視界が狭窄する。
上手く呼吸が出来ず、息苦しい。
ぐわんぐわんと大きく頭を揺さぶられているような感覚に陥り、平衡感覚を失ってしまった私は、かろうじて動かせていた足も止めてしまって、ついには重力に従うがままにドシャッと地面に倒れ込む。
受け身も取れず、まともに顔面から地面に突っ込んだ。

嗚呼、痛い。けれど、心の方がもっと痛い。
砂利と土に塗れて、それでも私は一週間前に浴びせられた彼の言葉ばかりを考えてしまう。

『なまえの浮気者』

違うの、時透くん。誤解なの、時透くん。
私は決して、いつまで経っても時透くんの継子にして貰えない事の不平不満から、さぁ煉獄さんの継子に鞍替えだ!なんて思っていたわけじゃないの。
確かに時透くんに内緒で、ここ二週間くらいほぼ毎日煉獄さんのお屋敷にお邪魔して稽古をつけて頂いたり、時には任務に同行させて頂いたりなんかもしていたけれども、断じて浮気じゃないの。

――浮気?
待て待て、私は時透くんとそういう関係だったろうか?
いやいや、それこそ言葉の綾というものか。

けれど、まあ、あれだけ時透くんに言い寄っていたくせに、あっさり煉獄さんに靡いて稽古をつけてもらってしまうのだから、気持ちの面ではそう思われても仕方がないのかもしれない。
私は、最低だった。

こういうの、何て言うんだっけ?
嗚呼、そうだ……自業自得。

強くなって時透くんの役に立ちたいと思った。
そうしたら、継子として傍に置いてもらえると思った。
だから、キツい煉獄さんの稽古も頑張って耐えた。
時透くんの傍にいたくて。
ただそれだけの単純で明快な理由すら、今の私達では理解し合えない。

色々と足りない頭で、あれこれごちゃごちゃと考えたのがいけなかったらしい。
思考能力も低下してきた。

嗚呼、もう駄目だ。
いよいよ意識が遠のく、そんな中。脇腹を何かでツンツンと突っつかれるような感覚を覚えたが、私はそのまま目を閉じる。
「と、きと……くん……お腹、す……いた」と、馬鹿みたいな遺言を残して。


「伊之助、待ってくれよぉ。何で同じ任務だったのにお前そんな元気なの? 俺これ絶対肋骨何本か折れてるやつだ。バッキバキだよぉ、痛い痛い痛い痛い……って、何してんのお前」
「何か屋敷の前に転がってんだよ。邪魔臭ぇぜ」
「転がってるって……ぎゃぁああ! お前、まさか死た、い……なまえ!?」
「あ?」
「お前なに人の姉弟子をウ◯コつんつんするみたいに棒っきれで突いてくれてんだよー!!」
「あ゛!? うるせぇ! ただ生きてるかどうか見てただけだろーが!」

やんややんやと騒がしい声が聞こえた気がした。
だってほら、人間は聴力が最後まで残るって言うでしょう?

*** 

目が覚めた時、視界に広がったのはどう言う訳か、弟弟子の善逸の顔だった。
何で今にも泣そ出しそうな顔をして、此方を覗き込んでいるのだろう?

「なまえ……! だ、大丈夫!?」
「ぜ、んいつ……?」
「そうだよ! 俺だよ! なまえ、蝶屋敷の前で倒れてたんだ……覚えてる? 一体何があったのさ?」

続いて、アオイちゃん、すみちゃん、なほちゃん、きよちゃん、いつもの顔ぶれも視界に入って、此処が蝶屋敷であることを理解した。
私はどうやら、かろうじて蝶屋敷まで辿り着けてはいたみたいだった。
善逸に何があったのかと問われて、私は返答に困る。
正直にありのままを話すのなら、“私は浮気をしました”であるけれど。

「う゛……」
「なまえ!? ちょ、何、胸が痛いの!?」

堪らず胸に手を当てて蹲った。

これは所謂、良心の呵責と言うものだ。
物理的な痛みと言うより、精神的な心労からくる痛みのようなもので。
「死んじゃやだよー!」と叫ぶ善逸といい、情けない私といい、どうしようもない姉弟弟子だった。
今日は一際騒がしい蝶屋敷である。言わずとも私と善逸のせいで。
その様子を呆れた風に見ていたアオイちゃんが至極迷惑そうな表情で口を開く。
「説明を始めてもいいですか?」と言った。

