ここ最近、なまえは頗る機嫌がいい。

その理由とやらは詳しく知らないけれど、本当、何だかとても嬉しそうなのだ。
何というかそれは、僕が稽古を付けてやる時と似ているようでいて、でもどこか異なっているような気もする。
分かりやすく言うと、僕と稽古をしている時の彼女は主人に構って貰えてブンブン尻尾を振って喜ぶ犬みたいな感じなのだけれど、最近のなまえと言ったらフワフワと浮ついたような、気が付くと自然に頬が緩んでいるといった様子だった。
どうやら僕が任務に出ている間、与り知らない所でこうも彼女を浮つかせる“何か”がその身に起こったらしい。

まあ、どうだっていいんだけれど。

「最近やたらと機嫌がいいね」

蝶屋敷から出てきたなまえと、任務帰りでたまたまその前を通りかかった僕。
ばったり鉢合わせてしまったばかりに、僕は彼女に心底どうでもいい台詞を吐かなくてはならなくなった。

正直、彼女の機嫌の良し悪しなど、どうだっていいと言うのが本音だ。
けれど、屋敷にいる間、このだらしなく弛んだ表情と面を突き合わせる事になるのかと思うと、それもそれで面倒臭いから、僕はこれっぽっちの興味も無いけど一応理由を尋ねてみる。お情け以外の何でもない感情で。
すると、なまえは、待ってましたと言わんばかりに、食い気味で口を開いた。

「うん! 実は……すっごく嬉しい事があったよ!」
「へぇ」

だろうね。そんな事は君の顔を見ていたら嫌でも分かる。
そんな満面の笑みを浮かべておいて悪い報告だったら天変地異で雪が降る。
心底どうでもよさげに相打ちを入れると、なまえは「うへへ」なんて愛らしさもクソもない声で笑った。
彼女の将来を考えると年頃の女性がその笑い方でいいのかな、と齢十四そこらの僕なりに思うけれど知ったこっちゃないので放置。

「弟弟子とね、久しぶりに会えたんだ」
「そうなんだ」

なまえは袖を通している羽織へ視線を落とし、愛おしそうにそれを撫でた。
その羽織は弟弟子と揃いなのだろう。
腕に通した羽織の袖を撫でる彼女の頭の中は、きっとその弟弟子で一杯だ。何人たりとも入り込む余地のない程、今、彼女の思考は彼のもの。傍に並んで歩くのは僕であるのに。
一瞬、何とも言い表しがたいモヤっとした感情が過って、僕は小首を傾げた。

「……?」

いつも、僕に対して継子!稽古!と血気盛んな様子で詰め寄って来るから、こんな柔和な表情もするのか……なんてぼんやりと思った。
そもそも僕には弟弟子もいなければ兄弟子なんて者も存在しなかったし、実際いたのかもしれないけれど、どうでもよかったから覚えていないだけかもしれない。
ともかく、今現在僕が言えるのは、僕では彼女の感情を汲み取ってやる術が一つも無いという事だ。
共感も懐古も、不可能。

それから、何を聞いた訳でもないのに、なまえは弟弟子との思い出だとか、そいつがどんな奴で、何が好物で、彼女にとってどんなに特別であるかを滔々と話し続ける。そしてそれを僕はただ黙って聞いている。
どうしてだろう?不思議と良い気分では無かった。

寧ろ、何だか苛々する……よく喋るその口を一思いに塞いでやりたい。
自分らしくもない感情が腹の底から沸々と湧いて出るのを感じる。

「それでね、蝶屋敷で療養中なんだけど薬が苦くて中々飲まないんだよね……蝶屋敷の皆も困り果てて。今も善逸の様子を見に行ってきたその帰りで――」
「なまえ」

尚も縷々述べる彼女の話を遮るようにして、名前を呼ぶ。
此方を向いた彼女と漸く視線が交わった。
横並びで歩いていたから、僕が自らの意識で顔を向けなければ目が合うことが無かっただけの事だろうけど。

「時透くん?」
「稽古付けてあげるよ」
「え! 本当に!?」

終始無表情の僕とは対照的に、なまえは稽古と聞いて先程とはまた違った嬉しさを滲ませて笑う。
姉弟子という僕の知り得ない彼女から、いつもの見知った彼女に戻った――そう言った方が的を射ているように思う。
可笑しな話だ。どちらもなまえである筈なのに。ただ、僕が知らないってだけで。

ああ……そうだった。
僕は、なまえの事を何も知らないんだった。

***

カァン――!

「……っ!」

道場に響いたのは、今し方なまえの手から弾き飛ばした木刀が床板を打った音だった。
稽古を始めてそれこそもう何度何回、僕は彼女の手から木刀を吹っ飛ばしていて、そして遂に、呼吸の乱れた彼女はボタボタと頬を伝って溢れ落ちる汗と共に床へ片膝をついた。
勿論僕は息一つ乱さず涼しい顔で、そんな彼女を見下ろす。見下して、容赦なく言葉を吐いた。

「全然駄目。手と足の動かし方が全くなってない。緩急の付け方も雑だし、太刀筋も単純で攻撃の先読みをして下さいって言ってるようなものだよ、それじゃ」
「う……はい」
「よく今までそんな腕で死ななかったな……ああ、死にかけたから僕が君の命を救う羽目になったんだっけ?」
「うぅ……言葉も有りません……」
「そんなのでよく僕の継子になりたいだなんて縋ったものだよ」

僕と彼女では、天と地程の実力差があった。
それをまざまざと見せつけてやるが如く、こてんぱんにのしてやった。
今まで彼女に稽古を付けてやった事があったが、正直ここまで手厳しくした事はない。
冷静になってみれば、そこまでする必要は無かったんじゃないかって思えるこの度の過ぎた仕打ちも、浴びせる辛辣な言葉すら、僕は――。

「きっとその弟弟子って奴も、すぐ死んじゃうかもね。だって姉弟子の君がこの程度なんだもの」
「……時透、くん?」

流石になまえも、僕の様子がいつもと違っている事に気が付いたようだった。
困惑して、どう言葉を返せばいいのか……何が最適解であるか分からず、狼狽している。
今この場面で弟弟子の話題を引っ張り出してしまう僕に対しての最適解なんてものが有るなら、そんなもの僕自身が知りたいくらいだ。

「僕はまた明日から暫く留守にするから。良かったね、可愛い弟弟子を好きなだけ構ってあげたら?」
「へ?」

彼女はポカンと呆けて固まってしまった。片膝をついたまま固まったなまえの頭上には“?”が忙しなく飛び交っている。
僕だってそうだ。喋っていながら、何が言いたいのか全然分かってない。
でも、口を突いて出る言葉が止まってくれないのだ。
道場の敷居を跨いで、立ち止まる。ひょっこりと顔だけ覗かせて放った言葉は、きっと彼女にとって留めの一言足り得る破壊力だったろう。

「出て行きたかったら好きにすれば良いよ」
「え!? ちょ、それは……へ!?」

いくら時間が経っても道場から戻って来ない彼女は、それから何刻も魂が抜けたように固まって動かなかった。それこそ置物か何かのように。

20200208


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