あれから――大好きな兄の顔面をスクールバッグでぶん殴ってから、私はそのまま学校から自宅までの道のりを全速力で駆けた。
年頃の女子高生が頬を真っ赤に染めて全力ダッシュだなんて、すれ違う人が振り返る程度には異様な光景であったらしい。

今日は、金曜日。
世間で言う所の華金とやらも、私の華はすっかり萎れていた。
普段なら華どころか花畑状態で、浮き立つ心のまま帰宅するなりクローゼットから泊り用の大きなカバンを引っ張り出し、あれやこれやと荷物を詰め込んで、玄弥の帰宅を今か今かと待ち侘びている頃だろう。

けれど、今日ばっかりは流石にそんな気分にはなれなかった。寧ろ、真逆の心境だった。
除草剤を撒かれたかの如く華は枯れ果て、まさに私の心は通夜会場。
明日明後日と学校が休みであるから、実兄と顔を合わせずに済むと思うと救いですらあった。

妹の寿美に「え!? 実兄大好きブラコンお姉ちゃんが家にいる……今日は金曜日なのに」と失礼千万な言葉で抉られても言い返す気力すら湧き上がって来ない程度には、精神的にショック状態なのだ。

寿美だけじゃない。夕食に居合わせた家族全員が漏れなく同じことを思っただろう。
その中でただ一人、玄弥だけは事情を知っているから「そういう時だってあるだろ」と助け舟を出してくれたけれど。

しかし、それは半分当たっていて、半分違う。
……いや、違うか。小テストのお小言に関して話は終わっていて、問題はその先で起こったのだから。

玄弥は、私が小テストで0点をとって放課後数学準備室に呼び出され、実兄にこっ酷く叱られてスパルタ補習を受けたのだと思っている。
だから気不味くて、とても泊まりに行けるような状況ではないと、そう思っている。
本当は、そういう意味で気不味いから泊まりに行けないわけではない。もっと重大な問題が起こったから行けないのだ。
それも、私が勝手に悶々として、パニックになって、実兄の顔を一方的にスクールバッグで張っ倒した。
そんな状況で背中に実兄の怒鳴り声を浴びながら脱兎の如く逃げ出したのだから、どの面下げて実兄に会えばいいのか分からなかった。
泊まり云々ではなく、このままだと月曜日からの学校でさえ危うい。

謝らなければ、と思う。
自分のしでかした事を思えば、それはあまりに一方的であったし……。
思っているけれど行動に移せない。
顔を見て謝罪が出来ないのなら、電話でもメッセージアプリを使うでも手段は幾らでもあったが、連絡する勇気が持てないまま、すっかり夜も更けてしまった。

「(実兄……絶対まだ怒ってるよね……)」

そんなに長風呂をしたつもりはなかったのだけれど、風呂から上がると、先程まで賑やかだったリビングは静まり返っていて、どうやら弟妹達は各々子供部屋へと戻ってしまったようだった。

ソファーへ腰掛け、濡れた髪をタオルで拭いていると、玄弥が見計らったようなタイミングでリビングに入ってくる。
そして、冷蔵庫の前を経由して傍へ座った。

「兄貴と何かあったんだろ?」
「へ!? べ、別に……ななな何も無いっ――んぶっ」
「嘘つくの下手クソかよ」

何事かと思えば、突然口の中にアイスを突っ込まれた。
スイカとメロンの形を模したアイス。
私の口に突っ込まれたのはメロン味の方だった。

お風呂上がりのアイスは、どうしてこうも悪魔的でいつもの何倍も美味しく感じられるのだろう?

「……私もスイカがいい」
「あー、残念。スイカ味はこれが最後なんだよな」
「えー! ねえ、交換してよ」
「は? ヤダ。スイカは譲れねぇよ」
「玄兄のケチ! 実兄なら絶対取っ替えてくれるのに!」

ここには居ない実兄を引き合いに出すと、玄弥は瞬いて、ふはっと小さく笑う。
「兄貴のやつなまえだけには妙に甘いとこあるからなぁ」と言って、私が強請ったスイカのアイスを大きな大きな一口で半分ほど齧ってしまった。あーあ。

「なあ、何があったか知らねぇけどさ……0点取ったって兄貴が理由なくお前を頭ごなしに叱るなんて事はしないと思うんだよな。それ以外の事で悩んでんだろ?」
「……」
「……まあ、話したくないならいいけど。あんまり凹んでると皆心配するから」
「……うん、ごめん」
「早く仲直りしとけよ?」

言って、再度大きな口を開けて残り半分のアイスを平らげてしまった。
僅か三口で無くなってしまうとは。
私はまだ尖った先を一口齧っただけだと言うのに。

「んじゃ、おやすみ」とソファーから立ち上がった玄弥に手を伸ばし、寝巻きの裾を引っ張った。
振り返ったその顔は、待ってましたと言わんばかりの表情であったから、ちょっと悔しい。
まるでこうなる事が予め分かっていたような、得意満面に私を見下ろすのだから。

「……明日、部活?」
「午後から。午前中なら時間あるけど?」
「お願いがありマス……お兄様」

***

「バカタレ! お前っ、あずきを洗剤で洗おうとすんな!」
「玄弥があずき洗えって言ったんじゃん!」
「普通、洗剤なんて使わねぇわ! ったく、兄貴に洗剤の味するおはぎ食わせるつもりかよ……」
「だって……洗剤使った方が綺麗になりそうだし」

「餡子なんて、あずきから作った事ないんだもん」と口を尖らせて言うと、話にならないとばかりに深い溜息が頭上から降ってくる。

と、まあこんな感じで不死川家のキッチンは、早朝から騒がしかった。
騒がしいのは私と玄弥の二人に限った事だけれど。
ああでも無い、こうでも無いと、高がおはぎを作るだけであるのにこうも大騒ぎしなければならない。

事の発端は昨夜。
一緒におはぎを作ってほしいと頼み込み、スイカのアイス三個(しかもビッグサイズ)で手を打ってもらったからで、先程の会話にもあるように、私が料理下手であるからだった。
私の腕前ではとてもじゃないがおはぎなんて一人で作れない。

何故おはぎかという問いは、言うまでもなく実兄の好物だから。これに尽きる。
和菓子屋で買っても良かったが、どうせなら手作りのおはぎを持参して兄に謝罪しようと思ったのだ。
その方が謝罪の気持ちも伝わると思っての事であるが……朝からキッチンが戦場と化すとは思いもしなかった。
やっぱり私は食べる専門がいい。

私はとことん不器用である。
髪の毛を弄るのも苦手だし、料理も難しい凝ったものは作れない。おはぎの餡子を小豆から作るなんてもっての外だった。
それに比べて、玄弥はどうしてこうも手先が器用なのだろう?
髪のセットも、料理も、私より遥かに上手い。
きっと母親の腹にいる時、私の分まで玄弥に栄養が行ってしまったのだ。そうに違いない。

「あら、餡子のいい匂いがしてると思ったら。おはぎ作ってるん?」
「うん。出来上がったらお母さんも味見してね」
「ありがとうね、なまえ。きっと実弥も喜ぶわぁ」

誰のために作っているとは一言も口に出していないのに、母は分かりきったようにそう言った。

「なまえは昔からお兄ちゃん子やったから。大きくなったら絶対に実弥のお嫁さんになるって言い張って大変やったんよ?」
「ちょっとお母さん! やめてよ……そんな昔の話。恥ずかしいから」
「ふふ。なまえは本当に実弥の事が大好きやねぇ」
「……うん、大好きだよ」

それは、勿論今だって。

小さな頃から――本当は、その前のもっともっと昔から、生まれてくる前のうんと昔から。
こんなのは可笑しな話しだけれど、私は実兄が大好きだったように思う。

正直、小さな頃の記憶はない。実兄のお嫁さんになりたいと言った事も今はもう覚えていない。
でも、私はどうやらその頃から筋金入りのお兄ちゃん子であるらしい。

懐かしさに浸りながら、もち米と餡子の甘い匂いで満たされたキッチンで兄を思いながらおはぎを作るのも悪くないと思った。

「ん。これ持ってさっさと仲直りしてこいよ」
「うん! ありがとう玄弥。行ってきます」

別に喧嘩をしているわけではなく、正確には私が一方的に喧嘩を売っただけに過ぎないので、“仲直り”と言う言葉に多少違和感を抱きながらも、玄弥の言葉に背中を押されて家を出発した。

