俺は、この気持ちを我慢しなくてもいいのだろうか?
いや。最早、我慢するしないの問題では無くなってきているような……。

なまえさんに対するこの感情は、俺の思考や理性に関係なく日に日に大きくなってしまっているというのが現状だった。
要するに、この感情を認めてしまったあの日から寝ても覚めても彼女の事ばかり考えてしまって、今更自分の意思でどうこう出来る代物では無くなってしまったという事。

先日の茶屋での一件を境に全て、変わってしまった。

「(放っておけないんだよな……何ていうか)」
「でさー、伊之助はさっさと別の任務行っちゃうし、どんだけ張り切ってんだよアイツ。俺はもういい加減休息したいわけ……もうズタボロなんだよ俺は……心も身体も。女の子と触れ合わないともうやってられない! ねえ、炭治郎もそう思わない!? ほんとブラックだよこの組織……真っ黒だよぉ! そりゃ政府非公認組織にもなるわ!」

隣で善逸が喚いているけれど、殆ど耳に入って来なかった。申し訳ないけれど、俺は悶々とそんな事ばかりを考えていた。

なまえさんはお元気だろうか?
あれから無事復帰を果たしたした彼女は、翌日から早速任務に勤しんでいる様だった。

あんな風にわんわんと声を上げて、子供の様に泣きじゃくったなまえさんから感じた匂いに、俺まで胸が苦しくなった。
どれ程彼女の中で義勇さんという人が大きな存在で、支えであったのか痛感するのと同時に俺の中で生まれた感情は、この人を傍で守りたいという純粋な気持ちだった。
他の誰かではなく、俺が支えたい。
意地っ張りで、素直じゃなくて。でも頑張り屋で、芯のある人だ。
そんななまえさんが心を許せる唯一が俺であれたなら、こんなにも喜ばしい事はないのに。

会いたいな……なまえさんに。

「――! すまない善逸、ちょっと行ってくる!」
「はあ!? 炭治郎、お前もかよ!」

不意に鼻先を擽った香りに、俺の胸は高鳴る。
居ても立っても居られず、善逸に一言断りを入れて駆け出した。
それは本当に微かに残っているだけの、それこそ風に乗って漂ってきた程度。少しでも別の匂いが混ざれば容易に見失ってしまいそうな、僅かな香りだった。

少しずつ。けれど、それは確実に辿って行くに連れて匂いが濃くなっている。
匂いを道標にひた走る俺は、もう先程の悩みなんて何処かに飛んでいってしまって、今はただ彼女に――なまえさんに会いたい一心だった。

「蝶屋敷……?」

息を弾ませ辿り着いた場所は、蝶屋敷。
でも確かに彼女の香りはここに続いている。まさか、蝶屋敷でお世話にならなくてはいけない程の重症を負ってしまったのだろうか?
あれだけ大泣きしたなまえさんだ。その傷が直ぐに癒える訳がない。

彼女に限って無茶はしないだろうけど、案外身体を動かして気を紛らわそうとする自棄っぱちな一面が無いとも限らないんじゃ無いか?俺が知らないだけで。

だったら、尚更放っておけない。
彼女への想いに加えて、つい癖で芽生えてしまった世話を焼きたがる長男の血が騒ぎ出す。

「失礼します! お邪魔します!」と大きな声で挨拶をして屋敷に上がる。
やっぱり間違いない。なまえさんはここに来ている。
クンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ分けながら屋敷の中を進み、行き着いた部屋の前で足を止めた。
そこは、しのぶさんの部屋でも、道場でも、療養部屋でもなく。

「ここは……何処だ?」

今まで来たことの無い部屋の前で俺は立ち止まっていた。
勝手に入っても大丈夫だろうか?
戸に手を掛けたものの、入るかどうか迷ってしまう。

「あら? 炭治郎くんじゃないですか。どうしたんですか? そんなところで立ち止まって」
「しのぶさん……! あ、す、すみません。勝手に上がらせてもらって」
「気にしないで下さい。それにしても、噂に聞くその嗅覚……本当に良く利く鼻ですねぇ」
「え?」

しのぶさんは、全てお見通しと言わんばかりに微笑む。

「みょうじさんを探しに来たんでしょう?」
「あ、はい! そうです! なまえさんの匂いがしたので、つい」
「ふふふ。炭治郎くんはみょうじさんが大好きなんですね。そうぞ、入って下さい。心配しなくても大丈夫ですよ。此処は書庫ですので」
「書庫……ですか?」

確かに戸の隙間からは本や紙の匂いがする。
しのぶさんは特に事情を問う事なくすんなりと部屋に入る許可をくれた。「人払いしときます?」なんて冗談まで交えて。
そんなつもりは露程も無いのについつい頬を染めてしまった俺を見て、しのぶさんは満足そうに微笑んで踵を返した。

やましい気持ちは無い。なまえさんに会いたい一心で此処まで何も考えずに辿り着いてしまった様なものだから。
しかし、先のしのぶさんの言葉を受けて思うに、実際傍から見たらそんな風に映ってしまうのだろうか?
少し話をするだけ。元気そうななまえさんの姿を見て、ついでにいつもの嫌味を貰えたら万々歳だ。
俺は戸を開け、中に入った。

日が当たらない様に配慮された造りになっている書庫は、薄暗く少々埃っぽい。
真新しいものから古書まで様々な書物が向かい合わせに設置されたいくつもの棚に収納されていて、その規模に圧倒される。
キョロキョロと辺りを見渡すと――居た。
小さな身体を目一杯に使って、自分より高い位置の棚に並んだ本を取ろうと頑張っているなまえさんの姿だ。
直ぐにでも声を掛けようかと思ったが、もう少しこのまま見ていたいような気もする。
爪先立ちで「ふぬー!」なんて、可笑しな声を上げながら腕を伸ばし、奮闘する彼女が妙に可愛らしく思えてしまって、やっぱり手助けせずにはいられない気持ちになってしまった。

「はい。これですか?」
「え? ――は!?」
「こんにちは、なまえさん」

求めていた本が不意に手元にやって来たのだ。しかも自分以外の誰かの手によって。
それに加えて、その誰かが俺であったのだから、彼女は驚いて双眸を見開いた。
茶屋以来の再会だった為、なまえさんは何とも言えない複雑な表情をしている。
そういえば、彼女は初めて会った時から良くも悪くも気持ちを隠さない人だった。それは今でも何で此処にいるのだと言いたげな顔をしている。
目は口ほどに物を言うが、彼女の場合、顔全体で物を言っている。
そんなあからさまに嫌な顔をしなくても……と思ってしまうほどに。

「……何の用?」
「用はないですけど、なまえさんの匂いがしたので会いに来てしまいました! なまえさんは此処で何か調べ物ですか?」
「(匂いって……)別に、少し時間が出来たから。この間の血鬼術の事もあるし何かしら知識をつけておこうかと思っただけ」

淡々と言って、彼女は俺に背を向けて別の棚を物色し始める。
なんら普段通りにべない態度のなまえさんだが、いくら取り繕ったって俺には分かってしまう。書庫の紙の匂いに混じった、僅かな動揺の匂い。
表面上は全く気に止めていない風に装っていても、きちんと俺を意識してくれているらしい。

腕に数冊本を抱えながら先を歩くなまえさんの横に並び、腕の中からそれを取り上げる。

「ちょ、何?」
「お手伝いします!」
「はぁ? 結構ですー」
「さっきみたいに手が届かないところにある本も俺なら取ってあげられますよ!」
「頼んで無いけどね。それ嫌味?」

相変わらずのツンケンした態度だった。
いくらそんな風に接せられても無意味なんだという事を忘れる彼女じゃあるまいし。
嫌味な言い方をしても、俺を追い返そうとはしない。
以前のなまえさんなら、どんな手を使ってでも俺を書庫から追い出そうとしていただろう。
今は、それがない。少なからず心を開いてくれている様な気がして、そんな僅かな心の変化でさえ堪らなく嬉しかった。本当、どうしようも無いくらい――

片腕に本を抱え直し、空いた手で彼女の細腕を掴む。

「! ……今度は一体何?」

足を止めざるを得なかった状況に、なまえさんは不機嫌な表情を浮かべて振り向いた。

「なまえさんの傍に居たいです」
「――っ、」
「駄目ですか?」

逸らされ続けた視線が漸く交わった。
薄暗い書庫の中で分からなかったけれど、距離がぐんと近付き、ほんのり彼女の頬が色付いている事に気が付いた。
そんな顔をされたら、期待してしまうのに。

「だっ、駄目でっふ!!」

駄 目 で っ ふ ?

