目を離した隙に、またなまえを見失った。
それこそほんの少し、立ち話をしていただけだったのに。
彼女には腰に紐でも縛って付けていた方がいいのかもしれないと思ってしまう程、俺は深い深い溜息を吐きながら往来の中、なまえを探す。
幸い俺には、この一頭地を抜く嗅覚が備わっているので、彼女を見つけ出す事に関しては何ら苦労はない。ほらもう、なまえの匂いの端くれを捕まえた。
ズンズンと迷いなく一直線にその元へ向かうと、はぐれていた小さな背中を見つけた。なまえだ。
何やら路地の前で立ち止まっている様だが、何をしているのかまでは流石に匂いでは分からないので、俺は彼女に向かって少々怒気を孕んだ声で問いかけた。

「こら! また勝手に抜け出したな!」
「し、師範!」
「何でお前はいつも勝手に俺の傍を離れるんだ! 心配しただろ? だいたい……、」
「しー、ですよ! 駄目です大きな声を出しちゃ!」

反省の色どころか、その言葉自体を聞いていない。仮にも師範である俺の言葉であるのに。
ここいらで一度灸を据えてやらねばならないかと思った矢先、なまえは俺の羽織を掴んで引き寄せた。
「おっと、」と声を漏らして彼女の視線になる様に身を屈めると、何やら頬を染めて興奮気味に路地奥の暗がりを指差していた。
目を凝らすまでも無く、俺にはこの鼻で全て分かってしまうので。
それは紛れも無い逢引の現場で、見知らぬ男女が深く愛し合う様に口付けを交わしていた。

「っ、人様の逢引を盗み見る奴があるか……! 無粋な真似はよすんだ!」
「わあ! ちょ、見えないです師範!手が邪魔です!」
「見なくていい! お前にはまだ早いだろ」
「見たいです! 気になります! そういうお年頃ですもんっ」

強制的に目元を掌で覆い隠し、彼女から視界を取り上げると、半ば強引に路地から引き剥がした。
そういう年頃……その言葉を聞いて俺も彼女と同じくらいにはそんな事を思っていただろうかと懐古するも、よく分からない。

「はあ……、そんなの今から気にしてどうするんだ」
「なに呑気な事を言ってるんですか師範! 私だって将来は素敵な殿方と恋に落ちるんですから、こういう事を学ぶのは少し早いくらいが丁度いいんですよ!」
「……は?」
「……へ?」

思わず素っ頓狂な声が出てしまった俺と、それにつられて同じように声を上げたなまえ。
俺の“は?”は、なんて事を言っているんだの“は?”であって、彼女の“へ?”は、私何か可笑しな事を言いましたかの“へ?”だったように思う。
同じ一言でも相容れない。そんな笑えない冗談は聞き逃せない。

「――そんなに知りたいのなら、俺が教えてやるぞ?」
「し、しは……っ、」

不意に彼女の顎を掴み上向かせる。
結った髪が肩から溢れて一房彼女の頬へ触れると、ぎゅうっとキツく瞳が閉じられた。身をカタカタと震わせて。――所詮、そんな反応しか出来ないくせに。

「なんてな。冗談だ」
「……なんだか、怒ってます?」
「! 怒って無いよ。驚かせてすまなかった」
「師範?」
「頼むから、そう急いで大人になろうとしないでくれ。気を揉んでしまって、仕方がないんだ」
「……はーい」

「さあ、屋敷に戻ろう」と小さく笑って手を差し出すと、今度こそなまえは大人しく俺の言う事を聞いてその手を握り返してくれた。
どうか、まだ暫くの間は俺の知るお前でいてくれないだろうか?この手のように、その権利を握ったままでいたい。必ず迎えに行くと誓うから。だって、寂しいだろう?隣にお前が居ない未来なんて。


20200325


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