あれから僕は彼女を追いかけはしなかったし、勿論引き止めもしなかった。
屋敷を飛び出す背中をただ黙って見送った。

薄情だって。酷い奴だって、身勝手な奴だって思う?
だったら、勝手にどうぞ思っておいてくれて構わない。
だって、なまえは他でもない自分の意思で屋敷を出て行ったのだから。どうして僕がそれを引き止めなければならないのかって話だ。

どうだっていい。
僕のやる事はこれからも変わらないし、僕の日常も変わる事はない。
ただ僕の世界からなまえが居なくなった。それだけ。

――ただ、それだけの事。

「ただいま。ねえ、なまえ? ……あ、そっか。もういないんだっけ」

それだけであるのに、僕はちゃんと“ただいま”と言うし、気が付けば彼女の姿を探している。
いつ帰っても屋敷が静かで、いつ目を覚ましたって朝食の焦げた不快な匂いがしない。
僕を追う足音がしない、僕を呼ぶ声がしない、僕を包む笑顔がない。

『時透くん! 継子にしてください!!』

嗚呼、そうか。僕は――寂しいのか。

「まいったなぁ……」

よりにもよって、こんな一番の面倒事を置き土産に去っていくなんて。
何が、立つ鳥跡を濁さずだ。濁しまくりだった。
寂しさも、恋しさも、憎さも、愛おしさも……散々こんな感情を僕に植え込んでおいて、何処かへ行ってしまった君なんて、大嫌いだ。

***

「任務ゥゥウ! 此処デ待機ナノヨォオ!」と、僕の鴉が鳴いてそろそろ小一時間が経つけれど、待てど暮らせど待機せど、共に任務へあたる予定の隊士がやって来ない。
僕はひたすら鎹鴉の腹を撫でてやりながら時間を潰すわけだけれど、相手の隊士は僕の時間を一体何だど思っているのだろうか?
時間は有限。時は金なり。
正直、合流を待たずとも、僕一人で任務をこなす事は造作もないだろう。
それなのに今日に限って何故、合同任務なのだろうか?別に上弦の鬼相手と言うわけでもあるまいし。

僕は顔にこそ出さないものの、段々と積もった苛立ちに耐えかねて、もう一人で行ってしまおうと思った、正にその時だった。
ガササ……!と背後の茂みが揺れて、徐に振り向いた瞬間「お、遅れましたぁあ!」と大きな声と共に勢い良く何かが飛び出してきた。
この場合、“何か”ではなく“誰か”であるが。

「も、申し訳ありません! 道に……っ、迷ってしまって、近道を……しようと思ったら、余計に迷って……遠回りになってしまいまして……!」
「!」

ゼエゼエと肩で息をしながら、葉っぱやら蜘蛛の巣に塗れたその姿に、僕の時間は一瞬止まった。
あれからどれだけ経ったっけ?ひと月くらいしか離れていなかったのに、彼女の姿が酷く懐かしく感じられる。
相変わらず騒がしくて、落ち着きがなくて、鈍臭い。喚く声が五月蝿いよ……まったく。
何だ。僕が傍にいなくたって元気にやっているじゃないか。

僕は黙ったまま、じっと彼女を見ていた。
いつまで経っても反応が返って来ないことに疑問を抱いたのか、下げていた頭を上げて、その相手が僕だったのだと気が付いたなまえの表情と言ったらない。

「と、時透……くん」
「来るのが遅いよ。どれだけ待たせたら気が済むの?」
「っ、ゴメン……なさい」

こんな事になるなら、尚更一人でさっさと出発しておくんだった。
そんな感情がより一層強く湧き上がってくる。

「そんな顔しなくたって、触れないよ。構わないし、用もなければ話しかけない」
「! ……そ、そっか。うん。分かった」

自分がそんな事を言って、僕から離れて行ったくせに。
意味が無いと、必要が無いと言って拒んだのは誰だよ。
彼女が何故今にも泣き出しそうな顔をするのか、僕にはさっぱり分からなかった。

話を早々に切り上げて山へと続く道を行く僕を、慌てて追う足音が耳に届いた。
別に僕一人で事足りるし、ついて来ないなら来ないで一向に構わなかったのだけれど、なまえはついて来た。
どんなに気不味くても、任務は任務。そう割り切っているらしい。

どんどん分け入って先に進んで行くにつれて視界は悪く、険しくなる。足元も悪い。
そこで、僕は立ち止まる。
振り向いて、随分と後ろを歩くなまえの姿を視界に捉えて、溜息を吐きながら元来た道を戻った。彼女の元まで。

「はぁ、はぁ……(早く、歩かないと時透くんに置いていかれる。足手纏いにだけは、なりたくないのに)」
「ちょっと」
「あ、と、時透くん……ごめん、なさい。もっと早く歩くから……」

