「あらあら? みょうじさん、何だか最近窶れましたね……体調が優れませんか?」
「……思い当たる節があり過ぎて、何がなんやらで食欲が出ません。胃薬をください」
「それは困りましたねえ。炭治郎くんは恋愛においても真っ直ぐで情熱的なんですね」
「何でそれを!?」
「ふふ、何故でしょう? ねえ、みょうじさん。胃薬よりも今の貴女に覿面な処方箋があるのですが、知りたいですか?」
「え……?」

そんな会話を胡蝶さんと交わして胃薬を処方してもらった帰り道、私はフラフラと覚束ない足取りで街中を歩く。
往来を文字通りゲッソリとした様子で行くので、すれ違う親子から「お母さん、あの人どうしたのかな? お顔がすごいね」「こら、よしなさい。見ちゃ駄目よ!」なんて心無い言葉を浴びせられてしまった。

せめてもと、以前義勇さんから頂いた可愛らしい小包みから金平糖を取り出し、口に入れる。
色々と思い詰め過ぎて食欲が減退してしまい、私の胃腸は炭水化物を受け付けない。それは好物である梅のおにぎりも例外ではない。
金平糖なら何とか食べられたので、糖分摂取目的で食べていたが、それも遂に先程口に入れた物で最後だった。

あれも、これも、それも、どれも、全部――

「竈門くんの所為だ!!」

突如、街中で叫ぶ私は、いよいよ頭がおかしい奴だと思われても仕方がない。
だって叫びたくもなる。先日、蝶屋敷の書庫で私が彼にされた事を思えば。

あの日から、何度も何度も竈門くんの事を考えてしまって、彼の名前を聞くたびに過度な反応を示してしまう。
それに一番解せないのが、あの日の自分自身である。
何故あの日、あの時、私は竈門くんを拒む事が出来なかったのか――。
抱き締められた時、確かにあの体勢では突き飛ばしたり振り解いたりといった物理的抵抗は出来なかったかもしれない。でも、声を上げるとか悪罵を浴びせるといった抵抗は出来た筈だ。
ならば、何故そうしなかった?

もしかして、自分で気付いていないだけで、満更でも無かった?
というか私、少なからず竈門くんに惹かれて……

「ない! ないないないない!!」

そんな事はない。断じてない。あってたまるか。

ブンブンと頭を振って血迷った考えを脳内から追い出し、強制的に思考を切り上げた。
栄養不足の影響は思考にまで及んでしまっている。
何でもいい。とにかく早急に栄養を補給しなければならないと、妙な使命感に駆られて食事処へと向かう為、足を進めた――そんな矢先の事。
川沿いの道を行く最中「うわーん」と、河原の方から小さな女の子の泣き声が聞こえる。
一体何事かと斜面を駆け下り、急いで女の子の元へと駆け寄った。

「どうしたの?」
「ね、こ……グズッ……猫ちゃんがぁ……っ」

猫ちゃん?
五つくらいの女の子は、川の中ほどを指差しながらわんわん声を上げて泣いている。
指の示す方へ視線を向けると、バシャバシャと水面が揺れていて、白い子猫の姿が見える。
河岸で遊んでいて、何かの拍子で淵の方まで流されてしまったのだろうか?
この川は少し先が急に深くなっていて、よく水の事故が起きていると聞く。
猫も子猫であるし、いつ力尽きて川底へと沈んでしまってもおかしくない。時間の問題だった。

「泣かないで? 大丈夫。お姉ちゃんが助けるから」
「ほんと……?」
「本当」

目線を合わせる様にしゃがんで、女の子の頭を撫でてやると、鼻をすすりながら何度も頷いてくれた。
その様子を確認して、腰から日輪刀を抜き取り足元へ置くなり、何の躊躇もなくザブザブと川の中へ進んで行く。
凍てつく川の水に震えながらも、胸下辺りまで水に浸かった頃、今にも沈んでしまいそうになる子猫を掴む事に成功した。
子猫を掬い上げると、小さな鳴き声が耳に届き、安堵する。
後は、この子猫を女の子の元まで連れて行ってやるだけだと気を抜いたのがいけなかった。
水位が膝上まで下がってきた頃、あろう事か川底の藻に足を取られ、すっ転ぶ。
派手に水飛沫を上げてひっくり返った私を見て、女の子は慌てて駆け寄ってきた。

「お、お姉ちゃんっ! 大丈夫?」
「あはは……大丈夫、大丈夫」

ひっくり返っても子猫だけは水につけないよう、両腕を上げて転んだものだから、尻を強打からの全身ずぶ濡れ状態。
なんとも情けない。
ともあれ、本来の目的である子猫の救出には成功して、女の子の元へ無事に子猫を返してやった。

