「あ、あのぉ……すみません、教科書忘れました……」
「あ゛ァ?」

四限目の授業が始まって早々に、ブルブルと震えながら蚊の鳴くような声で発言したのは、数日前の席替えで隣の席になったばかりの男子生徒だった。

控えめに挙手する彼は、出鼻を挫かれ機嫌を損ねたのを微塵も隠そうとしない実兄の声に縮み上がり、その身を一際小さくさせた。

「チッ……仕方ねぇな。隣の奴にでも見せてもらえ。次、忘れんじゃねぇぞ」
「は、はい!」

それだけ言って、教科書を捲りながら今日の範囲のページを指定する実兄の姿に安堵の息を吐く。
そのやり取りを隣で見守っていた私も同じく胸を撫でおろした。

その後、さっそく此方へ机を寄せてくる。
彼は窓際の席であるから、“隣の奴”となればその役割は必然的に私だった。
申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる仕草を見せながら、小声で「ごめん、見せてもらえる?」と断りを入れた。

「うん、勿論。怒られなくて良かったね」
「“あ゛ァ?”の時点で終わったと思ったけどね……ははは」
「あー、確かに」

クスクスと小声で笑い合いながら、開いた教科書を横並びになった机の真ん中へ置いた。

実兄の虫の居所次第で、彼は授業開始早々に窓を突き破って空を飛んでいただろう。
居眠り、早弁、赤点に無駄口。
それらでスマッシュされた生徒(男子に限る)は多く存在する。斯いう隣の席の彼だって、兄の機嫌次第ではそうなっていた可能性もあるのだから、今回は本当に運が良かったとしか言いようがないのだ。

該当のページまで教科書を捲って開き直すと、予習で教科書に書き込んでいた文字を目にするなり彼は感心したように呟いた。

「予習してんの? スゲー」
「いやいや、そんな事ないよ。数学は、その……頑張りたくて」

「予習なんて数学だけだよ」と言ったところで、不思議そうに此方を見る視線に気が付き慌てて言葉を濁す。
そこに実兄と私の関係性を疑うものは無かったのだろうが、大っぴらに出来ない間柄なので変に意識してしまう。

「小テストで0点取っちゃったから、それ以来癖でね……あはは」
「あー……あの時のしなセン、マジでヤバかったもんな」
「死を覚悟したよね」
「死って! ははっ、分かるわぁ」
「分かっちゃうんだ?」
「さっきので割と覚悟したし」
「あはは! 何それ」

こんな風に隣の席の彼と談笑するのは初めてかもしれない。
とは言え、今は授業中だという事を忘れてはならない。なにせ、実兄の数学なのだから。
一見聞こえていない素振りをしていても、耳をそばだてているかもしれない。
実兄は以前、私語に耐えきれず板書の最中に怒りに任せてチョークを砕き折った事がある。

だから、このやり取りは極限まで声量を落とした小声での会話だった。
ヒソヒソと声を潜めているから、談笑というより密談になるのだろうか?

実兄が板書し終わったのを合図に会話を切り上げ、問題をノートに書き写す。
その最中、不意に私のノートの片隅に彼が腕を伸ばして何やら文字を綴る。
全て書き終わって、トントンとシャーペンの先でその文字を指し示した。
何やら今度は密談から筆談へと変更になったらしい。
これはこれでスリルがあって面白いけれど。

《実は、ずっと不死川さんと話してみたかったんだよね。教科書忘れてラッキー》

キョトンとする私に対して彼は「へへ」と、気恥ずかしそうに顔を綻ばせた。
そして、私の書き込みを待たずに続けてシャーペンを走らせる。
今度は何を書き込んだのだろうかと、その文字を読んだ途端、大きく心臓が跳ねた。

《付き合ってる人いる?》

「っ!」

弾かれたように顔を上げ、ノートから男子生徒へ視線を移す。
視線が絡み合って、彼は少々照れ臭そうにしながら“いるの?”と再度口パクで同じ内容を尋ねた。

心臓が早鐘を打つ。
バクバクと、まるで全身が心臓になってしまったかのように鼓動の音しか聞こえない。
勿論これは彼に対してではなく、その問いに。ときめいているからではなく、秘密を暴かれるのではないかと不安からくる焦りのようなもの。

二人きりの密室で迫られているわけでもなく、ただの興味本位から綴られたたった一文にこうも動揺してしまう。
その理由は至ってシンプルだった。
決して他言することは許されない関係を結んだ兄が同じ空間にいる。
何があっても悟られるわけにはいかない。

その問いにどう答えるべきか悩んだ末に私が取った行動と言えば、誤魔化すように笑って書き込まれた文字の下にその解答を書き込む事だった。
文字を綴る最中に心が痛んだが、これも全て関係を守る為に。

