「不死川ァ……放課後、数学準備室まで来いや。逃げんじゃねえぞォ」
「ひえ……」

おぞましい低音は、地を這いずり重苦しくこの身に纏わり付くようだった。

物言いはまるで不良に絡まれた時のそれだと思ったし、かっ開いた目なんて完全にキマっちゃって迫力満点。
その様と言ったら目で人を殺めてしまいそうな、間違っても教師が生徒に向ける眼差しではないように感じた。
兄妹間ですら、そんな恐ろしい表情を私は未だかつて見たことが無い。
言ってしまえば、先日のスカート丈で呼び止められた時よりも恐ろしい形相だったのだ。
鬼の形相とはきっとこの事を言うのだろう。
実際、鬼なんて見た事はないが――うん。きっとこれが鬼だ。

二限目の数学の授業中。
開始早々に昨日抜き打ちで実施された小テストの答案用紙が返却されたのだけれど、名前を呼ばれて受け取りに行こうものなら……差し出された答案用紙が実兄の手の中で今にも破れてしまいそうな程にグシャリと音を立てて皺が寄ったのだ。

そして冒頭の台詞。
不死川なまえと記した名前の下にはデカデカと主張するように書き込まれた“0”の数字。
ついに禁忌を犯してしまった。
私は兄が受け持つ数学の小テストで、あろう事か――

「ワハハハ! なまえのやつ0点取ってやがる! バカだこいつ! 俺だって0点なんてとったことねぇのに!」

私と実兄の異様なやり取りに、ひょっこりと横から顔を覗かせた伊之助が私の答案用紙を繁々と見る。
そして、クラス全体に響き渡る程の音量で声を張り上げたのだった。

「こ、こら伊之助……! そんな事わざわざ口に出すんじゃない!」と堪らず炭治郎が止めに入ってくれたけれど、時既に遅し。
その場に居合わせたクラスメイト全員分の憐憫を帯びた眼差しが一身に浴びせられる。
もはや公開処刑のようだった。

「なまえだって頑張ったんだ。頑張って0点だったんだからこればっかりはどうしようもないだろう?」
「いや、炭治郎……お前それ全然フォローになってないから。むしろなまえの傷口抉っちゃってるから」

炭治郎の正直な言葉と善逸の的確な突っ込みが相俟って、私のメンタルをこれでもかと存分に抉ってくれた。
勿論、その後の授業は全く集中出来ずに終わってしまって、またしても小テストを実施すれば0点を取りかねない程、何も手に付かなかった。

その理由が何故かなんて、誰にも話せるわけがない。

***

時間は誰にでも平等に流れているもので、どんなに気が進まなくてもこうして放課後はやって来る。
無情にもやって来てしまった。

昼休み、玄弥に放課後の事を相談してみたのだが、以前赤点を取っただけでもこっ酷く叱られて山のように課題を出されたのだと話を聞かされた。
そんな片割れの兄からのアドバイスは“誠心誠意謝って、猛省する姿勢を見せ、言い渡された課題を決死の覚悟でこなす事”だった。

よって、もはや私に逃げ場はない。
私が出来ることは、玄兄のアドバイスを元に、この扉の先で待ち受けているであろう地獄の補習を乗り切る事。

ドアの前に立ち、斜め上方向へと仰いだ先には“数学準備室”の表札がある。
重苦しい溜め息は誰に届くこともなく廊下に響いて消え去った。

廊下の窓から覗く景色は、仲良く友達と下校する生徒や、部活動に精を出す生徒の姿が見受けられる。
各々が放課後を謳歌する最中、私だけが地獄へと続く門の前にでも立っているような気分だった。

これ以上遅くなって実兄の機嫌が悪くなってしまう前に、意を決して準備室のドアを控えめにノックする。

「不死川なまえです……」
「おう、入れェ」

緊張の面持ちでドアを開けると、机を挟んだ向かいに座る実兄の姿が目に入った。
胸の前で腕を組み、脚まで組んで、血走った目で此方を見やる。
背後から禍々しいオーラが滲み出ているように感じるのは、きっと気のせいではない。

二限目の数学の授業から随分と時間が立っているが、それでも怒りは収まらないのか、これ以上ない程に実兄は怒っているようだった。
小テストであれど、テストで0点だなんてスマッシュ案件かもしれない。