僕は、いつまでも謝ってばかりで、肝心な事は一言も話そうとしない彼女にいい加減苛ついて、足元へとしゃがみ込んだ。
そして、彼女の右の足首を力を込めて握り締める。

「ふぅん。この足で?」
「いだだだだだ!!」

僕は、涼しい顔で彼女の負傷している足首を握る。これでもかと力を込めて。
気が付かないと思っていたのなら、僕を見くびるなと罵ってやりたい気分になった。

「どうして言わないの?」
「迷惑をかけたくなくて……」
「もう十分迷惑だけど」
「……う、ごめんなさい」

なまえは、しゅんとして項垂れた。
彼女は、僕と合流してから苦しそうな表情しか見せていない。
僕の継子になりたいと言っていた時は、何が起こっても、どんなに嫌味を浴びせても、ヘラヘラと締まりのない顔で嬉しそうに笑っていたのに。

本当に、僕達は変わってしまったのだと思った。
そして、彼女の言い草によれば、それを壊したのは僕らしいが……。

「もういいよ。引き返して」
「え、でも……これくらい平気だよ?」
「足手纏いだって分からない?」
「っ、」
「邪魔」
「……ごめん」

だって、これから本格的に日が落ちる。
辺りが完全に暗くなれば下山は一層困難を極める。今でさえ足元が悪いのに、足を痛めている彼女には負担でしかない。
万が一、足を滑らせてみろ。それこそ崖から滑り落ちて川へと転落死一直線だ。

どうにも優しい言葉は掛けてあげられない。
彼女は喜ぶかもしれないが、そんな事をしたら、また触れたくなってしまうから。
だから、どうか僕を嫌ったまま、早く何処かへ行ってしまえばいい。

「じゃあね」
「あ……待って、時透く――っ!?」

僕は背を向け、なまえを残してその場を離れる。
その直後だった。背後で禍々しい気配が瞬く間に広がってゆく。僕は、弾かれた様に意識を切り替えて、抜刀し、斬りかかる。
気が付かなかった、僕としたことが。
確かに完全に日は沈んでいない。けれど、彼女が立っていた側はとうに日が沈んで影になってしまっていた事に。

「なまえ……!」
「ふ、ぐぅ!」

なまえも、かろうじてその気配に気が付いていた。咄嗟に抜いた刀で鬼の攻撃を受け止めていた。
けれど、負傷している足首に負荷が掛かって思うように踏ん張りが利いていない。
ぐぐぐ……と鬼の圧力に押し負けて徐々に受け身の体勢が押し崩されているのが目に見えて分かった。
拙い。このままでは。

【霞の呼吸 弐ノ型 八重霞】

咄嗟に放った技で、なまえを押し潰さんとする鬼の腕を切り刻む。
そして、一瞬鬼が怯んだ隙に素早く懐へと入り込んで地を蹴る、自分の背丈よりも高い位置にある首を一刀、断ち切った。

ゴトリ、と足元へ首が転げ落ちる。けれど、まだ終わりでは無い。
奥の茂みにもう一体、鬼が潜んでいる事を僕は認識していた。
身を捻って、返す刀で二体目の鬼へと斬りかかろうとした時、その爪は既に此方まで届かんとしている。
嗚呼、面倒臭い。次から次へと。
しかし――

「時透くん――!」
「なっ、」

だから、足手纏いだって言ったんだ。
僕は君に守ってもらわなきゃならない程、その命を賭してもらわなければならない程、軟弱だと思っているのかと凄んだばかりだったのに。
そんな覚悟なんていらないって言ったろ。
そんなものを賭してもらわなくて結構だって、突っぱねたのに。
だって、そうでも言わなければ、なまえは僕の為なら替えが効かないものも軽々と差し出してしまうって分かっていたから。

躊躇なく僕と鬼の間に飛び込んだなまえは、鬼の腕と首を切った。
そして、無茶な体勢で切り込んだから、受け身も何も取れずに足を取られてしまって、反動で崖の方へとその身が投げ出されてしまった。
咄嗟に伸ばした手が宙を掻く。チリッと微かに掠めた指先だけでは、とてもなまえを捕まえられなかった。

「――っ、」
「なまえ!!」

スローモーションのように浮遊する彼女の身体が、髪が、ふわり風の抵抗で宙に舞い上がって、直後――その姿は僕の視界から消え失せる。
こんな時でも、最後に此方へ向けた彼女の表情が満足げな微笑みだったなんて、一体どんな当て付けなんだ。
私は満足です、後悔なんてこれっぽっちもありません。そんな事をほんの少しでも思っていたのなら、絶対に許してなんてやるもんか。

僕はすぐさま彼女を追って崖から飛び降りる。
それこそ、なまえが僕を守るために何の躊躇いも見せなかったように。
真っ逆さまに落ちる彼女へと目一杯に伸ばした手が、空気抵抗で煽られた羽織にチリチリと触れている。

もう少し、もう少しだ――!

水面が間近に迫って、叩き付けられる寸前で僕はなまえを腕に抱く。
嗚呼、やっと捕まえた。

皮肉にも、この時、少しだけ彼女が微笑んだ気持ちが分かった気がした。
けれど、やっぱり許してなんてやらないけれど。

ドボンと二人分の身体が川底に沈むのを感じながら、腕に抱いた彼女を決して放すことが無いように。僕はその華奢な身体だけを懸命に抱き竦めたのだ。

20200414


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