「そうだ。キミ、チョコは食べられる?」
そう優しく問う彼に、彼女は笑顔を向けた。
「はい、好きです。なので、レンさんが作ったもの、ちゃんと私が食べますよ」
それはよかった。そう漏らし、彼も安堵の表情を浮かべた。
実は、彼はあまりチョコレートが好きではない。それゆえ、チョコレートで固めたそれらも食べる事も、あまり好まない。
しかし、好きではないからこそ、周りが気を遣って用意する事のなかったチョコレートフォンデュに、興味を示したのだった。
「それじゃ、ここにあるものはチョコを付けてもいいってことかな?」
機械の横にある、フルーツの盛り合わせに一度視線を送った後で、彼は彼女に向かってそう問う。一口大にカットされているバナナ、ヘタが取られたイチゴ。それらは既にチョコフォンデュとして用いられるように、準備がなされていた。
「はい、どうぞ」
彼女は、頭を縦に振った。
盛り合わせの側には、フォークが二つ置かれていた。機械はメンバーの声を添えて、チョコを噴出し続けている。
レンはまず、バナナをフォークに差し、それをチョコに浸した。くるりと回し、全体にチョコを付ける。そしてチョコの雨からバナナを離した。たっぷりと付いたチョコは、室温が低い訳ではないこの室内では、なかなか固まらないようだ。チョコはポタリと机に垂れた。
「直ぐに口に運ばないと、こぼれちゃいますね」
「そうだね。はい、レディ」
彼は、バナナを彼女に渡す。
彼女は笑顔で、それを受け取った。
「ありがとうございます」
いただきます、と呟いて、そのバナナを口の中に運んだ。
「うん、やっぱりここのチョコは美味しいです」
「ここの?」
「はい。私が一番好きなメーカーのチョコを使っているんです。結構高いんですよ」
「そうなんだ」
そして彼は、もう一つのフォークを用いて、今度はイチゴを刺そうとした。しかし、彼はその手を離し、顎に手を宛て、うーんと小さく唸った。何かを考えているようだ。
部屋の中には、彼の仲間の声だけが響いていた。
彼女は首を傾げた。もしかしたら、このサプライズがあまり気に入らなかったのかもしれない。そんな一抹の不安を抱えながら、彼が言葉を発するのを待った。
「俺も、食べてみようかな」
しかし、彼が発した言葉は、彼女の不安を簡単に吹き飛ばす物であった。
「チョコは苦手だから、食べられないって、言ってましたよね。大丈夫なんですか?」
「このチョコは美味しいんだって言ってただろう?だから、興味が湧いてね。それに、苦手だけど、食べられないって訳じゃないんだ」
俺が好きなキミの、好きなものだから、気になるんだ。
まっすぐに彼女の目を見てそう言う彼に、彼女は赤面した。好きだと言われることには、なかなか慣れることはない。真っ直ぐにぶつけられる好意は、なんだかくすぐったい。彼女は、両頬に手を当てた。
彼女が彼から目をそらし、下を向いた瞬間、彼は直ぐにまたイチゴをチョコレートでコーティングした。
しかし彼は、それを自分の口には運ばなかった。
チョコで浸されたそれを、彼女の首もあたりへと持っていった。
「レンさ、ん」
彼の不審な行動に彼女が気が付いたのは、彼女の首とイチゴの距離がほんの数センチとなった時であった。
首筋にイチゴがあてられた瞬間、彼女は息を飲み込んだ。
彼ははイチゴで、つつつ、と彼女の首筋をさすった。彼女の体がぶるりと震えた。
そして反射的に、彼女はさすられた箇所を自身の手でなぞってしまった。まだ固まっていないチョコレートが、彼女の首筋から手へと少し伝染した。
「手、汚れちゃったね」
彼女の手を優しく取り、チョコのついた彼女の指に彼は舌を這わせた。ぴちゃ、と物音を立てて舐める彼の表情は、ひどく扇情的であった。
指に付いたチョコを舐め終わった彼は、彼女の腕を解放し、クスリと笑った。彼女はその瞬間になってやっと、自分が彼に見とれていたことを自覚した。