手に提げた紙袋の中には、今し方作ったばかりのおはぎ。
餡子から手作りしたとあって渾身の出来だ。
少しでも仲違い解消の役に立ってくれれば他に何も言う事は無い。

普段はなんとも思わない自宅から程近い場所にある兄の住うアパートまでの道のりが、今日は何だか酷く遠い気がした。
それは言うまでもなく、極度の緊張のせいなのだろう。

それでも何とかアパートへ辿り着きはしたが、あと一歩の勇気が持てずにドアの前に佇む。
なんてことはない。インターホンを鳴らせばいいだけの話なのだが、それが今の私には酷く困難な事に思えてならないのだった。

インターホンを鳴らしたとして、実兄が出て来たら私は何て言えばいいのだろうか?
いつものように、ヤッホー!なんてノリは間違ってもしてはいけない状況だ。
もしも、まだ怒っているとして、何をしに来たのかと実兄に冷たくあしらわれてしまったら、私は明日から生きて行く自信が無い。だって、お兄ちゃん命だし。

ここまで来て、ついでに手作りおはぎまで作っておいて、肝心なところで踏み出せない私だった。
私の行動力は、おはぎを完成させたところで完結してしまったらしかった。

「お、落ち着いて。落ち着いて……大丈夫」

今一度、深呼吸をして今度こそ覚悟を決めてインターホンを押そうと手を伸ばした時だった。
まるで狙ったかのようなタイミングで玄関のドアが開いたのは。

「うわあっ!」
「あ? ……なまえ!」

驚いたのは私だけではなかったようで、実兄も私の姿を捉えた瞳をこれでもかと見開いて固まった。
流石の実兄も、ドアを開けた先に私が立っているとは思わなかったようだ。
お互いに驚きの声をあげた後、暫しの沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのは実兄で、いつまでも玄関の外で佇む私を渋々と言った様子で部屋へ招き入れた。

「あー……取り敢えず、中入れェ」
「う、うん。お邪魔します……」

その様子と声色からして、怒ってはいないようで一先ず安心した。
顔を見るなり怒られて、冷たくあしらわれ、追い返されるという最悪の展開だけは免れたのだから。

促されるまま中に入って、前を歩く実兄の背中をチラリと盗み見る。

「……良かったの? 実兄、どこか出かける予定だったんでしょ?」

だから、先程玄関で鉢合わせになったのだ。
その予定を私が訪ねて来たばかりに断念してしまう羽目になったのではないだろうかと、申し訳なさげに問う。

出掛ける予定があるのなら、謝罪とおはぎを渡してお暇しようと思たのだが、実兄はこちらに向き直って罰が悪そうに言った。

「別にいいんだよ。そっち行こうとしてただけだからァ」
「え、そうだったの?」
「お陰で行く手間省けたわ」

「適当に座っとけ」とだけ告げて、実兄はキッチンで飲み物を用意してくれる。
手土産……と言うよりは、謝罪の品?のおはぎを渡すなら今だと思い、手に持っていた紙袋を差し出した。

「玄弥と一緒に作ったから……実兄にあげる」
「……」

そこは“ごめんなさい”と言うべき所だったのに……嗚呼、私の馬鹿。大馬鹿。
その渡し方もまた視線を逸らしてぶっきらぼうに紙袋を差し出すのだから、可愛げもくそも無い。
つまりは、最悪だった。たった数秒で私は全てを台無しにしてしまったのだった。

せっかく早起きをして、玄弥に手伝ってもらったのに。
アイス三個分の代償を払ってまでの目論見が水の泡になってしまったと肩を落としたのも束の間。差し出した紙袋を受け取ってくれた実兄は、その中身を見るなり柔らかな表情を浮かべ小さく笑ってくれた。

私はそれがとても嬉しくて、思わず前のめりに口を開く。

「は、早起きして頑張って作ったの! 実兄に食べて欲しくて……!」
「そうかィ。そりゃあ、さぞ絶品だろうなァ」
「でも……半分以上は、その……玄弥が作ったんだけ、ど――っ!」

