前世の記憶なんてモンは、持っていたって百害あって一利なしだとつくづく思う。


帰宅して、玄関のドアを開けようとした所で見計らったようにスマホが鳴った。
何かと思えばメッセージアプリの通知で、差出人は玄弥からだ。
学校で顔を合わせた時には別段変わった様子は無かったように思う。
何事だろうかと、ロックを解除してメッセージを確認した。

その文面を確認した直後、眉間に皺を寄せて「あ?」と一言漏らすなり室内を確認すると、玄関にはきちんと行儀よく揃えられたローファーが一足見受けられる。

【お疲れ。兄貴、そっちになまえ行ってると思うからよろしく】

「何をよろしくしろってんだ……ったくよォ」

「あれ程一人で来んなっつったろ……」と独りごちたところで、妹にとっては何ら関係のない事だ。関係があるのは俺だけで。

手は出すまいと、出してはならないのだと、兄妹として生まれ落ちた時から腹を括ってはいるが、なまじ前世の記憶があるばかりに“もしも”の可能性を捨て切れない自分自身が忌々しい。

リビングに入ると、てっきり元気の良い声と無邪気な笑顔が迎えてくれるとばかり思っていたが、それどころかなまえはテーブルに広げられた教科書とノートに被さるようにして眠っていた。

「なまえ、寝てんのかァ?」

耳に掛けられていた髪が溢れ、その可愛らしい寝顔を隠している。
傍にしゃがみ込み、徐に手を伸ばす。
起こさないように指先で顔に掛かった髪を退かせて耳に掛け直すと、あどけない寝顔が覗いて、無意識の内に目尻が下がり、自然と表情が緩んだ。

長い睫毛、柔らかそうな頬。艶やかに色付いた小さな唇、陶器の様に美しく傷一つない肌。
眠っているせいか、その造形は随分自分とかけ離れている様に感じた。

「(それでも、兄妹なんだよなァ……)」

そっと頭を撫でて髪に口付けを落としたところで、腹の底から湧き上がる感情をグッと堪えながら溜息を吐いた。
俺に許されるのは此処までだ。そんな風に自分を律しなければ湧き上がる感情に呑まれてしまいそうだった。
己の感情に身を任せるよりも、再び彼女を失う事の方が恐ろしい。
決して望んだ形では無いにしろ、もう一度出会えたのだ。今度こそ、取り零すことのないようにしっかり掴んで離さないと心に誓った。

けれど、遅かれ早かれなまえは俺の元を離れていく。どれだけそれを拒んでも。
恋人ができ、結婚し、子供を作って幸せな人生を彼女は歩んでいく。
俺ではない男を選び、俺を置き去りにする。
どんなに胸に秘めていようとも――。

「ん……実、にい?」
「おう、起きたかァ?」
「……えっ! 寝てた!? うわぁ……ね、寝顔見た?」
「さぁてなァ。口を半開いて間抜けな顔して寝てたのなんて知らねぇよ」
「ちょ、ヤダもう! 最悪……! 実兄のばかぁ!!」

このタイミングでなまえが目を覚ました事に、心底安堵した。
お陰でこれ以上余計な事を考えずに済んだのだから。
考えれば考える程どうしようもない思考に引き摺られ、危うく根こそぎ持っていかれる既の所で自我を取り戻すことが出来たのだから。

意地悪く言えば、なまえは羞恥から頬を染めて俺をポカポカと殴る。
この程度では何ら痛痒を感じないが、その拳は甘んじて受けてやろう。可愛らしい寝顔を拝んだ礼として。

「頬に寝跡ついてんぞ」と指先で頬を撫でると、なまえは一段と頬を赤くした。
その寝跡も含めて可愛らしいと思う俺は、妹相手だというのに相当入れ込んでいるのかもしれない。

「急に来るなっつったろォ?」
「メッセージ送ったでしょ?」
「玄弥がなァ。それも事後報告だろうが」
「……だって、私が送ったんじゃダメって言うと思ったから」

その通りだった。よく分かっている。
そこまで理解していて何故来たのか……問い質そうとしたところでテーブルに目が行く。

今し方、なまえが下敷きにして眠っていたそれらは数学の教科書とノートだった。
開かれていたページは今日の授業で習った範囲であるが、復習とは関心だと思った所で、その問題の回答が全て空欄であることに気が付く。
今日の授業で出題した問題を、確かなまえは全て解けていたはずだ。それなのに、何故――

