ガッシャーン!と窓ガラスが粉微塵に砕けるけたたましい音と共に教室から吹っ飛ぶ男子生徒を目撃したのは、これで何人目だったろうか。
体育の授業真っ只中。グラウンドから眺めたその光景は、そろそろキメツ学園名物の一つに数えられる日も近い事だろう。

男子生徒が窓ガラスを突き破った教室は、確か兄が受け持つ数学の授業中だった筈だ。
雲一つない晴天をバックに宙を舞った彼は、またぞろ“数学なんて将来使わねーし!”なんて失言をしてしまったに違いない。その言葉だけは何があろうと禁句だというのに。

その様を某乱闘ゲームに準えた秀逸なネーミングセンスときたら、言い得て妙だ。
一体誰が言い出したのだろう?

「ヒィ! また飛ばされちゃってるよ……なまえの兄ちゃん怖すぎでしょ」
「うーん……でも、家では優しいよ? 誰も吹っ飛ばされた事ないし」
「あのオッサンが!? いやいや絶対嘘! だってこの間、全校生徒の前で玄弥の賞状ビリビリに破いたの忘れてないからね、俺」

「鬼だ!」と隣で同じくその様を目撃した善逸が、ガクガクブルブル震えながら語る兄の所業は、私も確かにやりすぎだと思ったけれど。
全校生徒を震撼させた例のエピソードを持ち出されてしまっては、家でどれ程心優しい兄であるかをいくら語ったところで全て霞んでしまうだろう。

「(本当に優しいんだけどなぁ……)」

今日もまた、兄の所業は学園の生徒を恐怖に慄かせたのだった。

***

「実兄! おかえりー!」
「! おう、ただいまァ」

兄の帰りを待ち侘びる事、小一時間。
解錠する音が耳に届き、リビングを飛び出し玄関へと駆け出す。その足取りは心境を表すかのように軽やかだった。
今し方仕事を終えて帰宅した兄の元へ駆け寄ると、私の姿を視界に捉えるなり学園で恐れられている教師の顔から兄の顔へと変化する。

頭をくしゃくしゃと撫でる仕草も、目を細めて柔らかに解ける笑みも――私は、幼い頃からどこか懐かしさを感じさせる兄の柔和な表情が大好きだった。
何故、兄の笑みが懐かしく感じるのかは分からない。けれど、私に笑いかてくれるこの瞬間だけは昔から特別に感じられて堪らなく嬉しくなる。

「来るなら連絡ぐらい入れとけェ」
「だって、急におかず持って行けって頼まれたんだもん」
「そうか。なまえ、ありがとなァ」
「私は持って来ただけで、作ったのは玄兄だけどね。あ、つまみ食いしたから味は保証するよ!」

その言葉に実兄はブハッ!と吹き出し、クツクツと喉を鳴らして笑う。
「なまえのお墨付きとありゃあ、間違いねぇな」と再び私の頭をひと撫でし、リビングへ向かう。
撫でられた箇所に触れて、へらりと頬を緩めながら後を追った。

覚えていないけれど、昔から私はよく兄の後を追っていたらしい。
父も母も差し置いて、私の一番はいつも兄だった。
どうやらそれは、十数年経った今でも変わっていないようだ。
だって仕方がない。兄の事が大好きなのだもの。

「何だ、お前一人かァ?」

問いながらリビングを見回して探しているのは、きっと片割れの兄の姿に違いない。

「うん。玄兄は家でチビたちの面倒見てるよ。だから私が代わりに来たの」
「女一人で夜道歩いて危ねぇだろ。何かあったらどうすんだァ」
「平気だって。家からそんなに遠くないし。実兄はちょっと過保護過ぎ」
「そう言う問題じゃねぇ。何かあってからじゃ遅ぇだろ。待ってろ……送ってく」
「えー、やだ。まだ居る!」

帰宅したばかりだと言うのに、実兄は待ってろと一言告げてテーブルの上に投げた鍵を再び拾い上げ、ズボンのポケットへ粗暴な仕草で突っ込んだ。
そして、同じくテーブルの上に置きっぱなしの紙袋に入ったおかずを冷蔵庫へ仕舞う。

その広い背中を見ていると、つい湧き上がる好奇心が私を掻き立ててならない。
しゃがみ込んでいるせいで、普段よりも低い位置にある兄の背中が勝手に私を誘き寄せるのだから、こればっかりは仕方がないと思う。

好奇心と悪戯心――それから、言葉にするにはあまりに不確かな淡い感情と。
それらを混ぜこぜにして駆け出し、広く逞しい背中に思い切り抱き付いた。

「……っ、! オイ、いきなり飛びついて来たら危ねぇだろォ」
「だって、そこに実兄の背中があるから」
「俺の背中は山かァ?」

人は何故山に上のか、そこに山があるからだ。
私は何故背に抱きつくのか、そこに実兄の背があるからだ。

いくら登山家の言葉を借りたところで締まりが悪いのは、所詮兄の背中は多くの登山家を魅了する山などではなく、私を引き寄せる“なまえホイホイ”に過ぎないからなのだろう。