私が料理下手と言うことは不死川家において周知の事実であるから、言い淀んでいると、頭に実兄の大きな手が乗せられてガシガシと豪快に撫で付けられた。

「こういうモンは、気持ちの問題だろうが。……なまえ、ありがとなァ」
「う、うん! どういたしまして! 朝一番で作ったから、出来立てだよ」
「んじゃ、早速食うかァ。食器棚から皿二つ出してくれ」
「はーい」

いつの間にか抱えていた筈の気まずさは何処かへ行ってしまって、二人仲良く揃っておはぎを食べる頃には普段通りの実兄と私に戻っていた。

「それで玄兄がね、洗剤であずき洗おうとしたら“バカタレ!”って怒鳴ったんだよ!? 兄貴に洗剤味のおはぎ食わす気かよ……って」
「ははっ、なんか懐かしいわ。お前が洗剤で米洗おうとしてた時思い出した」
「もう、それいつの話? 流石にもうお米は洗えるし、ちゃんと炊けるよ! お茶だって、茶葉から入れられるんだから!」
「おー、そいつは初耳だァ。成長したな」
「……実兄、馬鹿にしてる?」

「してねぇよ。兄ちゃんは、妹の成長に感動してんのォ」とクツクツ喉を鳴らしながら、実兄はおはぎを豪快に口へ放り込んだ。
小ぶりだったからか、実兄にかかれば一口でぺろりと平らげるなど造作もないらしい。
その様子を繁々と見つめていると、いらないなら寄越せと言われ、慌てて私も口に放り込んだのだった。

実兄の横顔を見ていると、不意に昨日スクールバッグで殴ってしまった事を思い出す。
有耶無耶になっていたけれど、私は此処を訪れた本来の目的は謝罪の為だったのだから。
幸い、実兄の頬に殴った事による傷は出来ていなかったが、しかし、いきなり思いきり殴ったのだから痛かった事に変わりは無いだろう。

空になった皿をテーブルに置いて、そっと実兄の頬へ手を伸ばし、バッグで殴った場所へ指を這わせた。

「実兄、その……昨日はバッグで殴って、ごめんね。……痛かった?」
「……っ、」

突然の事だったからか、実兄は目を見開いて此方を見ていたけれど、手を振り払いはしなかった。
ただただ私の手を受け入れてくれている。
じっと此方を見るだけで微動だにしないから、先程の賑やかな雰囲気もどこかへ行ってしまって、一気に気不味い雰囲気が漂う。

あれ?私、何か間違った?

「あ、あの……呆れた? 実兄……あのね、その、ごめんなさい。嫌いにならないで……欲しくて――ぶっ!」

途端に鼻先を指で弾かれ、驚きと僅かな痛みでぎゅうっと目を瞑った。
昨日、デコピンをされた時も思ったけれど、実兄は指先の力だけでも随分と強いらしい。

「バァカ。んな程度で嫌いになるかよ。兄ちゃんナメんなァ」
「ご、ごめん……」

今日は、何だかやけに“兄ちゃん”を強調してくるように感じるのは何故だろう?
ただの考え過ぎなのだろうか?

「分かったら、もうそんなしけたツラすんな。お前は笑ってんのが一番可愛いんだからよォ」
「……! ふふっ、あはは! 実兄、何かその台詞すっごいキザ」
「キザで悪かったなァ」
「怒った?」
「別にィ?」

「でも」と続けて、膝の上に手を乗せ外方を向いた顔を覗き込む。
驚いたように此方を見る実兄と視線が交わった。

「そういうの、他の女の子に言っちゃ駄目だからね?」
「!」
「私だけだよ? 妹特権なんだから!」
「おまっ、本当にっ、はぁー……そう言うとこォ(クソッタレェェ)」
「うん?」

実兄は片手で顔面を覆いながら天を仰いだ。一体何故。
この程度では呆れないと言ったくせに、早速何かを諦めたように大きな溜め息を吐いた。

何はともあれ仲直りが出来て良かったと、これで元通りの普段通りだと心穏やかなのは私だけであった事など、知る由もない。
それに、世の中には知らぬが仏という言葉もあるのだし。

「あ、でも妹特権だから、寿美と貞子はいいよ!」
「そうかィ……」


20230704
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