屋敷に戻っても、珍しくなまえの出迎えが無かった。

「ただいま。……なまえ?」

いつも何処で何をしていても、いの一番に駆けて来るのに、今日はそれが無い。こんな事は初めてだ。ちゃんと草履はあるし、屋敷にいるのは確かなようだが……。
不思議に思いながら上がると、厨にも居間にも姿は無い。クンと鼻を鳴らして彼女の匂いを探ると、それは俺を縁側へと導いてくれた。

「なまえ」
「あ、師範! お帰りなさーい!」
「ただいま。随分と上機嫌じゃないか。何か良い事でもあったのか?」

此方を見上げ、いつもの笑顔で俺を迎える彼女は、甚く嬉しそうな匂いを漂わせていた。
その手に持っている物は――文、だろうか?
なまえが文だなんて珍しい。今まで彼女が文を貰っている所は疎か、認めている所すら見た事が無い。

「はい! 文を貰いました。凄く嬉しいです!」
「それは良かったな。誰から貰ったか聞いても?」

やはりそれは文だった。人の手紙を覗くなど無作法であるが、チラッと見えたそれは達筆な字で認められていて、その筆跡からは差出人が男性の様にも窺える。
それが少し、モヤッとしてしまって、我慢ならずに誰から貰ったのか問うと、彼女は、何の躊躇いも無く告げたのだった。

「この間、任務で助けた男の人ですよ」
「! そう、か……」
「はい! 今日町で会って、その時に貰ったんです。この辺りの人だったみたいで、すっごく偶然ですよね」
「ああ、そうだな……」
「出そうと思ったら住所も名前も分からなかったからって、持ち歩いてくれていたそうで! なんだか余計に嬉しいですよね、そういうの!」

“嬉しい”その言葉通り彼女は満面の笑みで手紙を胸に抱く。
モヤモヤとしていたソレは、いつしか鈍く突き刺さるような痛みに変わってしまって堪らなくなる。

嗚呼、そんな風に誰かを思って笑わないでくれ。
そんな嬉しそうな匂いを漂わせて、話さないでくれないか。
その笑顔はいつも俺だけに向けていてくれたものだったろう?
それは、俺だけは別格なのだと思わせてくれた彼女の唯一だ。

「なまえ、」
「それでね、師は――」
「なまえ、駄目だ。そんなのは」

駄目だ、絶対に。心移りなんて――耐えられない。
俺は“師範”としてしか彼女を引き止める術が無い事を、今更ながらに思い知る。
だから、どうか精一杯の足掻きを。

両手で彼女の頬を包み込んで、此方を向かせる。くりくりとした大きな瞳には、師範としての俺ではなく、情け無い一人の男の顔が映り込んでいた。
彼女の瞳がぐらりと揺れる。それと同時に彼女の顔から生気が抜けたようにみるみる青くなって、絶望を思わせる匂いが俺の鼻を掠めた。

「そ、そんな……嫌です! 絶対嫌ですよ! 後生です師範!!」
「え?」
「一緒に行きましょうよ! 折角の機会なのに、行けないなんて私、一生師範を恨むかもしれません……!」
「と、とりあえず落ち着くんだ、なまえ……! 何の話をしているのか分からない」
「へ?」

俺と彼女の間では、何やら大きな行き違いが生じているらしい。
行くとは何処に?それに今、俺も一緒だと言わなかっただろうか?
彼女は認められた文字を指差して、言う。

「助けた方がお団子屋さんの若旦那さんだったので、お礼に団子を好きなだけご馳走させてくれって書いてあるんです。大好きな師範と是非一緒にって! ね? だから一緒に行きましょう? 良いでしょ? 師範!」
「……」
「師範?」
「はぁー……」

俺は何をムキになっていたのか。いや、早合点の勘違いをしていただけか。
手紙の差出人の男に彼女を奪われるなどと、盛大な一人相撲をとっていただけだったのだ。
大きく深い溜息を吐いて、俺はなまえの肩へ頭を預けた。何て情け無いんだ。
それと同時に酷く安堵している自分がいた。

「うん。うん、行こう。折角のお誘いだものな……改めて挨拶をしなければならないしな」
「はい! いつにしますか? 師範、それよりもどうしたんですか?」

華奢な身体を抱き締めると、彼女はクスクスと笑って俺の頭を撫でる。
そして、「お腹が空いたんですか? 今から早速行かせて貰いますか?」なんて的外れで見当違いな言葉を俺に浴びせたのだった。


20200428


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