茉莉さんに、こんな顔をさせたかったんじゃない。俺は、こんな情けない俺を、見られたくなかったのだ。弱い男だと落胆されたくなかった。心配を、かけたくなかった。でも、本当は。
徳川は、少し彼女の方に体を移動してから、茉莉の手を引いた。少しバランスを崩した彼女は、徳川の胸のあたりに顔をぶつける。徳川が、彼女の腰に手を回し、逃さないようにした。そのとき、彼女は状況をようやく把握した。自分は、彼に抱き締められている。
徳川くん。そう彼の名前を呼ぼうとしたとき、彼の声が、彼女の耳のあたりから発せられた。
「俺は、一番じゃなかったんです」
彼女は、ただ彼の言葉を待った。
「俺はずっと、自分が一番強いと思っていました」
私もそう思う。だって徳川くんは、いつも勝ってたから。心の中で、彼女は彼の発言を肯定した。
「国内に相手になるヤツは居ない。そう思っていました」
腰に回された彼の手の先が、圧力を持った。彼は、ぎゅっと拳を作っていた。
「でも、現実は違った。合宿が始まってすぐ、Uー17合宿に参加する資格を得るために、試合が行われました。俺は、負けました。1ポイントも取れずに」
彼女は、その事実にただ驚いた。徳川が負けた。それは、彼女の知る徳川とは、結びつかない展開だった。
「俺は、浅はかでした」
彼は、自らを嘲笑した。
「しかし、参加資格を失った者にも、チャンスが与えられました。なんとかそれをクリアして、俺はこの合宿の参加資格を得ました」
「先日、最初に俺に勝った相手と再び試合を行いました。1ゲームしか取れず、結果は同じでした。一番になることが、ひどく遠いんです」
「俺のこんな所を、茉莉さんに見せたくなかったんです。聞いていただいて、ありがとうございます。茉莉さんには、情けないところを見せてばかり、ですね」
彼は、ふぅ、と深くため息をついた。本当は、誰かに聞いて欲しかったのだろう。そうでなければ、こうやって縋りついて、吐露したりはしない。ああ、彼女の優しさに、甘えてしまった。彼は、彼女を解放して、謝ろうとした。しかし、その前に、彼女が徳川のジャージの腰のあたりを、ぎゅっと握った。
「情けなくなんてない。やっぱり、徳川くんって、凄い」
今まで溜めていた言葉を吐き出すかのように、少し大きな声で、彼女はそう言い切った。
「そんなことは」
徳川の否定を、彼女は打ち消した。
「だって、進んでるじゃない?」
「進んでる?」
徳川は、首を傾げた。そしてようやく、彼女の目をじっと見た。彼女も、徳川を見据える。そしてそのまま、言葉を紡いだ。
「合宿への参加資格がなくなったのに、努力して参加資格をまた得た。1ゲームも取れなかった人とまた試合をして、1ゲームを奪った。どんどん近付いてる」
「徳川くんなら、一番に届くよ。時間が掛かったって、最後に勝てば問題ない」
「徳川くんがテニスを続ける限り、可能性は0じゃない。徳川くんは、その可能性をどんどん大きく出来る人なんだよ。私は、そう思ってる」
彼女は、ふわりと微笑んだ。
「茉莉さん」
「は、はい」
「有難うございます」
彼は、柔らかく笑んだ。それを見た彼女の心臓は、バクバクと心拍数を増した。
「もう少し、こうしていても、いいですか?」
彼のあの笑みを見てから、何だか上手く言葉が発せない。彼女はただ、こくりと頷いた。
彼の顔が、自分の正面から横へと移動する。その場所で、ありがとうございます、と礼が述べられた。その声色は、喜を少し配合していた。
ああ、どうしよう、恥ずかしい。けど、自分という存在を突っぱねないでくれた。少しは必要とされているんだ。それが分かったから、凄く嬉しい。抱き締められて、全身が熱い。でも、徳川くんの体温と鼓動が心地いいから、離れたくない。そんなことを思いながら、彼女は彼のジャージをまたぎゅっと握る。
徳川は、彼女の肩に頭を埋めた。彼女の肩が小さく跳ねた。もう秋なのに、今日は少し汗ばむような陽気だった。そのため、彼女は薄い生地の服を着てこの場へとやって来た。その服の上から、彼の唇が当たる。彼の熱が、伝わってくる。直接キスをされているようなその感覚が、くすぐったく感じられた。
ああ、ただでさえ暑い気候の中なのに、これ以上徳川くんを暑苦しくさせるなんてイヤだ。せめて、自分のこの高い熱を引かせなければ。そう思って緊張を解こうとした瞬間、きゅう、と音が鳴った。
「茉莉、さん?」
その音源は、茉莉のお腹のあたりからであった。
「あ、朝早かったから、朝ご飯抜いてきちゃって、ね…」
現在時刻は、もう12時になろうとしている頃であった。
朝ご飯を抜いてきた彼女の胃が、昼の到来と知らせていた。彼の肩が震えている。その振動が、彼のすぐ近くにいる彼女にも、伝わった。ああ、もう穴があったら入りたい。彼女は、心中で半べそをかいた。
そして、彼の体が、彼女から離れた。
「食堂に、行きましょうか。あそこは、外部の人も利用出来るそうですよ」
「ほ、本当に?」
彼は部屋を出る支度を始めた。支度を手早く済ませてから、案内します、と言って、彼女の方をちらりと見た。彼女は、徳川の横を歩いた。彼は彼女の方を、目を細めて見つめる。まだツボに入ってるのか、と判断した彼女は、彼の腰のあたりに小さく手刀を入れた。その笑みに内包された感情を、彼女は知らない。
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