一般家庭で使うような大きさの冷蔵庫が、キッチンの隅に置いてある。この中に、レストランで提供する料理に使う食材を入れてあるのだ。何を用意しようか、と悩みながら、彼女は冷蔵庫を開けた。そこに入っている食材は、少なかった。肉類は鶏もも肉が2枚のみ。野菜に至っては、片手に収まってしまうほどの大きさにまで減ったキャベツと、それと同じくらいの大きさのタマネギが1玉、モヤシが1袋だけだ。
今日は定休日だが、明日からはまた店を開かなければならない。彼とのランチを済ませてから、やるべき予定が1つ入ってしまった。財布の中身を思い出しながら、彼女はその材料を全て取り出した。

クロロは、調理場に居る彼女を観察していた。この店には、暇を潰すものが皆無に近かったためである。ガス台に、二つの鍋が並べられている。一つは平たくて丸い、よく目にする形状のフライパンで、もう一つは中華鍋だ。彼女はフライパンに蓋をした後で、中華鍋を豪快に振り始めた。彼女の細腕に、大きな中華鍋。何ともミスマッチな組み合わせだ。そう彼は感じた。

彼女が席から離れてから10分ほど経った頃に、中くらいの大きさの皿4つと、茶碗2つを乗せたお盆を持って、彼女は席へと戻ってきた。

「照り焼きチキンと、中華風の野菜炒めです。あと、ライスです」

コトン、と音を立てて、彼の前に3つの食器とナイフとフォークが並べられた。コーヒーには合わなそうな料理だ。そう彼が思っていた矢先に、一度キッチンへと帰っていった彼女が、湯呑み2つと大きめの急須を持って再び戻ってきた。クロロは、手元にあったコーヒーを飲み干してから、彼女にコーヒーカップを渡した。コーヒーと入れ替わりに、緑茶が料理のラインナップに加えられた。

「いただきます」

席についた彼女が、両手を合わせてそう言うと、彼女の目の前に居る彼が怪訝そうに彼女を見つめた。ジャポンでは食事の前にこう言うんですよ。そう説明をすると、聞いたことはあるけど、実際に見た初めてなんだ、と答えが返ってきた。確かにここはジャポンではないし、そうであっても不思議ではない。

彼は、用意されたナイフとフォークで、チキンを切った。切った瞬間に、肉汁が溢れ出た。切ったそれを、チキンの周りにある池へと浸し、それから口へと運んだ。単純な調理法の料理だが、美味しい。お洒落なフレンチのような上品な味ではないが、食材が一番美味しくなるような調理をしている。そう断言出来るような出来上がりだった。


「ランチョンテクニックだね」

彼がそう切り出したのは、互いに料理を半分ほど食べたときだった。

「え?」
「知らない?政治家がよく用いるものなんだけど」
「ランチョン、ってことは、お昼ご飯ってことですよね。私のごはんのテクニック、ですか?」

首を傾げた彼女に、彼は苦笑した。

「違うよ。ご飯を食べながら政治上の交渉をすることで、交渉が成立しやすくなるってこと」
「じゃあつまり、今の私にはもってこいってことですね」
「そういうこと。まぁ、ネタバレしてるから、意味ないと思うけど」
「そうですか、残念」

落胆した彼女は、その感情を晴らすかのように、少し強めにチキンを刺した。

「でも、ランチョンテクニックを知っていても知らなくても、お兄さんには通用しなさそうですよね」
「だと思うよ」

そう言い切る彼に、ですよね、と彼女は返した。彼の皿を見ると、既に全ての食器が空になっていた。後を追うように彼女も、最後の一口となったご飯を飲み込んだ。

「なんか、手のひらの上で転がされるって感じですよね。10回の内、どうにか一度くらい、お兄さんに一杯食わせてみたいです」
「もう食わせられたけど?」
「ご飯の話じゃないです」

呆れた様子で彼女がそう言うと、ははっ、と彼が笑い声をあげた。端正な顔立ちから、くしゃりとした笑みが放たれる。そのギャップに、彼女の心臓が一瞬跳ねた。
ばくばくとうるさい心音から逃げるように、彼女は彼から視線を逸らした。視界に入ってきたのは、やはり時計だった。彼が来てからもう、90分くらい経過している。その事実に気がついて、彼女は、あ、と小さく声を上げた。

「そうだ。ジョージさんは1時間くらい居れば良いって言ってたので、もし用事があったら帰っちゃっていいですよ」
「そうなんだ。じゃ、そろそろ帰ろうかな」
「私も買い物があるんで、そろそろ解散で」
「分かった。じゃ、また」

そう告げて、彼は椅子にかけていたジャケットを羽織った。入り口のドアを開けてから、彼は一度彼女の方へ振り返った。そして、開いた手で彼女に向けて手を2、3度振った。反射的に彼女が手を振り返すと、そのまま扉を押さえていた手を離した。パタン、という音が店内に響いた。そして訪れた静寂の中、彼女は机に突っ伏した。ああ、心臓がうるさい。彼女の体内には、まだ静寂が訪れそうになかった。


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