手短に昼食を済ませ、五限目の授業に備えて数学準備室で備品を見繕っている時だった。
控えめに準備室の扉をノックする音がして、ああまたか……と何度目か知れない溜め息を吐き、気怠げにガシガシと頭を掻く。

「はぁ……ったく、毎度毎度飽きないのかねェ」

先程、五限目の授業に備えてと言ったが、まあ、それも勿論なのだけれど、半分は“面倒事”から逃げる為だった。

もう、いっそ認めてしまおう。
そうとも。俺は、本校舎から離れたこの場所までは流石に押しかけて来ないだろうと踏んで昼食を手短に済ませ、数学準備室に逃げ込んだのだ。

しかし、その当ては外れてしまって、呆気なく居場所を特定されてしまう始末。
そして、居場所がバレたからには扉の外で待ち構える女子生徒にお決まりの台詞を吐かなくてはならなくなった。
正直、その一連のやりとりには辟易する。

四限目に家庭科室から漂う甘ったるい香りが事の発端だった。
なんでも選択授業の家庭科で焼いたクッキーを食べてくれと、女子生徒がこぞってやって来る。
勿論それは俺ばかりではなく、宇髄に煉獄、冨岡……とまあ、いつもの面子による学園の恒例行事みたいなものだ。
宇髄が後先考えずホイホイ受け取ってしまうものだから、何度断ろうと“宇髄先生は受け取ってくれたもん”と聞き飽きた台詞を引っ提げて容赦なく突撃して来るのだから、たまったもんじゃない。
食べるまでもなく、その匂いだけで口内が甘ったるく感じられて胸焼けを起こしそうでならなかった。

仕方なく腕に抱えた教材を机に置き、教室の扉を開く。

一体どう伝えれば理解し、納得してくれるのか……。
生徒から物は受け取れないと、それこそ事ある毎に再三言って聞かせているだろうに。

「あー……悪ィけど――」

言いかけて、言葉の続きを飲み込んだ。
そこに立っていたのは他の誰でもない妹のなまえだったからだ。

「実兄! やっぱり此処に居た」

なまえは、満面に愛らしい笑みを湛えて「探したんだよ?」と続けた。
一体何の用事か知れないが、辺りを気にして見回した後、付近に誰もいない事を確認して準備室へと押し入ってくる。

「探したって、何か用か?」
「うん。私がってわけじゃないんだけど……」

自分ではないのなら、一体誰の用だというのか。
先程までの花の様な笑顔が、心なしか萎れて見える。
一呼吸置いた後、なまえは後ろ手に隠していた小さな紙袋を徐に差し出した。

「はい」
「あ?」

桃色の、如何にもファンシーで可愛らしいその紙袋には言わずもがなアレが入っているに違いない。
四限目の家庭科で作ったクッキー。

これがなまえの手作りだったなら喜んで受け取るが(寧ろ俺以外の奴には譲れない)、その可能性はゼロだった。
何故ならなまえのクラスの四限目は俺が教鞭を取っていたのだから。

だとしたら、これは一体どういう事なのだろうか?
何故、なまえがクッキーを俺に差し出すのだろう?

一向に受け取ろうとしない俺に対して、さっさと受け取れとばかりになまえは今一度その紙袋を俺に押し付ける。

「これ、実兄に渡して欲しいって頼まれた」
「はぁー……何で預かってくんだよお前はよォ」

手で顔面を覆い、天を仰いだ。

やられた。その手があったか。

俺が直接受け取らなっかったばかりに、妹のなまえ経由で俺に渡そうという魂胆らしい。
この様子なら玄弥の元にも同じくクッキーが届いているかもしれない。

どんなに断ろうと、策を講じようと、昼食を手短に済ませて数学準備室へ逃げ込もうとも――隙間を縫って滑り込んでくる。
それは最早、執念の様にも感じられた。

「だって……あんな風に頼まれたら断れないよ」

天を仰ぐ俺の向いで、なまえは俯き、ひとりごちる。
何やら退っ引きならない理由がなまえにはあるらしい。

「……ったく、仕方ねぇな。今回だけだぞ」

今回ばかりは仕方がないと割り切って、長ったらしい溜め息をついた後、不服ではあるが紙袋を受け取る。
この、どうしようもないお人好しの妹の為に。

手から紙袋が離れた途端、なまえは弾かれた様に顔を上げた。

「え……受け取っちゃうの?」
「はァ?」

お前がそれを言うのか。
様々な感情を差し置いて、真っ先にその言葉が脳内を過った。

受け取れと言ったり、正気かと尋ねたり……ここまで言動が一致せず破綻した反応を見せる妹に、流石の俺も面食らう。
訝しげに眉を顰めると、なまえは慌てて言葉を濁した。

「あ、えっと……ごめん。何でもない。さっきのナシ!」
「それは無理があんだろうが」
「…………引かない?」
「理由によるなァ」

まあ、そう言った所で、俺がなまえの事で引くことなんてまず無いが……。
散々ブラコン、シスコンと互いに外野から揶揄されてきた俺達兄妹なのだから、それに勝る物事なんてそうそう有りはしないだろう。

それでも中々話そうとしないなまえに対し、俺はここぞとばかりに口を開く。
これは妹のどんなに堅固な口をも容易に割る事の出来る魔法の言葉なのだ。

「なまえ、兄ちゃんに教えちゃくれねぇか?」
「っ、」

ピクリと僅かに華奢な肩が震えた。
よし、もうひと押し。

気まずそうに絡まった視線が“狡い”と訴えかけてくるようだった。

「ん?」と、さらに優しく促しながら、目元に被さった前髪を指先で梳いた所で漸くなまえは観念して言葉を紡ぎ出した。

「……その先輩にね、実兄にガチ恋してるからどうしてもって言われて。断れなくて、それで仕方なく預かったの」

静まり返った室内に、なまえの声だけがポツポツと響いては消えてゆく。

「玄弥の時は、何も思わないのに……実兄にクッキー渡して欲しいって頼まれた時、すっごく嫌だなって思って……変だよね。実兄はお兄ちゃんなのに、そんな風に思っちゃうなんてさ」

「でも実兄の事、大好きなんだもん」と無意識に、無防備に――よくもまあそんな言葉を吐いてくれるものだ。
腹の底から迫り上がった劣情に、喉の奥が焼かれる様だった。
こっちは毎度溢れ出しそうな感情を必死に押さえ込んでいるというのに。

「――ははっ」
「え? ちょっと、なんで笑うの!?」
「んー? 兄ちゃん、愛されてんなーと思ってよォ」
「んなっ!」

自分の発言が流石にまずかったと自覚したなまえは、見る見る頬を染め上げる。耳まで真っ赤だ。
その仕草すら愛おしいと感じる俺は、妹相手に随分と入れ込んでしまっているようだ。

決して他言出来ない感情に日に日に呑まれ、侵食されていくのを感じる――言い訳なんて、とうに出来ない。

「違ぇの?」
「……違く無い、かも?」
「疑問系かよ。けどまぁ、どうせならなまえが作ったクッキーが食いてぇなァ」
「本当!? 勿論いいよ! じゃあ、今度の休みに作るね!」

不貞腐れて、真っ赤になって、花咲んで……本当にころころと表情が変わる妹だ。
これを愛おしいと呼ばずして、なんと呼ぶのか。

「あ、丸焦げにならないように玄弥に手伝ってもらうから安心して!」
「そいつは週末が楽しみだなァ」

決して手折ってはならないからこそ、いっそ一思いに手折ってしまえと欲が顔を出す。
俺は後どれくらいお前のいい兄でいてやれるのだろう?


20230916
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