《いないよ》

書き終えて顔を上げると、傍の彼は甚く嬉しそうに笑った。
それは実兄を裏切るのと同時に、隣の席の彼に対しても嘘を吐いて不誠実な態度を取ってしまった事になる。
その笑みに釣られ、ぎこちない笑顔を浮かべてしまったけれど、きちんと笑えていただろうか?
きっと、その微笑みは引き攣っていたに違いない。

《じゃあ、俺と》

彼がノートに再度書き込みをする、まさにその瞬間――まだ途中だったにも関わらず、ポキンとシャーペンの芯が折れる。
まるで私達を引き剥がすかのように、顔と顔の間を凄まじい速さで何かが突き抜けたからだった。

それはとんでもない速さであったから目で追うことが出来ず、代わりに掠った前髪の毛先がチリッと摩擦で焼けたような音がした。
直後、背後の壁にぶち当たって鈍い音を立てた“何か”がパラパラと砕けながら床に落ちる。
それが一体何であったのかなんて、前を向けば嫌でも分かってしまう。

先程まで板書していた兄の手に握られていた筈のチョークが無い。
その代わりに眦が裂けそうな程に見開き、血走った双眸が私達二人を真っ直ぐ捉えていた。
実兄は額に青筋を浮かべ、目だけで人を殺めてしまえそうな眼差しで私達を射抜いたまま、ゆらりと一歩踏み出して教壇を降りる。

クラス中が静まり返る中で「ひぃっ!」と噛み殺すような善逸の悲鳴だけがポツリと響いた。

実兄は、机の前までやってきて二つの机の繋ぎ目辺りにダン!と片手を付く。

「さっきからぺちゃくちゃ随分と楽しそうじゃねぇかァ」
「ひっ、」
「す、すみませんっ……!」

怒りに満ち満ちた表情に鬼を見た。
背後に鬼が見えるのではなく、実兄自身が鬼のようだと思える形相だった。
この表情はいつぞやにも見た覚えがある。小テストで0点を取ったあの時も生きた心地がしなかったが、今も同じく……否、今の方がその迫力は増している。

実兄は、先程まで私達が筆談していたノートに気が付いて、ひったくるような仕草でそれを取り上げる。
途端に実兄の眉間には深い深い皺が刻まれて、机に叩きつけるような形で返却された。

その間も私と彼はガクガクブルブルと震えているわけで、実兄は恐ろしさのあまり俯く彼の顔を下から覗き込むような仕草で追い討ちをかける。

「勉強するまでもねぇってか? 俺の授業はそんなに退屈かィ?」
「めっ滅相も御座いませんんんん!」
「退屈なら黒板の問題全問解いてくれや。無駄口叩く暇あんなら余裕だろぉ? よろしく頼むわァ」
「ひいいい! なんでぇ!」

その後、解き方を習ってもいない問題を解く事などできる筈もなく、彼は実兄の拳の餌食となってキメツ学園名物のスマッシュの刑を受けてしまった。
そして残された私は授業後にクラス全員分のノートを回収した後、可及的速やかに数学準備室へ持って来るようにと告げられた。
以前、女子生徒はスマッシュしないと言っていた事を思い出す。
どうやら私には数学準備室にて昼休み返上で地獄のお説教が待っているらしい。
キリキリと痛む胃を摩りながら、またしても生きた心地のしない数学の時間を過ごす羽目になってしまった。

***

私が此処を訪れるのは、数学の小テストで初めて0点を取った記念すべき日以来の事だった。
今日は、その時とはまた違った恐怖に震え上がりながら、クラス全員分のノートを腕に抱えて数学準備室のドアを開ける。

「し、失礼します……ノートを持ってきまし――ひっ!」
「随分遅かったなぁ。どこで油売ってやがったァ」
「すすすすみません! ノートは……こ、此処でいいでしゅかっ?」
「……」

ゆらりと無言で立ち上がった実兄の形相は変わらず恐ろしく、そのせいで私は満足に言葉も紡げず盛大に噛み倒した。

これでも一応、私達の関係は恋人である事を今一度ここに宣言しておこうと思う。
超えてはならない一線を共に手を取り踏み越えた仲であり、そして何より今は密室に二人きりというドキドキときめきシチュエーションにも関わらず、甘ったるい雰囲気は微塵も感じられない。
甘いどころか、重苦しい空気が漂って息苦しいだけだった。

「ええっと……それじゃあ私はこれで。失礼しま――っ!?」

その重苦しさに耐えられず、逃げ出すようにノートを机の上に置いてドアノブに手を掛けた瞬間、バン!と大きな音と共に背後から伸びた実兄の手が扉へと荒々しく押し当てられていた。

