きっと、屋敷になまえは居ないだろう。
任務を終えた僕は、ぼんやりとそんな事を考えながら帰路についた。
なんて事はない。ただ、日常に戻るだけ。
なまえが傍にいない以前の毎日。普段通り。元通り。
目が覚めたら味のしない味噌汁も、丸焦げの魚も出てこない普段通りの朝が来る。
一切の煩わしさから解放されて、騒々しい声も無く、米粒を飛ばされる心配もない、落ち着いてゆったりと朝食が取れる。
喜ばしい事この上ないじゃないか。

「……」

僕は酷くそれを望んでいた筈なのに、どうしてほんの少しでも“物足りない”なんて感情が湧いてしまったのか。
まるで心の隅へ一点こびりついた、それは染みのようだと思った。

***

「ただいま」

取り立てて誰に言うわけでも無く、ただ口癖のように呟いて玄関の戸を開いた。
期待していた訳では無いけれど、やはり戸を開けた先には僕の帰りを待ち侘びた様子で出迎えるなまえの姿は無い。
しん……と静まり返った屋敷は、日が暮れても明かりは灯っておらず、一層寂れているように感じられる。こんなに静かなものだったろうか?

真っ暗闇の中、居間へ入ると、突然事は起こった。
グニ!と、何かを踏みつけにした様な感触を足の裏に受けたからだ。

「え?」

そのまま固まって、思わず声を漏らす。
今し方足で踏みつけた感触は、無機物のように固く冷たい物では無く、足袋越しでも分かる――何というか人体のような独特な感じだった。
居間の明かりを点け、僕が先程踏みつけにした正体が一体何であったのか、明かりに照らされたそれを見て呆気に取られた。と言うか、拍子抜けしてしまった。
だってそこには、大の字で寝転がり、間抜けな顔で眠るなまえが転がっていたのだから。

「……何で、居るの?」

一度に多くの事が起こり過ぎていて、情報量が多すぎて、何処から処理するべきなのか途方に暮れたと言った方が正しいのかもしれない。

取り敢えず、彼女は出て行かなかったらしい。
僕からあんな仕打ちを受けておいて、それでも彼女は此処に居座っていた……というより、寝転がっていた。苛つかせるような寝顔付きで。
心底おめでたい奴だと思わずにはいられない。

次いで、机の上に皿が一つ乗っている事に気が付く。
その皿を見て――正確には、その皿の中身を視界に捉えて、僕は双眸を見開いた。

「……ふろふき大根?」

お世辞にも上出来とは言えない見た目をしていた。
大根はガタガタだし、大きさも不揃いで不恰好だ。
まさかなまえが作ったのだろうか?
あの、毎日まともな食事すら作れなかった彼女が……これを?
まさかな、と思ったけれど、大の字で眠る彼女の左手を見てその考えは払拭された。
白く細い指には痛々しく包帯がぐるぐる巻きにされていたからだ。
そして、彼女の両手にはいくつもの剣蛸が潰れていた。
だらし無い寝顔をしたなまえの鼻を摘んで起こしてやろうと伸ばした手を、僕はソッと引っ込める。

一体何の当て付けなのかと思いつつ、彼女に与えた部屋の押入れから布団を引っ張り出して掛けてやった。
僕は、彼女の傍へ腰を下ろし、机の上に置かれた皿の下に挟まれていた紙を手に取る。
そこには『時透くんへ』とだけ認められている。

やっぱりこの不恰好なふろふき大根は、なまえが僕の為に作った物らしい。左指を何本も犠牲にしながら。
僕はその書き置きを矯めつ眇めつ眺めて、裏面の隅に何かが認められているのを見つけると、思わず双眸を瞬かせた。
だってそこには、左の端の方へ、本当に申し訳ない程度の大きさで書かれた文字が並んでいたからだ。

『美味しかったら継子にしてください』

彼女らしさしか見当たらないその文面に、肩の力が抜けたような気がした。
それは言うまでもなく、なまえが屋敷を出て行った事による物足りなさの憂いからの解放だったのかもしれない。
不覚にも、僕は――ほんの僅かであっても納得いかないが、まあ、本当に少しだけ救われたような気がした。

貢ぎ物にしては不格好なふろふき大根に箸を付けた時、傍らで眠っていたなまえが身じろぐ。

「時と、く……ごめ、ん……ね」
「……」

その寝言を聞いて、僕は何も言えなかった。

なんで君が謝るんだよ。
謝らなきゃいけないことなんて君は何一つしていないのに。
理不尽に感情をぶつけたのは僕の方だった。

一度は鼻を摘んでやろうと伸ばしかけたこの手で、尚も眠り続ける彼女の髪を梳くような手付きで撫でる。
その時、僕の心は確かに和やかで暖かなもので溢れていた。

「美味しいよ、ありがとうなまえ。まだ、継子にはしてあげないけど……少しだけ考えてあげてもいいよ」

だから、此処にいてもいい。
明日からまた僕は、味の無い味噌汁と焦げた魚を食べる毎日が来る。
それは果たして幸か不幸か――どちらにせよ、それが僕等の日常なのだ。

20200211


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