「はい。気を付けないと駄目よ?」
「うん……! お姉ちゃん、本当にありがとう!!」
「どういたしまして」

頭をひと撫でしてやると、女の子は嬉しそうに笑って駆け出して行く。
段々と小さくなる背中を見送りながら、足元に置いたままになっていた日輪刀を拾い上げ、帯刀した。

「へっっっぷし!!」

グショグショの隊服が気持ち悪い。吹き付ける風が冷たくて、冷え切った身体がガタガタと震えて仕方がない。
今の季節に川へ入るなんて尋常ならざる行為だと改めて実感しながら、隊服を乾かせる場所を確保するため河川敷から上がり宿場へ向かう。
確かこの辺りに藤の家紋の家があった筈だ。
幸い、鬼殺隊の隊服は通気性に優れている為、直ぐ乾くだろう。今から乾かせば夕方頃にはまた任務へ出れる。

それにしても、川底で打ち付けた尻が歩く度に酷く痛む。自然と庇う様な歩き方になってしまって、その姿と言えば実に滑稽で無様だったろう。
こんな所は決して知り合いに見られたくない。
見られたくはないのに――。

「なまえ」
「っ! ぎ、義勇さん……」

何故こんな時に限って。
何を差し置いてもこんな姿を晒したくはなかった。一番見られたく無かった義勇さんと顔を合わせてしまうのか。

「こ、こんにちは義勇さん。奇遇ですね……」
「ああ。……何があった?」

義勇さんは、頭の天辺から足の爪先までずぶ濡れになった私を見て怪訝な顔をする。
それもそうだ。今は真冬で、空っ風が吹くような季節に全身ずぶ濡れなのだから。

「それが、その……斯々然々で、ですね」
「そうか」

此処が川沿いの土手である事から、川で何か一悶着あったのだろうと察してくれた義勇さんはいつも通り多くを語らず静かに頷いた。
そして、小さく溜息を吐いたかと思えば、不意に羽織を脱ぎ始める。

「義勇さん? ……わっ、」
「鬼殺隊は身体が資本だ。気を付けろ」

そして、その脱いだ羽織で私を包んだ。
ふわりと義勇さんの匂いが鼻を擽って、思わず胸が高鳴る。
何だか義勇さんに抱き締められている様な、妙な気分。そんな気になってしまう程、私は今、彼の香りに包み込まれている。

「は、はい! あ、でも……大事な羽織が濡れてしまいます」
「そんな事は気にするな」
「で、でも……」

それ以上の反論を私から取り上げる様に、義勇さんの大きな手がくしゃりと濡れた髪を撫でる。
言葉数が少なくてもその一言一句、一挙手一投足から私を思ってくれているのだと伝わってくる。勿論、妹弟子として。

「ありがとう御座います、義勇さん。後で、必ずお屋敷に返しに行きますから」
「ああ」

頷いてくれた義勇さんを見て、私は気恥ずかしくなりながらも半々羽織と称される彼の羽織に袖を通した。

***

私がずぶ濡れなばかりに、義勇さんの大切な羽織は少し湿ってしまっていた。
早く脱いで乾かさなければと思う一方で、もう少しだけ着ていたいと思わせる義勇さんの羽織は、想像していたよりも大きくて、小柄な私では一杯に腕を伸ばしてみても袖から指先が少し覗く程度だった。
いつもこれを羽織って、義勇さんは任務に向かう。
羽織に包まると、今でも少し胸がきゅうっとなるけれど、その胸の高鳴りは不思議と今までとは少し違うものの様に思えた。
それは何故だろうか?

義勇さんの羽織に包まり、藤の家門の家を探していると偶然に。本当に今回は偶然にも、今し方私が探し求めていた藤の家紋の家から竈門くんが出てくるのを遠目に見つけてしまう。
お世話になった家人にペコペコと何度も頭を下げている。
どうやら竈門くんはこれから任務に発つところらしい。
不覚にも、私の心臓は大きく跳ね上がる。
義勇さんの羽織に包まりながら、竈門くんに意識を取られるという何とも複雑怪奇なシチュエーション。

出来るだけ物音を立てず、静かに身を反転させる。
そしてこのまま何事もなかったように往来に紛れ、溶け込んで、彼の目を欺きたい。
しかし、そんな事は無理だった。だって相手は、あの竈門くんだったのだもの。

「あれ? 義勇さん!」
「っ!」
「義勇さーん! お久しぶりです、竈門炭治郎です! あれ? でも何だか義勇さん背が小さ、く……」

掴まれた肩がびくりと跳ねる。
何事も無かったかのように遣り過ごそうなどと姑息な企みは、竈門くんを前に一瞬で潰えた。作戦失敗。

「……!」
「えっと……」

流石の竈門くんも驚いていた。
義勇さんかと思いきや、まさかの義勇さんの羽織を着た私であったのだから。
驚きのあまり声が出ないといった様子で眦が裂けそうな程に目を見開き、義勇さんの羽織に身を包んだ私を見つめている。
正直、こんな反応を示した竈門くんは初めてで反応に困った。
何でもいいから何か言って欲しい。いつもみたいに無駄によく回る舌でどうでもいい話をしてくれないだろうか?