それはつまり“逃さない”という意味。

「勝手に失礼すんなァ。まだ話は終わってねェ」
「ひえっ」

手を付いた方の反対側から顔を覗き込まれて、いよいよ私の心臓は止まるかと思った。
地を這うような低い声も、機嫌をそのまま表したかのような荒々しい仕草も、今の私にとって実兄の一挙手一投足全てが恐ろしい。

「……オイ、なまえちゃんよォ。何ださっきのはァ」

そのままの体勢で問う実兄の声色は、苛立ちに拍車が掛かっているように感じられる。
“さっきの”とは言うまでもなくノートに綴られていた筆談の内容を指しているのだと瞬時に理解した。

その問いをもっと噛み砕けば、恋人がいないと答えたのは一体何故かと、そう詰問しているのだと思った。

「あれは、その……仕方なく、て……」
「あァ? 何が仕方ねぇのか、兄ちゃんに分かるように説明してくれや」

責め立てるような口振りで続ける実兄は、さらに問いながら手早く扉を施錠した。
ガチャンと施錠された無機質な音がやけに響いて、それが合図となって恐ろしい鬼のような形相から恋人の表情に変わる。
恐怖心は無くなったけれど、そんな風に突然“男の人”のような熱っぽい視線を向けられると、心臓が大きく跳ねて胸がぎゅうっと締め付けられてしまう。

ドアを押さえつけていた筈の手はいつしか腰に回り、もう片方の手は首筋を這い上がって、そのまま顎に添えられた。
促されるままに仰ぎ見れば此方を見下ろす野生的な瞳に射抜かれて、身体の芯が蕩けるようにじわりと熱を帯びる。

「実兄、ごめんなさい。怒ってる……よね?」
「別に怒ってねぇ。……妬いちゃいるが」
「そっか。妬いて……妬いて!?」
「ンな驚く事かよ?」
「もちろん驚くよ……だって、実兄はいつも大人だもん」

私の中の実兄像といえば、いつも大人の余裕に溢れていて、何にも動じる事なくどっしりと構えている。嫉妬だなんて、そんな感情とは無縁であるのだとばかり思っていた。

「……ハッ、“大人”ねぇ」

私の発言に何か可笑な箇所があっただろうか?
実兄は自嘲して、双眸を細めた。

「理想像をぶっ壊しちまうようで悪ィが――全然違ェ」
「え?」
「お前の事が絡んでんだぞ? 余裕なんざあるわけねぇよ」
「っ、」

嫉妬に身を焦がし、どうにかなりそうだと囁かれた声は齧り付くようなキスと共に唇に溶かされた。

「んぅ……さね、に……ここ、学校……!」
「そうだなァ……だから、騒がずイイ子にしてろ」

背後から被さるように唇を奪われる体勢から反転し、逞しい胸に抱かれる。
口腔内を荒らすような深いキスに、溺れてしまいそうになる。
息苦しい。呼吸もままならず、脳内が甘く痺れるような感覚に陥った。
もう実兄以外の事なんて考えられなくなる程に。

教師と生徒、兄と妹――それに加え、たった一枚の扉を隔てた先が廊下というシチュエーションが普段の何倍もこの行為を刺激的な物に感じさせる。

脱力する私に気付いて漸く唇を解放してくれた実兄は、私を抱き竦めながら吐き捨てた。

「付け入る隙なんざ与えんな……やっと手に入れたってのに横から掻っ攫われたんじゃたまったもんじゃねェ」

怒っているわけではなく、嫉妬している。
私の中の実兄はただの偶像。
先程の発言通り、吐き捨てられた言葉は紛れもない実兄の本音のようだった。

「ち、違うよ? 嘘だよ。さっきのは……その、いるって言ったらつい意識してバレたら困ると思って咄嗟に誤魔化しただけで……!」
「……まぁ、大方そんな事だろうと思ってたわァ。……けどな、思っちゃいるが気に入らねぇモンは気に入らねぇんだよ」

実兄は重く長い溜め息をつきながら「……畜生、余裕がねェ」と絞り出すように言う。
親指、人差し指、中指――何やら指折り数えては、また何かに絶望して腕に抱いた私に凭れるように体重を掛けるものだから思わずその重みに潰れてしまいそうになる。

「さ、実兄! 重たい!」
「バァカ。愛の重さってヤツだ」
「あはは! 何それ……ちょ、待って、本当に潰れちゃう……!」

そんな戯言を口にする裏で、実兄が抱いていた葛藤に私が気付けるわけもないのだった。

「(あと二年ちょいってトコかぁ……長ぇんだよクソッタレェ)」


20230806
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