押しかける双子の兄妹だとか――。

「いや、違う違う……え、違うよね?」

兄の心労に関して、心当たりしか無かった。
これぞ、親不孝ならぬ兄不孝。
いつから私は兄を困らせてばかりの悪い妹になってしまったのか。

なんとも居た堪れない気持ちになってしまって、ソファーの背もたれに掛けられたブランケットを手に取る。
罪滅しではないけれど、心労をかけて申し訳ないと反省しながらブランケットを兄にソッと掛けておいた。

だってほら、寝冷えしたらいけないし?
ただでさえ実兄はいつも前を開け過ぎているし。
たまに目のやり場に困るのは、実兄には内緒。

すっかり日付も変わってしまった事だし、そろそろ私も眠らなければ明日に響いてしまいそうだ。
寝坊して、それでも寝足りなくて、兄が受け持つ数学の授業に居眠りなんてした日には、生徒指導プラス膨大な量の課題という名のペナルティが課せられる。
実兄は、実の弟妹であろうと容赦がない。それは実兄の手によって散り散りになった玄弥の賞状が物語っていた。

寝息を立てる兄に「おやすみ」と声をかけると、不意に薄く開かれた唇からくぐもった声が漏れる。
眉間に皺が刻まれて長い睫毛が震えた後、徐に双眸が開かれて、朧げな眼差しだけが此方に投げられた。

「ん゛……」
「実兄、大丈夫? お水飲む?」

顔を覗き込んで問うと、私を捉えた瞳がぐらりと揺れ動く。

「ちょっと待っててね」と告げて立ち上がると、背後から伸びた兄の手が私の手首を掴んでそれを拒んだ。

力任せに握られたせいで手首が軋み、思わず身を竦める。
手首を掴む力が普段の何倍も強く荒々しい事に驚いた。

実兄がこんなふうに手荒く私に触れた事など、ただの一度もない。

「実兄……? 手、痛い――うわっ!」

ひとたびその腕に捕まってしまえば、私の腕力では振り解く事など不可能だ。
ろくに抵抗の一つも出来ず、いとも簡単に身を拘束され、ソファーで眠る兄の腕の中に囚われてしまった。

背後からぎゅうっと抱き竦められて息苦しい。
このまま兄の腕に締め潰されてしまうのではないかと思うほど、衝動的で力任せな抱擁だった。
そして、この息苦しい程の抱擁は私の脳内を混乱で埋め尽くして仕方がない。

熱の籠った吐息が首筋に掛かって、今度は唐突に迫り上がってきた羞恥心に襲われる。
鼻を掠めるアルコールの匂いごと溺れてしまいそうだった。

「あ、あああのっ……実に――」
「……離れんじゃねェ」
「へ?」
「テメェはいつもそうだ……勝手にいなくなりやがって……」

実兄は私の言葉を遮るように呟く。
掠れた低音で、弱々しく独り言ちた。
それは不思議と私に言ったのではないと思った。だから、独り言のようだと思えたのだ。
もしかすると腕に抱かれているのも私でありながら兄にとってそれは私でないのかもしれない。

誰かと私を混同しているかのような、それは台詞だったように思う。
何をそんなに怯え、縋っているのか私には分からない。言葉に隠された兄の真意すら。
何を感じ、誰を思って吐き出された台詞であったのか何も分からない。

分かりたくないと思ってしまった。
だってそれは“私”ではないから。

兄にそんな言葉を吐かせ、心を縛るのはどんな人なのだろう?
もしかしたら、今日もその事が原因で兄らしくない深酒をしたのかもしれない。

「……実兄?」
「……」

それっきり、兄が私の問い掛けに答える事はなかった。
身を捩って背後を仰ぎ見ると、今度こそ寝息を立てて眠る兄の姿がある。
けれど、身体に回された腕はそのまましっかりと纏わり付いたままだった。

複雑な感情が胸を埋め尽くす中、私はそっと目を閉じる。
とても眠れる気はしないが、無理矢理目を閉じた。
兄の纏うアルコールの匂いで、私も酔っ払ってしまったに違いない。そうでなければこんな事を思うわけがないのだから。

私は所詮妹で、これ以上多くは望めない。望んではいけないし、望んでいない。
私の立場が兄の中で妹以上になる事も決して起こらない。
私達の関係は不毛であるのだ。

目が覚めたら、今夜のことはちゃんと忘れる。
兄の思い人の存在を知ってしまった事も、ちゃんと知らない振りをしてみせる。
だから朝日が昇るまで、どうかこのまま――この腕を独り占めしていたい。

あーあ、私は悪い妹だなぁ。
分かっているから、どうか叱らないで。

20230620
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