兄貴の、なまえを見つめる眼差しだけ他の弟妹とは違うと感じたのはいつ頃からだったろう?
そして、それは俺が踏み込んでいい領域でないと無意識に心得たのは何故だろう?

兄貴が、なまえに近付こうとする奴らを牽制し、遠ざけていることも全て知っている。
時折、“過保護な兄”と片付けるには余りにも異質に映る事があって、まるでなまえは籠の鳥のようだと思った。

上手く言葉に出来ないが、それはとても脆く、危うく、曖昧で――けれど、決して言葉にしてはならない何かがそこには確かに存在してる。


「兄貴、風呂空いたよ」
「おう」

水が滴る髪をタオルで拭きながらリビングへ戻ると、幾分か小さくなったテレビの音だけが室内に響いていた。
顔だけこちらに向けて答える兄貴の肩には、頭を預けて微動だにしないなまえの小さな背中が見受けられる。
どうやら俺が風呂に入っている僅かな時間で眠ってしまったらしい。

「……あ、なまえ寝たの?」
「テレビ見てたらいつの間にかなァ」

今日はテスト明けで久々に兄貴の所へ泊まりに行けると朝からはしゃいでいたなまえの姿を思い出し、クツクツと喉を鳴らして笑う。

「なまえ、朝から随分はしゃいでたからなぁ。電池切れで寝ちまうなんてガキかよ」
「ははっ、違いねェ」

兄貴も釣られて表情を緩め、なまえの頭をそっと撫でた。

嗚呼、ほらまただ。
偶に兄貴は俺の知らない顔をする。
それは決まってなまえに触れる時であるから、俺が知らない顔というよりも、なまえにしか見せない顔と言った方がしっくりくる。

きっと兄貴は気付いてないのだろう。
無意識だからこそ、そこには触れてはいけない何かが存在しているのだと勘繰ってしまう。

「玄弥、冷凍庫にアイスあるから食え。お前の好きなスイカの奴だぞォ」
「まじで! やった。兄貴は?」
「俺はいい。とりあえずなまえ寝かせてくるわ」

兄貴は、眠るなまえを軽々と横抱きにして寝室へ向かう。
その背中を見送りながら冷凍庫を開けると、俺の好きなスイカを模したアイスと、なまえ用にコンビニのちょっとお高めのプレミアムソフトクリームが入っている。
アイス一つでも金のかかる仕方が無い妹だった。

それこそ今更だが、こうも毎週兄妹揃って押しかけて迷惑を掛けているのではないかと抱いていた一抹の不安も、そのアイスを前に消え去った。
垣間見える兄の優しさにじんわりと胸が暖かくなる。

たかだかアイス一つで大袈裟な奴だ。兄貴に伝えればきっとそんな風に鼻で笑われるのが落ちだろうが、そういう事じゃない。
そこから感じ取れる兄貴の気遣いと優しさに俺は感動しているのだ。
しかも、ビッグサイズ!
袋を開けて、取り出したいつもより大きなサイズのそれを、キラキラと輝かせた瞳で見つめる俺は、結局“たかだかアイス一つ”なのかもしれなかった。

そうこうしているうちに、なまえを寝かせ終えた兄貴が寝室から出てくる。
一仕事終えて気怠そうに欠伸を噛み殺す兄貴は、のそのそと俺の側までやってきて、そのまま「あ」と口を開けるものだから、ふはっと吹き出してその大きな口にアイスの先っぽを突っ込んだ。

「うめぇ?」
「うめェ」
「……なあ、兄貴」

それは、決して口にしてはならない事だと分かっていたし、これから先も口にするつもりはなかった。
しかし、それこそ無意識に俺は口を開いていて、何故今このタイミングだったのかも分からない。
ただ本当に何の脈絡もなく、俺は口を開いたのだ。
逆に無意識だったからこそ、身構えたりせずすんなりと切り出せたのかもしれないが。

モゴモゴと口を動かす兄貴は、声を出す代わりにじっと俺を見る。

「兄貴がなまえに向けてる感情は、“妹として”じゃないよね?」
「!」

伝えたい事がはっきりしている時は、結論から話すといいのだと何処かで耳にしたことがあった。
双眸をこれでもかと見開いた兄貴を目の当たりにして、嗚呼、確かに効果的だと何処か他人事のように思っている自分がいる。

「――玄弥、」

取り乱すわけでも動揺するわけでもなく。
一度目を伏せた後、真っ直ぐにこちらを見据える兄貴の瞳には確固たる意志みたいなものが宿っているような気がした。

だから、話してもいいと確信した。

「“あの人”は、兄貴にとって特別なんだろ?」
「……は?」
「今世……って言うのかな? 今回は偶々、妹だったってだけで」
「おい、待て。待て待て」
「だから、兄貴の中では何があったってなまえは“妹”のままになんてしておけないんだ」
「お前、そりゃあ一体どう言う意味だ?」

動揺する兄貴を置き去りにして、俺は言葉を続けた。
どういう意味だなんて、そのままの意味だと返す他ない。

前世の記憶なんて話したところで所詮信じて貰えるわけがない。
それに俺の中ではありありと存在しているわけではなく、ぶつ切りのように所々、曖昧に覚えている程度だから尚更だった。

「……もしかして、覚えてんのか?」
「全部じゃないよ。でも、何となくは覚えてる。それが本当かどうかは定かじゃないけど」
「そうか……そうだなぁ。……玄弥、お前の思ってる通りだァ」
「そっか」

言い訳を並べ立てないところは、実に兄貴らしいと思った。
誤魔化すわけでも開き直るわけではなく、ただその事実を認めた。

俺は確かめて何がしたかったのかなんて正直よく分からない。
責めるつもりも罵るつもりも、蔑むつもりもない。ただ、本当のことを兄貴の口から聞きたかっただけだったのかもしれない。

「兄貴。俺はさ、別に兄貴の事を責めたいわけじゃないよ。兄貴の気持ちを否定したいわけでもない。……ただ、前世がどうであれ、今、なまえは俺達の妹なんだ」
「ああ」
「だから、なまえが傷付く事だけはして欲しくない」
「! ……ああ。分かってる」
「だって俺は、兄貴もなまえも両方……どっちも凄く大切だから」

否定するつもりは無いと発言しておいて、俺は確かに今この瞬間、兄貴に釘を刺したのだ。
散々綺麗事を並べておいて、諌めた。
その感情を秘めたまま生きてほしいと残酷な言葉を突き付けた。
こんなにも心根の優しい、最愛の兄に。

「心配すんな。今更どうこうしようなんざ思っちゃいねぇよ。俺ァなまえの兄ちゃんだからな。勿論、お前にとってもだ」
「兄貴……」
「悪かったなァ。嫌な役回りをお前に押し付けちまった」
「……っ、」

それなのに、くしゃくしゃと髪を撫でる兄貴の手は甚く優しかったから、胸が苦しい程に締め付けられるようだった。

「ううん、ごめん……兄貴」
「馬鹿野郎。何でお前が謝ってんだ」

いつの間にか溶けだしたアイスが棒を伝って指に滴り、ポタポタと床に薄桃色のシミを作る。

何がどうなろうと、どんな事が起こっても、俺は兄貴の味方で、兄貴を応援するよって言えなかった事が何よりも辛くて苦しくて、そして情けなかった。
どうしても壊したくないと思ってしまったから。
兄妹を、家族を、どうしても諦められなかったのだ。


20231006
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