抱き付き、のしかかる私を引き剥がす事はせず、代わりに伸びてきた大きな手が頭を撫でてくれる。
それはまるで小さな子をあやすような手付きだと思った。

こんな兄の姿を、善逸を始めとする学園中の生徒は誰も知らないのだ。
恐ろしい印象でしかない“不死川先生”が、家では妹をうんと甘やかしてくれる心根の優しさを持ち合わせている事を誰も知らない。こんなにも優しく、家族思いの兄であるのに。
それを知れば、兄の印象も大分変わると思うのだけれど……。

兄の一面を知らないなんて勿体無いと思う一方で、そんな姿は私だけが知っていればいいと、それこそ私だけが知る秘密であり、特権であればいいとも思ってしまう。
私は――欲張りだ。

「……帰りたくない」
「あ?」
「だって、こんなふうに実兄独り占め出来るの久しぶりなんだもん」

ずしっとさらに体重をかけ、首に回した腕に力を込める。
けれど、実兄はびくともしなかった。
いくら体重をかけてもよろける事はなく、腕の力を込めてもやっぱり引き剥がす事もしない。

「ねぇ、いいでしょ? いつも泊まりに来る時は玄弥も一緒だし――ふがが」
「いいわけねえなぁ……ったく、この不良娘がァ」
「ええー……」

頭を撫でてくれていた筈の手がいつの間にか鼻へ回り、ぎゅうっと摘み上げた。

「明日も学校あんだろうが。それに、帰りが遅ぇと皆が心配すんぞ」
「ケチ!」
「ケチで結構なこった。オラ、さっさと帰り支度しろよ。忘れ物すんなァ」
「……はーい」

支度といっても、着てきた上着とスマホくらいだけれど。あと、家の鍵。
キーホルダーで一纏めにされた鍵は、家の物と兄の住うアパートの合鍵の二つ。

実兄が家を出て一人暮らしを始める事になって直ぐ、何かあればいつでも来ていいと言われて玄兄と一本ずつもらったのだ。

我が家は今時にしては珍しい大家族で、子供達が成長すればそれだけ手狭になってくる。
小さな頃は一緒くただった子供部屋も、思春期になればやれ自室が欲しいだの、やれ勉強に集中出来ないだのと不平不満の声が上がってくる。だから、実兄はその為に家を出たらしい。
そうはいっても実家からアパートまでは徒歩で行き来できる距離だし、何かあればすぐに駆け付けることが出来る。
それに加えて築年数の経った格安の家賃と、狭い間取り。
家族思いな実兄らしいと思った。

それに、私と玄弥に関しては学校で毎日会えるので、家を出たとしても以前とさほど変化を感じない。

私に歩幅を合わせた緩やかな歩調と、車道側を歩くのは昔からの兄の癖だ。
何気ない兄の仕草や癖は弟妹を思う気持ちから出来ているのだと、心底その心根の優しさを実感する。

夜道を横並びで歩きながら、そう言えば……と思い出したように口を開く。
それは言わずとも、今日の某乱闘ゲームさながらの事件について。

「実兄、今日も生徒窓から吹っ飛ばしたでしょ?」
「そういや吹っ飛ばしたかもしれねぇなァ」
「皆怖がってたよ? 実兄、本当は優しいのに……わざと怖がらせて勿体無いよ」
「別にわざとじゃねェ」

「舐めた口聞くガキには体で分からせるのが一番手っ取り早いからなァ」と教師らしからぬ発言をする兄は、悪い大人の顔をしていた。
街灯の明かりに照らされているせいで、その迫力と言ったら昼間の比ではない。
誰もが恐れるそのニタリとした笑みは、いくら私が“優しい兄”を語って布教したところで全てを台無しにしてしまうであろう代物だった。

「……それに、害虫駆除にも打って付けだしなァ」
「害虫?」

実兄は目を細めて私を眼下に捉える。
何を言わんとしているのかいまいちい理解できず小首を傾げると、恐ろしかった先程の顔付きからいつもの優しげな表情に戻った。

「世の中には悪い虫ばっかだからなァ」
「え、やだ! 私、虫苦手……」
「ははっ、だろ? 安心しとけ。兄ちゃんが片っ端から駆除してやっからァ」
「え? う、うん……ありがとう?」
「どーいたしましてぇ」

結局、それが今日の某乱闘ゲーム事件と何の関係性があったのか家まで送り届けてもらうまで考えてみても答えは出ず、分からず終いだった。
玄兄にその話(害虫駆除云々)を持ちかけても表情を引き攣らせ、苦笑いを浮かべるだけで真相は藪の中。
どっち道、私が知らなくてもいい事であるのは確かなようだ。


20230615
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