雨特有の匂いが嗅覚を支配する。なにもない空間に、ぽつりぽつりと雨が降っていた。湿り気を帯びる髪。不快な湿気。水は墜落し、拡散する。
目の前の青い空気を纏う少年は、ぼうと曇り空のような灰色の瞳をこちらに向けて、時々何かを慈しむように目を細めた。
「次は君の番」
雨の音すら吸い込む世界で、彼の声はいやによく響いた。
「僕にできなかったこと、君にはできるよ」
ぼやける輪郭は、雨のせいなのか別の理由なのかはわからない。
別の理由という選択肢が出た時点でもうとっくにわかっているのかもしれないけれど。
「あなたはいないの?」
「僕はいらないの」
すべてを諦めたような笑みに何故だか涙がこぼれた。次には謝罪の言葉が口をついて溢れ出す。ごめんなさいと私は言う。ぽつりぽつりと落とされる。
なにがごめんなさいなものか、その口で。私は、私は、
「謝らないで」
「ごめんなさい」
「酷いね」
彼の感情を伴わない瞳が恐ろしい。その灰色の瞳で私をどうと見るのか知るのが恐くて彼を見れない。彼の真実がわからない。でも彼は確かにそこにいる。私に罪悪感をまとわりつかせながら、この白とも黒ともつかない世界に存在している。
「僕はいないけど」
「うん」
「そこは、とても、居心地がいい」
彼は私を通して世界を見ていた。
やっと感情が灯った瞳には幸福な色しか映っていない。
「ごめんなさい」
これから私は、その彼のすべてを奪い呼吸を始めるのだろう。謝罪などは気休めでしかないというのに、ただ謝った。
そうすることでしかふらつく足を支えることができなかった。
「最後に言葉を贈ろうか」
告げられた其れには、感情の起伏が見当たらない。
できることなら私を突き飛ばして欲しい。私は悲劇のヒロインにでもなりたいのだろうか。笑える夢を持ったものである。だが、私を突き落とす言葉のほうが仮初めの祝福を受けるよりもずっと気が楽なのは確かだった。優しい彼はきっと欲しい言葉をくれる。私のために言いたくもない残酷な言葉を吐く。そのことすら私に罪悪感を与えるというのに。
彼の口角が歪に持ち上げられた。歪みが走った綺麗な顔はこうも美しいものなのかと脆弱な頭の片隅で思う。
「僕の場所をあげる」
彼の頬にひとつ、雨粒が落ちた。
それが唯一の、彼なりの抵抗だった。彼は私の欲しい残酷な言葉などくれはしない。ごめんなさい。ごめんなさい。貴方から全部取ったのに、まだ何か欲しいなどなんとおこがましいことを。ごめんなさい。ごめんなさい。
どちらにせよ私には優しい彼への罪悪感しか生まれないのだ。
私は涙を流しながら、霧散する彼を見送った。
気づいた時には私は築かれた礎の上で日の光を浴びていた。
雨で霞がかった場所は遥か彼方へ消えたらしい。
礎の彼は、もう何も言わない。