「……」
「……」

どうしよう。なまえさん、尋常じゃないくらいの動揺だ。
こんな一面見たことがないぞ。

「えっと……なまえさん、」
「な、何でもない! 帰る!」
「ええ!? 調べ物はいいんですか?」

俺の問いにも答えず、なまえさんは乱暴に腕を払って、足早に去って行ってしまう。
しかし、その動揺は拭いきれなかったようだ。
うず高く積み上げられた書物に肩がぶつかった。
そしてそれは案の定、ぐらりとバランスを崩して彼女目掛けて傾れ落ちる。

「なまえさん!」
「っ!」

腕に抱えていた本を手放して、慌てて彼女を庇う様に覆いかぶさった。
バサバサバサと、大量の本が落ちてくるのに伴って辺りは埃が舞う。
埃が気管に入って息苦しい。噎せながらも、庇ったなまえさんに怪我が無いかそれだけが気掛かりだ。

「大丈夫ですか?」
「……お陰様で。その、ごめん。竈門くんこそ大丈夫?」
「俺は平気です。石頭なので! はは、は……――っ、」

思わず固まる。
なまえさんの指が、俺の髪に付いた埃を払って、額に触れていたからだ。
きっと彼女はただ単に自分を庇った俺を心配しているだけだ。
石頭といっても、それは所詮頭骨の強度のことであって、皮膚は至って普通。
少し額に傷が出来てしまったらしい。といっても、擦過傷のような小さな傷だけれど。

「ごめん、血が……」
「――なまえさん」
「?」

今現在、俺達の体勢はと言うと、本棚に背を預けたなまえさんに被さる様な格好で、彼女の頭上と顔の横へ手を突いている。
本の雪崩から彼女を庇う事に必死で、この距離感に今更ながらに気が付いた。限りなく近い。
この体勢の意味が、彼女には伝わっていないのだろうか?
この距離で、そんな風に優しい手付きで触られたら、堪らなくなってしまうのだと言うことも。

「抱きしめていいですか?」
「え、」
「嫌だったら、突き飛ばして下さい」

彼女の承諾を待たず、華奢な身体を腕の中に閉じ込めた。
それでも、一声掛ける配慮を褒めて欲しい。

「か、竈門くん……!」

全身で彼女の温もりを噛みしめるように、抱き竦める。
嗚呼、駄目だ。やっぱり、好きだ。
――欲張ってしまう。

腕の力を緩め、なまえさんの背を再び本棚へ預ける。

「顔、真っ赤ですね。可愛い……」
「っ!」

拒まれなかったのをいい事に、いよいよ歯止めが利かなくなる。
少しでも触れると抱きしめたくなって、抱きしめると口付けたくなる。
どんな顔をするのだろう?どんな声が聞けるのか?
どんどん、もっともっと。貪欲に――彼女を知りたくなる。

「う゛、」

しかし、鼻先が触れるか触れ無いかの距離まで近付いたところで、俺の思考は強制的に切り上げられた。
なまえさんの手が、ぐいっと勢いよく俺の顎を下から上に押し上げたからだった。

「調子に乗らないでよ!」
「す、すみません……拒まれないから、つい」
「あんな力一杯抱き竦められたら抵抗なんて出来るわけないでしょ!?」

そうだったのか……それで、されるがままに。
「私が義勇さんに振られたからって何してもいいって事じゃないから! 分かる!?」なんて、大層ご立腹ななまえさんであるけれど、やっぱり顔は赤く色付いたままだし、何より彼女から感じられる匂いが、俺に希望を捨てさせない。

「俺、なまえさんが好きなんだと思います。いや、思うじゃなくて、好きです。女の人として」
「は……?」
「だから、きっと俺はこんな風に貴女と居ると色々我慢出来なくなると思います」
「ちょ、待って」
「でも、今すぐどうこうしたいわけじゃないです。今はこれで我慢します!」
「お、落ち着こう。一回落ち着こう?」

ぶつけるとなれば、全力。誠心誠意。
動揺する彼女を眼前に捉えながら身を屈める。
そして、精一杯の気持ちを込めて彼女の頬へ口付けた。

「わ、分かってもらましたか!?」
「君が……とんでもない弟弟子だって事は……」
「それは良かったです!」
「良くないです!」

俺はどうしようもない程、姉弟子に恋をしている。


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