幼い頃に抱いていた純真無垢な夢を、果たして、叶えることが出来た大人はどれだけいるのだろう?
夢は叶わないから夢であるとか、夢は叶えるためにあるのだとか両極端な言葉があるけれど、私の夢は随分前に同級生の男の子の一言であっけなく潰えてしまったのだっけ……。

ジリジリと焼け付くような太陽が照り付ける季節は、クーラーの効いた涼しい屋内で過ごすに限る。
グラスに入った麦茶が氷を溶かし、カラリと涼しげな音を響かせた。

「はぁー……せっかくの夏休みなのに、宿題多過ぎぃ。断固抗議します!」
「なぁに甘ったれた事抜かしてんだァ。勉学は学生の義務だろうが。オラ、サボってねぇでさっさと手ぇ動かせェ」

テーブルに突っ伏し、やる気を完全に手放した私に対して実兄は如何にもな言葉を吐いた。
楽しい夏休みの真っ只中であるのに、その台詞と言ったら教師のそれで、せっかくの夏休み気分を台無しにしてくれる。
私は実兄に会いに来たのだ。それなのに、待ち構えていたのは不死川先生だったなんてそんな殺生な。

これでも、一応は恋人関係である。勿論、内緒だけれど。
親にも、弟妹にも、友達にも、誰にも――。

二人きりの空間は甘い予感を期待させるが、この調子ではそれも叶いそうに無い。
だって今、実兄は不死川先生モードだし。

「こうやって課題こなしてると思い出すなぁ……小学一年生くらいの夏休みの宿題で将来の夢を絵に描くってやつ」
「こなしてねぇけどな。で、何描いたんだ? そういや知らねぇなァ」
「だって、クラスの男子に揶揄われて家族の誰にも見せずに押入れに仕舞ったもん」

突っ伏していた上半身をのっそりと起こして、シャーペンを手に取り気乗りしないまま問題集に走らせる。
横に座る実兄は興味津々とばかりにその話題に食いついたようだった。
シャーペンを持つ手を止めて「知りたい?」と態とらしく問うと、実兄は苦笑しながら「おう」と相槌を打ってくれた。
そこで別にどうでもいいと言われてしまえばそれまでだったけれど、話したそうにしている素振りを感じ取ってくれる兄は、やっぱり優しい。

待ってましたと言わんばかりに、身を乗り出して下から実兄の顔を見上げるようにして口を開いた。

「実兄のお嫁さんだよ」
「!」

実兄はポカンとして双眸を瞬かせた。
それもそうだ。小学生低学年の女子の夢が実の兄のお嫁さんだなんて、突拍子の無い事この上ない。
そんな実兄の呆気に取られる表情に、してやったりと言わんばかりにくしゃりと表情を綻ばせて笑って見せた。

「まぁ、夏休み明けに提出したら、クラスの男子生徒に揶揄われたんだけどね。兄ちゃんと結婚できるわけないだろ、知らないのか? ……って」

男子生徒の顔は忘れてしまっても、その言葉だけは今でも心に残っている。

『うわ! こいつ兄ちゃんのお嫁さんだってよ! なれるわけねぇのに』

その日は、まぁ盛大に揶揄われて弄られてクラス中の的になったのだけれど。
だから、そのまま提出せずに家に持って帰って誰にも見つからないように押入れの奥に仕舞い込んだのだった。
懐かしい出来事であるが、当時は本当に実兄のお嫁さんになる気満々だった。今となっては幼い頃の儚い夢の一つ。

「あ、恥ずかしいから皆には内緒だ、よ――っ」

不意に実兄の大きな手が伸びて頬へ添えられたかと思うと、そのまま触れるだけの短いキスが唇へ落とされた。

「俺の知らねぇところで随分と可愛い事してくれるじゃねぇの。なまえちゃんよォ」
「実、に……」
「んで? ……そいつは今でも有効かィ?」

鼻先が擦れる距離で静かに囁かれた言葉は、一瞬で私を童心に返した。
あの頃の、信じて疑わなかった胸が暖かかくなるようなふわふわした感覚。

同時に気恥ずかしくもあって「ゆ、有効……だよ」と、辿々しく言葉を紡ぐ暇さえ実兄は与えてくれなかった。
そのまま、言葉ごと攫われてしまいそうな口付けが再び私を呑み込む。
角度を変えて何度も何度も繰り返し押し当てられる唇を受け入れるだけで精一杯だった。

「……っ、」
「! ……あー、悪ィ」

身を強張らせる私に気付いて、実兄は罰が悪そうに呟いて私を腕に抱いた。

恋人関係になってからキスは何度もした。
けれど、それは全部触れるだけであったり、啄むような柔らかなキスばかり。
謝って欲しいわけじゃない。私が子供だから慣れていないせいで実兄のペースについていけない。
もっと先を知りたいと思っても、触れるキスだけで正直一杯一杯になってしまうのだから。
大人の実兄は、この程度ではもどかしいだけで少しも満足出来ないのではないのかと不安になってしまう。

「謝らないでよ……私が子供だから、その、慣れてなくて……ごめんなさい」
「お前が謝ってどうすんだよ……ったく。それに初めから慣れてちゃ俺が困るわァ」
「でも、実兄……物足りないでしょ?」
「いいんだよ、お前のペースで。それに、全部俺が教え込むってのも悪くねぇしなァ」

実兄は、トン……と私の胸骨辺りへ人差し指を押し当てて意地悪く口角を吊り上げた。

「っ、実兄……スケベな顔になってるよ」
「オイ、そりゃあ一体どういう顔だ?」
「んー、私だけが知ってる実兄の特別な顔……あ、悪い大人の顔?」
「余計分かんねぇよ」

クツクツ喉を鳴らして笑う実兄は、満足気に私の頭を撫でた。
これは、恋人というより妹としての扱いになっているような……。
実兄に頭を撫でられるのは大好きなので、恋人であろうが妹であろうが喜んで受け入れるけれど。

「つっても、やっぱり兄妹である以上お前の夢は叶えちゃやれねぇが……俺の残りの人生、全部お前にくれてやってもいいと思ってる」
「実兄……」
「だからって、お前の人生も全部俺に寄越せとは言わねぇよ。もしも、お前の目が覚めて俺以外の誰かを選ぶってんならいつだって手を引く。俺にとっちゃあ、お前の幸せが一番だからよォ」
「んなっ、そんな事――」

そんな事は決してない。
私の実兄に対する思いを軽んじてくれるなと声を荒げようとした刹那――。
私は再び実兄の腕の中に囚われた。
その抱擁は先程よりも比にならない程に力強く、息苦しささえ感じられた。

「……そのつもりでいたんだが、悪ィ。やっぱり無理だわ……情けねぇ話だが、俺ァ心底お前に惚れてる。手放してやれねぇよ。惚れた女の夢もろくに叶えてやれねぇが、許してくれ。なまえ」
「何言ってんの……そんなの今更だよ。実兄の事好きになっちゃった時点で、そんなの望んで無いよ私」

どんな形でさえ、傍にいられるだけで本望だと思ってしまえる。
実兄以外なんてそんな事、考えるだけで苦しい。息苦しい。息も出来ない程に。

「あ! 新しい夢、思い付いちゃった」
「あァ?」

重苦しい空気を吹き飛ばすように溌剌とした声で言えば、実兄は苦しい程の抱擁を解いてくれる。
新しい夢と聞いて首を傾げる実兄に、私はとびきりの笑顔を湛えて口を開いた。

「これから先も、うんと可愛がって。我が儘も仕方のない奴だって笑って許して。それから、」
「ははっ、まだあんのか? つーかそれ夢じゃねぇなァ」
「もー、夢だよ! じゃあ、これが最後。何があっても私の事、手放さないで。……実兄にとって一番大切な女の子でいたい」
「!」

実兄の呆気に取られる顔を眺めるのは本日二回目だった。
そんなに私は突拍子の無い事を口にしただろうか?
くだらないと、しょうもないと言われてもこれこそが私の願いなのだから仕方がない。
それ程に、実兄は私の全てであるから。

固まる事数秒、実兄はふはっと吹き出すように笑った。

「おう、お安いご用だ。任せなァ。その夢、俺が叶えてやるよォ」

直に私の大好きな、優しげな表情に変わる。
表情を綻ばせ、愛おしさで溢れるその眼差しで私を捉えた。
今この瞬間これ以上何も要らないと思えるほどに、確かに私達は互いの思いを通わせたのだ。

大人になって、今日の事を思い出して話をする時も、こうして変わらず大好きな兄が傍にいて――懐かしく思いながら耳を傾けてくれるのだろう。
私の夢は、そんな未来を他の誰でもない大好きな兄と迎える事。


20230718
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