「何ボサっと突っ立ってんだァ。さっさと座れ」
「は、はい……」

怖い怖い怖い。圧が凄い。
椅子に座るだけであるのに、恐ろしさで身体が震えてしまう。
弟妹であろうとも容赦がない事を知っているだけに、思わず視線を逸らしてしまった。

その仕草が気に食わなかったのか、向かいからは「チッ」と舌打ちが聞こえて、一層緊張と恐怖で身が震え上がる。
対面から伸びて来た手に戦々慄々としながら、きつく目を閉じた。

「さ、実に……不死川先生、あの、そのっ……ご、ごめんなさい! スマッシュしない、で――痛っ!」

数学準備室の窓を突き破って宙を舞う事を覚悟してきつく目を閉じると、途端にバチン!と鈍い音がして額に痛みが走った。
どうやら、額を指で弾かれたらしい。
正直それだけでも十分痛いので、スマッシュされ空を飛んだ生徒は一体どんな痛みだったのだろうかと、想像するに余りある。

ジンジンと痛む額を摩りながら恐る恐る目を開けると、先程までの震え上がるほどの恐ろしさは影を潜め、不機嫌な教師の顔に戻っていた。
それでも“不機嫌”と言い表せる程度には、まだ怒っているらしい。

「ったく……そんな怯えんなァ。女子生徒相手に殴らねぇわ」

安堵したのも束の間、私はこの部屋に入った時から抱いていた違和感の正体に漸く気が付いて思わず辺りを見回した。
放課後に呼び出された理由は補習だと思っていたし、事前に玄弥から山ほど課題が出されると聞いていたからだった。
その山のような課題が机の上にも、何処にも見当たらない。

「……あの、山の様な課題は?」
「あ?」
「だって玄兄が……この間赤点とった時、ゲロ吐きそうなくらい大量の課題をやらされたって言ってた……あ、言ってました」
「別に必要ねぇだろ。間違っちゃいねぇんだから」
「え?」

実兄は、返した答案用紙を寄越せとばかりにぶっきらぼうな仕草で此方に手を差し出す。
慌てて鞄から答案用紙を引っ張り出し、手渡した。

何度見ても目を背けたくなる“0”の文字。
これの何処を見て間違っていないと言い張るのか。

「でも、全部間違ってるし……」
「解答欄、全部一個ずつずれてンだよ」

実兄は、トントンと解答欄を指で示して溜め息混じりに言った。
その指につられて自分でも問題と解答欄を見比べると、見事に全て答えがずれていた。

「え? ……ああー! ほ、本当だ!」
「ったく、抜けてんなテメェは」
「あはは……ごめんなさーい……」

どうしてこんな簡単な間違いを犯してしまったのだろう?
違和感すら感じられない程、私は上の空だったと言う事になる。

そうだ。こんなケアレスミスに気付かない程、私の心は穏やかでなかった。それは今でも。
数日前のあの夜の事を、未だに私は馬鹿みたいに引きずっている。
実兄に抱かれて眠った事も、どこの誰とも知れない女性と混同されて囁かれた言葉も、縋り付いてきた腕の力強さも――結局、何一つ忘れる事が出来ずに今日まで過ごしている。

きちんと割り切るからと、だから叱らないでほしいと誓ったはずなのに、私はそれが出来なかった。
言ってしまえば、こんな風に二人きりで向き合っている現状もあまりいい気分ではなかった。
あの夜の事を思い出してしまうから。

「で?」
「え?」
「“え?”じゃねぇ。何か悩んでんだろォ?」

その問いに、どうして答えられようか。
口を真一文字に結ぶ私を、兄はどう思ったのだろう?

「ここんとこ様子がおかしかったからな」と付け足す実兄の口振りから察するに、この間の記憶は無いようだった。
それもそうだ。あれだけ泥酔していたのだから。

けれど、その日の事は話せない。
そのせいで心ここにあらずで0点をとってしまったと、実兄のせいだと口にすれば、この気持ちは楽になるのだろうか?
これは、妹として兄に対して抱く感情にしては些か可笑しな気がして……口にする事すら憚られた。
最近の私は、どうかしている。

「……何でもないよ? 最近ちょっとぼーっとしちゃってて。あはは。夜更かしのしすぎかな」
「……」

屈託なく笑って、普段通りを装った。
上手く誤魔化せたと思っていたのに、実兄は押し黙ったままじっと私を見つめる。
絡まり合った視線が外せない。その目に見つめられていると、胸の奥に仕舞い込んで隠した感情も、何もかも全て見透かされそうでいて少し怖かった。

「兄ちゃんにも話せねぇ事かァ?」
「っ!」

その問い掛けはあまりに狡い。
そのたった一言で、私達は“教師と生徒”ではなく“兄と妹”に戻ってしまうのだから。

実兄だから、話せない――この一言だけはどうしても伝えられなかった。

「“不死川先生”には、関係ない事だもん……」
「なまえ」

椅子から立ち上がって、せめてもの抵抗から視線を外した。
俯いたままスカートの裾をぎゅうっと握る。
握り締めたスカートだって、きちんと規定丈のままだし、今日も可愛いと甘やかされたかったから支度の為に早起きをした。結果的に0点だったけれど、解答自体は全て正解。だって、数学は実兄の授業だから。

私の何処を見たって、其処此処に兄の存在が散りばめられている。

徐に伸ばされた手が、表情を隠すように垂れ下がった前髪を掬った。
実兄の指先が僅かに額を掠めて、思わず身を小さく震わせてしまう。
まるでその仕草は、顔を見せろと言わんばかりに感じられて、渋々俯いていた顔を上げる。

「俺ァ……今、お前の兄貴として質問したんだがなァ」

別に困らせたい訳ではないのに、眉を下げて曖昧に笑う実兄を見ていると、まるで“困った妹だ”と言われている様でいて堪らなくなる。甘えてしまいたくなる。

俯いたせいで耳から溢れ落ちた髪を掛け直してくれる実兄の手付きがあまりに優しく、心地いいから……だから、私は口走ってしまったのだと思う。

「実兄……私、嫌だから……」
「あァ?」

先程まで髪に触れていた実兄の手を握る――勇気は無かったので、気持ちばかりに小指の先を控えめに握りながら消え入りそうな声で言う。

「ずっと私の傍にいてくれなきゃ……嫌だからね?」

これが、今の私に出来る精一杯の言葉だった。
又候、おませな妹の我儘だと、仕方のない奴だと笑い飛ばしてくれればそれで十分。
それから、いつもみたいに髪をくしゃくしゃと手荒く撫で付けて。

「へぇ……そりゃあ、どういう意味か詳しくお聞かせ願いたいもんだなァ?」
「んなっ、……え?」

けれど、こんな時に限って実兄は意地が悪かった。
実兄の大きくて無骨な手が私の頬を包み込む。
いつもと様子が違うと思った。細められた瞳が私を絡めとるみたいに鋭くて、爛れているように感じられたからかもしれない。
「なまえ……」と静かに呼ばれた名前に、突然身体中の血液が沸騰したみたいに熱くなる。
こんな事は今まで一度たりともなかったのに。

頬を撫でられた事は幾度とあった。名前を呼ばれた事だって、何度も。

「――っ、実兄の変態シスコン白髪スケベー!」
「ぶはっ!?」

肩に掛けていた鞄を思い切り振り上げて、一思いにフルスイング。
それは会心の一撃とばかりに実兄の顔面にクリーンヒットし、バコ!と派手な音を立てた。
0点の小テストが鞄の風圧で机の上から床へと滑り落ちるが気にしない。否、気にしている場合じゃない。
実兄が怯んだ隙を見て私は数学準備室を飛び出した。

その直後、飛び出した瞬間何かにぶつかってしまい慌てて顔を上げると、そこには何の因果か宇髄先生が立っていた。

「おっと。何だ、今日も派手に威勢がいいな」
「っ、うわあああ! ううう宇髄先生っ、さようなら!」
「? おお、また明日な」

数学準備室から脱兎の如く逃げ出す私を、宇髄先生は立ち止まって不思議そうに見つめていた。

「オイ、待てゴラァァア! まだ話は終わってねぇだろうがァ! 廊下も走るんじゃねェェ!」

その直後、背後で実兄の怒鳴り声が聞こえたが、それなら尚更足を止めるわけにはいかないので、振り向く事なく速度を上げて廊下を直走る。

「あ? 宇髄、こんな所で何して――」
「変態シスコン白髪スケベは流石にヤべェわ」
「っ!? テメッ……何ニヤけてんだ! ぶち殺す!」

混乱を極めた私が吐き捨てた台詞は、存外準備室の外まで漏れ聞こえていたらしかった。
他に生徒が居合わせなかった事が何よりの救いだったけれど、一層拗れてしまった心情を思えば、そこには何の救いもありはしなかった。

ドクンドクンと終始騒がしい心臓は、廊下を全力疾走したせいであると思いたい。


20230629
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