赤信号の向こう側でちろちろと小さな白が人の間を低空飛行していた。

蝶だね。疲れてるのかな?それとも怪我してるとか。

隣から感受性の高い少年の少し寂しげな声がした。そうだなと呟いた声はささやかすぎて聞こえたかは定かではない。
季節外れの蝶には気づかず、人々は淡々と青に変わるのを待つばかりだ。
しばらくして動き出す雑踏。がやがやと押し寄せあう波ができあがる。

(あ、)

白が飲み込まれた。行方が知れない。蝶の末路を知るのが怖い。
足が縫い付けたように動かせない。
ドン、と肩がぶつかり名も知らぬ歩行者の顔を歪ませた。すみません、足が動かないんです。綾時が大丈夫?と心配そうな声を出すから「大丈夫、平気」と返した。歩行者は怪訝な顔をしながら歩いて行った。
歩行者の向かうその先、音の渦に目を凝らした。一瞬、地上の僅か上を舞う白が足の下に隠れたのが見えた。

蝶は死んだだろうか。
すがりつくようにマフラーを握った。綾時はマフラーに神経が通っているんじゃないかと思うくらい瞬時に反応し、しかし緩慢に顔を向けると、怖いかい?と聞いてくる。
こくりと首を動かした。じゃあ一緒に見に行こうと提案された。言わなくてもそのつもりだったから、もう一度マフラーを握り直して視線を前に向ける。見えたのは蠢く塊だけだった。

また赤になる。雑踏が終わる。白がない。汗が背筋を伝う。
青になる。群に紛れて、渡って、足元を見て

(―あ)

白が、蝶が、地面に磔にされていた。
ボロボロと崩れた羽の先端を辿る。数センチ先に欠片がこぼれていた。
生存を期待した思いはあてもなく散った。強張った僕の体を抱きとめた綾時の腕が無ければそのまま崩れていたかも知れない(たかが蝶の死に)
死んでなければなんだというのか。自分も生き長らえるとでも思ったのか。

潰されちゃったね、と彼の空気が悲しそうに揺らいだ。殺されちゃったねと言わない彼の人への優しさが辛かった。
安らぐ腕の中でゆっくりと息を吐く。誰も知らない一匹の蝶の死。低空飛行で地面を渡り、落ちて人の足の下でひしゃげて死んだ。誰も知ることなく、ひっそりと死ぬはずだった蝶。
僕が、僕だけが、ソレを見ていた。
蝶の死は僕の記憶と地面に張りついて、僕の中に残酷な事実を伴って残った。

「存在も、全部消せる死なんてないのかもしれない」

蝶の死を真摯に悼む暇もなく、僕は叶わぬ願いに絶望した。僕もこの蝶と同じく、誰かに死を見られ、図らずも存在を誇示して消えていくのかと思うと吐き気がする。
彼の存在を確かめるように強く強くマフラーを握った。確かに彼は存在している。僕だけは彼のことを知ってる。僕だけが蝶の死を知っているように。
ただ彼は蝶のように微かな跡を残してはいない。僕に知覚されることで存在している彼は、僕が消えれば死ぬのだろうか。完全に消えるのだろうか。

「僕が死んで、それでみんなが悲しむのは、嫌なんだ」

どうしたって、僕のいた痕跡は残ってしまうようだった。だから彼のように消える方法を教えてくれと訴えた。
自分でも泣くんじゃないかと思うくらい声が震えていた。幸い涙は流れなかった。
彼は首を振るだけだった。

「僕なんて、最初からいなかったって、そんな終わりで構わないのに」

そうすればハッピーエンドは完成する。誰も泣かないエンディング。僕はひとり綾時の元へ。それだけで幸せ。
綾時が何か言っていた。ノイズがひどい。うるさい。耳を取り巻く不協和音が煩わしい。
眉間に皺を寄せているとすぐ近くに綾時の顔が見えた。唇がなだめるように額に触れる。それは違うと言われた気がした。哀しいキスだった。

音の波は連続的に続いている。
「もう離せ、苦しい」
綾時が音もなく笑い、遠くからは順平の声がした。こちらまで走ってくるのがわかる。
雑音の中で、順平の声はよく聞こえた。
綾時がまた何か言っていた。

順平が駆けて、近くまで足を動かして、ちょうど綾時の反対側で止まる。やぁと綾時が手をあげた。楽しそうな笑顔がいつも通り憎たらしい。
視界の隅では地面の蝶がもう一度踏まれて裂かれていた。再び白が広がった。
蝶は死して尚、存在をアスファルトにこびりつかせて。


「なぁ、お前、」


ゆっくりと動く口。脳が自動でスロー再生に変換する。
(やめてききたくない)


「ひとりでなにしてんだ?」


ぱきりと視界がひび割れて、何かが死んだ音がした。
ゴッと津波のように押し寄せる音。耳が犯された。雑音が急にリアリティを帯びた。すべての音を拾う耳で、綾時の声が聴こえない。繰り返す順平の声。ひとりで。ひとりで。綾時はやぁと手をあげて、それから。
アスファルトには相変わらずの白。隣には誰もおらず、始めからなにもいなかった。
握っていたマフラーは、ずっと自分の首を絞めていた。



(彼は世界に一片も残らず消えた。それがひどくうらやましい)

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -