今日は、厄日だ。
いつも使っている原付は常に潮風を受けているせいか、確かにオンボロで、エンジンが掛かるまでに時間がかかる。それでも、何度かトライすれば掛かる。しかし、今日に限って、ヤツはだんまりを決め込んでいた。
仕方がない。ふぅ、とため息をついた後、彼女は出前箱を担いで走り出した。
彼女、キサラギ・コウは、レストランを経営している。辺鄙な場所にあるためから店の経営は常に火の車であるが、こうして出前を頼んでくれる常連たちのおかげで、なんとか首の皮一枚で繋がっているのだ。
ここから、出前を届ける先のホテルまでは原付を走らせれば5分、自分自身を走らせれば、15分くらいで着く。
ああ、原付なら三分の一の時間で済んだのになぁ。恨み言を心中で呟きながら、彼女は路地裏を走り抜けていった。
そんな時だった。
今まで蹴ってきたアスファルトよりは柔らかい感触を、足の裏が感知した。そして、今までアスファルトがあげてきた音とは違う、ぐぇ、っと言う音も同時に聴覚した。二つの不可解な感覚によって反射的に足が引き、出前箱も地に置かれた。
間違いない、あの感触は。コウは、そのまま腰をかがめた。
「すみません、大丈夫ですか?」
黒い物体はうつ伏せになっているが、顔だけは横に向いていた。そして、自分が屈んだすぐ下にその頭があったので、耳の近くで謝罪を述べた。
弱々しく、あぁ、と発された声で、彼女は胸を撫で下ろした。
彼は、目こそ開いてはいるが、全く動く気配を見せなかった。
「あの、救急車、呼びますか?」
その問いかけに対して、少しではあったが、首を横に振っている様子を確認した。
それならば、自分に出来ることは何もないだろう。
そう判断した後、コウは、少しだけ彼を観察することに決めた。
横顔から判断すると、正体は若い男のようだった。短い黒髪に、シャープな顔立ち、それを覆う眼鏡の3つの要素から、知性的な印象を受ける。
しかし、彼の背中にくっきりと残った足跡が、それらを打ち消していた。
さて、いつまでも観察をしていてはいけない。悪いことをしたとは思うけれど、目を覚まさない以上はどうしようもない。
そろそろ出前を届けに行かなくては。そして、届けた帰りに、医者でも呼んでこよう。
そう思い立ち、屈めた腰を戻そうとした時、ズズズッ、と奇妙な音が響いた。