「“さねみん”、ここ分からないから教えて」
「…………あ? なんだその呼び方ァ。やめろ」
「別に良いじゃん、皆呼んでるんだし」
「良かねぇよ」

また突拍子のない事を言い出したと溜息を吐く。
皆と言うが、生徒の皆が皆そんな風に俺を呼ぶ事はない。ごく一部の限られた生徒は、確かに俺をそう呼ぶが……。

なまえの可笑しな様子から、何やら俺の預かり知らぬところで一悶着あったらしい。
そうでなければ実家の遣いでもないのになまえがわざわざ訪ねて可笑しな事を言う筈がない。
俺の妹は、良くも悪くも分かり易い。

ここは頭ごなしに怒るべきでは無いと判断し、言いたいことは沢山あるが、ぐっと堪えてもう少しなまえの言葉に耳を傾けることにした。

「……だって、今日クラスの子が言ってたもん」
「何を?」
「……補習わざとだって。実兄に教えてもらいたいからって。……狡いよ、そんなの」
「は?」

俯いて、絞り出すようになまえは言った。
俯いた顔は納得いかないとばかりにむくれている。
その理由にポカンとしていると、なまえは控えめに此方へ視線を寄越した。
そして、呆気に取られ固まる俺を見るなり声を荒げた。
不貞腐れたり、喚いたり忙しい妹だ……まったく。

「あー! 実兄、くだらないって思ってるでしょ!?」
「…………思ってねぇよ。別に」
「嘘! 今、間があった!」
「あー、はいはい。で? 本当に分かんねぇのかァ?」
「……」

だんまり。都合が悪いといつも口を紡ぐ癖は相変わらずだった。
ここでの最適解は、叱り付けず宥めてやる事。
柔らかな声音で名前を呼んで、正直に答える良い子には頭を撫でてやらねぇと。

「なまえ」
「……分かる」
「だろ? お前はいつも俺の授業だからってしっかり予習して来てんのは知ってる」

「いい子だなァ」と頭をわしゃわしゃ撫でてやると、なまえは段々といつもの愛らしい表情を取り戻してゆく。
それは普段通りの愛らしい俺の妹だった。

先程、なまえは狡いと言ったが、あの生徒たちは俺がこんなにも妹に対して甘い事を知らない。
これだけはお前だけの特権なのだと、小っ恥ずかしくて口が裂けたって言えないが、どうか伝わっているようにと願う。

「んじゃ、片付けて帰る支度しろよ」
「もうちょっとだけ」
「駄目だ」
「何で実兄はいつもそうやって直ぐ帰らせようとするの?」

その理由は説明したところで、どうにもならない。
こんな兄らしからぬ感情をなまえは知らなくていい。願わくば一生気付かないでいて欲しいとすら思う。

いつもなら、“ケチ”だの“過保護”だの吐き捨てて渋々帰り支度をするくせに、今日はやたらと食ってかかる。
これでは埒が明かないと思い、なまえに代わってテーブルに広げられた荷物を片付けてスクールバッグへ仕舞っていく。

「……彼女が来る、とか?」
「あ? そんなんじゃねぇよ」
「ねぇ、実兄って彼女つくらないよね? 何で? それとも好きな人がいるとか?」

片付けをする手を止めろとばかりに肘まで捲っていたシャツを引かれて、手元からなまえに視線を移した。
そんな事を、そんな表情で聞いてくるものじゃない。

「ははっ、質問攻めかよ。 そういうのに興味深々なお年頃ってかァ?」
「う……だって、気になる」
「そういう相手がいようがいまいが、俺にとっちゃあお前はいつまでも可愛い妹に変わりねぇよ」
「……」

上手く、誤魔化せただろうか?
悟られず、隠し切れたか?このどうしようもない感情を。

『風柱様、生まれ変わっても私の事見つけて下さい。絶対、約束ですからね』

「……それに、俺には先約があんだよ」
「もう、何それ! 意味わかんない!」

約束だと、お前が俺に言ったんだろうが。

「分からなくて結構だ」と苦笑して、今一度なまえの頭を撫でた。

時々思う。
もしも、万が一お前が俺と同じように前世の記憶を持っていたとしたら……と。
そうなれば、きっと戻れなくなる。恥も外聞もかなぐり捨てて本懐を遂げたくなるだろう。
だから、このまま何も知らないままでいて欲しい。

それは酷く狡い事なのかもしれないが、この感情に折り合いがつくまでは、どうかお前の“いい兄貴”のままでいさせてくれ。


20230713
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