「か、まどく――わっ!?」

しかし、私の期待は呆気なく裏切られ、腕を掴まれたかと思うとそのまま歩き出す。
真っ直ぐ前を向いて、ぐんぐん歩く竈門くんの表情が此方からだと良く見えない。
声が聞けず、表情が窺えないだけで、こんなにも不安が募ってしまうなんて。
彼の行動も思考も解せず、脳内は混乱の一途を辿る。なす術無く、竈門くんに腕を引かれるがまま後をついて行くしか出来ない。
掴まれた腕が痛かった。怒っているのかそれさえも分からない。
そもそも怒る理由すら分からない。
こんな時、彼の便利な嗅覚が心底羨ましく思えた。

「ちょ、竈門くん、何処に行くの!? あと、腕が痛いんだけど……!」
「……」

終始無言を貫く彼が、漸く足を止めたのは、藤の家門の家から直ぐ横道に逸れた人気の無い薄暗い裏路地だった。
何だ何だ、一体何なんだ。
いくら問い掛けてみても答えてくれないのだから、私にはどうする事も出来ない。
この状況での最適解が何であるのか検討もつかない。困惑の眼差しを彼に向けると、痛いと訴えていた腕をやっと放してくれた。
そして、何を思ったのか、彼は突然背負っていた箱を下ろし市松模様の羽織を脱ぐ。

「へ? 何……――うぐ!」

そして、私の身体から義勇さんの羽織を引き剥がして、代わりに竈門くんの羽織で私を少々手荒く包んだのだった。
竈門くんの匂いだ。先日蝶屋敷の書庫で、私を抱きしめた時と同じ匂い。暖かい。

「はぁー……すみません、なまえさん……」

漸く竈門くんは口を開いた。
力なく――ついでに余裕もなく、私の肩へ顔を埋めて謝罪の言葉を口にしたのだった。
それでも状況が理解出来ず、未だに放心状態だった私は、その謝罪に込められた意味も分からずにいる。
そんな中、ただ一つ分かった事は、言葉を紡ぐ竈門くんの声が切迫詰まったような――苦しそうな物であった事。

「俺、長男なのに、我慢出来ませんでした」
「は?」
「今まで、欲しかった物も、手放すのが惜しく感じられた事も、我慢して弟や妹達に譲ってきました。それが長男なら普通で、俺は長男だから我慢出来るって言い聞かせてたんです」

突然の長男談義。
そのお陰で、私の理解力がさらに迷走し始めている事を竈門くんは気付いていない。
私は取り敢えず黙って、彼の話へ耳を傾ける事に専念する。

「でも、なまえさんだけは、どうしても駄目で……」
「う、うん?」

竈門くんの羽織に包まれて、今度はその上から竈門くん本人にきつく抱きしめられる。
嗚呼、竈門くんで一杯だ。

「義勇さんの羽織に包まってるなまえさんを見て堪えられなかったんです」
「……」
「何だかなまえさんが、義勇さんのモノみたいに感じられて……凄く凄く嫌でした」

「手酷い真似をして、ごめんなさい」と、竈門くんは改めて謝罪する。
それは聞いているこちらが恥ずかしくなるような言葉の数々だった。どうしていいのか分からなくなる程に。

許すと言えばいい?それとも、だからって別に貴方のものでも無いのだと反論すればいいのだろうか。
今までの私なら迷わず後者を選んでいただろう。
しかし、どうだ?今はどうすればいいのか分からない。
とことん悩んで、散々迷って、私が取った行動は自分でも驚きに満ちたものだった。
私は、そっと片手を伸ばして竈門くんの背中を二、三度トントンと撫でた。不器用な手付きで。

こんなもの、考えるまでもなく答えは出ている。

少し力を込めて竈門くんの胸を押し返すと、素直に抱擁を解いてくれる。
そんな竈門くんの表情と言えば、我慢が利かなかった事への罪悪感と嫉妬心。そこに僅かに混じった不安の色。

「なまえさん……い゛っ!?」

不意打ちには、ご自慢の石頭も敵わないらしい。
私はらしく無い表情をする竈門くんの脳天目掛けてゴチン!と勢いよく手刀を振り落とす。華麗に一撃が決まった。

「な、何するんですか?」
「こ、これでも……!?」

半ば投げやり言って竈門くんの羽織に袖を通し、外方を向くと、衿部分をきゅっと握って見せる。
可愛げの欠片も無い。それでも、今の私が出来る精一杯の行動である事に変わりはない。
こんな行動を取るなんて私自身も予想外でしか無かったが。

「これでも、まだ何か不満!?」
「!」

その様子を見て、竈門くんは驚いたように瞳を瞬かせた後、それはそれは嬉しそうに笑った。

「いえ、凄くいいです! ……“俺だけのなまえさん”みたいで、嬉しい」
「(言い方……)」

高が羽織でこの騒ぎ。
そして、俺だけのなまえさんだと言う竈門くんの発言に、またもや不覚にも私の胸はトクンと高鳴る。
それと同時に、私は胡蝶さんの言葉を思い出していた。

『知りたいですか?貴女にぴったりの処方箋。……自分の気持ちに素直になる事ですよ』

胡蝶さん、その処方箋は強ち間違ってはいないかもしれません。

「それはそうとなまえさん、何で全身ずぶ濡れなんですか?」
「……それに関しては答えたくない」


20200203




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