仕事中にお手間を取らせてしまって大変申し訳ありません。

アオイちゃんは、コホン!と咳払いをして仕切り直すと、ハキハキとした口調で状況を説明してくれた。

「なまえさんにはこれと言って命に関わるような外傷はありませんし、軽い擦過傷くらいですので何ら問題はありません。それと、体調不良の原因の大半はこれですね。睡眠不足、疲労、それから……」
「それから!?」
「空腹です」

空腹。
まさかの診断に、私も善逸もポカンと呆気に取られた。
因みに善逸の方は切創、裂傷、肋骨三本の骨折。この差といったらない。

確かに、包帯やガーゼなどで手当てをされている善逸に比べて、私は腕に点滴が刺さっているのみ。
その点滴も、もう終わりに近付いていた。

「ですので、その点滴が終わったらお帰りになってかまいませんから。なまえさん、ご飯くらいちゃんと食べてくださいね」
「……はい」

なんとも居た堪れない気持ちになった。
倒れた理由が空腹だなんて情けないにも程がある。
確かに、ここのところ毎日時透くんの事ばかりを考えて食欲が出ず、とてもじゃないが食事なんて喉を通らなかった。
食事はしない、夜もまともに眠れず、そんな状況下で任務は今まで通りに入ってくる。
それは誰だって倒れる。

「何か悩みでもあるの?」
「……ううん、大丈夫だよ。心配かけてごめんね、善逸」
「嘘付かないで。俺には分かるって、なまえも知ってるでしょ?」

そうだった。この子はとても耳がいい。
いくら誤魔化したところで、その秀でた聴力の前ではどんな事柄も全て無力だ。

「見てらんない」
「まったく……情けない姉弟子で申し訳ない。ははは……」
「そう言う意味じゃないって」

「はい」と、言って善逸はポケットから何かを取り出して、私に差し出す。
促されるままに手を出して、何だろう?と首を傾げると、差し出した掌にコロンと三つの艶々した大きなどんぐりが落とされた。

「伊之助からお見舞い」
「わあ! 艶々した立派などんぐり」
「伊之助だけじゃないよ。此処の人達も、勿論俺だってなまえのこと心配してるんだからさ、理由ぐらい話せないの?」

そんなに真剣な瞳で見られたら、正直に話さなくてはいけないな、と思ってしまう。
本当に正直に話してもいいのだろうか?こんな理由で心労が祟って食欲が無くなってぶっ倒れてしまったという事実を。
世の中には知ら無い方が良かったと思える事がごまんとあるのに。

「実は私……浮気者で、」
「浮気も、の…… ――は?」

善逸は私の背後に立つ“何か”を見て、あんぐりと口を開けた。
いや、何かではない。“誰か”だ。

「浮気者見っけ」
「うぐ!?」

誰だ。私の心を言葉のナイフで抉るのは。
そんな風に軽やかに言わないで頂きたい。逆に心労が増幅してしまう。
善逸につられて首だけを捻って背後を見上げると、今度は私があんぐりと口を開ける番だった。

「こんな事ってある!?」

病室一杯に善逸の声が響き渡った。
無理もない。私に関しては、驚きのあまり声すら出なかったのだから。

結論から言うと、そこに立っていたのは時透くんだった。
けれど、確かに時透くんなのだが、私の知らない時透くんで。
言うなれば、五つぐらい歳をとったような、少年から青年に成長した時透くんだった。
背がぐんと伸びて、茫洋とした瞳は相変わらずだが、その顔からは幼さが抜けて、目鼻立ちが整い、男の子から男に変化していた。
眉目秀麗という言葉はきっと彼の為に誂えられた言葉だと思えるほどに、綺麗な男がそこに居た。

此方まで来た時透くんは、私を一瞥すると、善逸に一言短く告げた。

「貰っていいよね?」
「え、あ、はい。どうぞ」
「善逸!?」

弟弟子に秒で売られた姉弟子の図がそこには広がっていた。辛い。

「おいで、なまえ」
「っ、」

しかし、この大人時透くんの「おいで」の破壊力といったら、私から拒絶という行為を難なく取り上げてしまうくらいの破壊力があった。
いつの間にか終わっていた点滴を外して、時透くんは私の腕を掴み、じっと此方を見た。
返事は?そんな顔をするから、「ど、どうぞ……お気に召すまま」なんて、混乱していた私は意味の分からない言葉を呟いた。
背が高い。背中が広い。私の腕を掴む手が大きい。

――嗚呼、なにやら嵐の予感がする。

20200319


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