青年に名は与えられなかった。
他の使用人も主も彼のことを『新人』と呼んだからだ。





B




「おい!東の棟の掃除がすんでないぞ!」


「すみません。今始めます。」




明らかに声をかけた男の持ち場であったにも関わらず、青年は従順に掃除を始めようとする。
着ていたものはすべて剥ぎ取られ、支給された質素な服を着て箒でほこりを吐き出していく。




「私は何者だったのだろう…私はどんな人間だった…?」




誰も居ない部屋で、答えのない問いを虚空に向かって吐き出す。
何も分からない彼は、今は言われたことは何でもする人間となっていた。
従順に、そして主に対し絶対の服従を約束させられていた。
主は美しき青年を気に入り、手元へと置いた。
もし、記憶をなくす前の彼を知ってる者に出会ったらどうしようという不安から外出は許されず、常より過酷な仕事を押し付けられていた。
それでも青年は何も言わず、働き続ける。






「あ!」


「おっと、すまないな…クク、」



ばしゃ、と派手な音を立てて青年が丹念に雑巾がけした床に水が捲き散らかされる。
低俗な、しかし確実な嫌がらせだった。
使用人の1人が口元に嫌な笑みを浮かべている。




「いえ…」


「そうかそうか。すべて片付けておくと?では頼んだぞ。」




好き勝手いいながら、しっかり泥で汚してく手際はある意味素晴らしい。
青年は黙ってそれを見送った。
本当ならばこんな所出ていきたい。
しかし自分は主に気に入られている。
彼がそう簡単に1度手に入れたものを手放すとは思えない。




「やはり此処に居るしか道はないのか…」




記憶を失った青年は、本来自分が持っている能力の高さまで忘れ、諦めの言葉を吐く。
堅く絞った雑巾で、水を吸い込ませていく。








ぽた






「?」





ぽたりと手の甲に落ちた雫。
一泊後に霞んだ視界に自分が泣いているのだと悟る。





「涙…?」





なぜ自分が泣くのか、分からない。
虐げられ悲しいなど思わなかった。
微かに浮かんだ気持は。
『悔しさ』
耐えがたい苦痛を味あわされている気持ちになる。




「ふ、…くっ」




止めようとしてもあふれてくる涙にどうすることも出来ず、青年はうろたえる。
なぜ、なぜ。
頭の隅が疼いたが、その正体を考える前に頭が割れる程の頭痛がしてその場にうずくまる。





「わたしは、本当に何者なんだ…!?どうして記憶がない…」




涙を流しながら絞りだすような悲痛な声をあげる。












その答えを持つ男が、着実に青年の居場所へ近づきつつあることをその時はまだ誰も知らない。






続く

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