「何で、私にチョコを付けてるんですか」
彼女は語気を強めて、そう彼女は抗議した。
官能的な彼の行動に、内心で彼女は焦っていた。
彼と彼女は、いわゆる体の関係にまではまだ至っていない。彼女には、性行為の経験はなく、頑なにそれを拒んできたからであった。つまり、こう言った行為にも慣れていないということである。
羞恥心に駆られた彼女は、どうにかこの行為の中止に向けて、そう反論を始めたのだ。
しかし、慣れていない刺激で、彼女の瞳は液体を分泌してしまったらしい。彼女の瞳は、湿度が高くなっていた。
潤んだ瞳での威嚇は、効果を為さない。寧ろそれは、征服欲を駆り立てる効果を持つ。
しかし彼は、そんな内心を隠したまま、冷静を保った。
「だって、ここにあるものは、チョコをつけてもいいんだろう?キミも、ここに居るだろう?」
バナナは皮を剥かれ、イチゴはヘタを取られている。本来の姿とは違った姿で、ここにある。いつもはここまで露出をしない彼女も、まるでそれらのフルーツのようだ。そんなことを考えていた彼は、このイタズラを思いついたのだった。
彼女は、自分の言葉を振り返った。確かに、彼の示したままの言葉を彼に発した。しかし、彼は拡大解釈をしている。
「ここ、の範囲は、そのお皿の中にあるフルーツの話です」
彼女がしどろもどろにそう言うと、彼はまた妖艶な笑みを浮かべた。だから、キミもそのフルーツの一員なんだよ。その言葉は飲み込み、彼は淡々と主張をする。
「今更、そんな言い訳は聞かないよ。一度交渉で失敗をしたら、取引の世界ではアウトだろう?抽象的なコトバを用いたキミの負けだよ、レディ」
正論であった。しかし、それでも腑に落ちないことは、複数存在した。
「でも、食べ物を粗末に扱うなんて」
食べ物はあくまでも食べる物だ。こうして人の首に擦り付けて、反応を楽しむなんて用法は、間違っている。
彼女は再度反論をした。
「じゃあ、ちゃんと舐め取ればいいってことかな」
これを。そう言って彼は、チョコでコーティングされている箇所は避けて、彼女の首筋を指でなぞった。
ふぁ、と、彼女の口から、可愛い吐息が漏れた。
「俺は、無駄にするつもりなんてないよ。美味しく頂ける方法で、食べているだけさ」
だから、問題はないよ。そう言って彼はウインクをした。
ならば、最終手段に出るまでだ。流石に、自分がイヤだと言えば、彼は折れてくれるはず。
そして彼女は、勝負に出た。
「レンさんは、紳士でしょう?女性がイヤがることは、しませんよね?」
そう問いかければ、イエスと答えるしかないはずだ。そして、女性の一員である私が、恥ずかしいからやめてほしい
、と訴えれば、行為を続行することは発言との矛盾を生むこととなる。
そんな彼女の読みを、彼は即座に理解した。
ああ、頭の回転の速い彼女が相手じゃ、きっとこのまま堂々巡りをしてしまう。彼は、早々に切り上げようと決意をした。
「確かに、それはそうだね。それに、キミがイヤがるようなことはしたくない」
彼がようやく主張を認めた事で、彼女は少し気を緩めた。
彼女は、彼が自分の後頭部を撫でていることに、大して気を配らずにいた。
「じゃあ、こんな事は」
やめてくれますよね。そう彼女が発しようとした時、彼は彼女の頭を、自分の方へと引き寄せた。
「だから、キミがイヤがらないように、してあげるよ。ね、葵」
耳元で彼女の名前を呼んだ後で、彼は、彼女の唇を塞いだ。それ以上の反論の余地は与えないと示すかのように、深く、長く、塞ぐ。
うまく空気を吸えずにいる彼女が、彼の胸を叩いて、限界を訴えると、彼は彼女の唇を解放した。彼女は、乱れた息を整えていた。
その隙に彼は、まずは彼女の頬にキスを落とした。その後で、先ほど彼女がチョコをなぞった名残のある首筋に、舌を這わせた。固まったチョコレートを、彼の舌は丁寧になめとってゆく。舐め取れない箇所には、小さく吸い付いた。
彼の髪が、舌が、彼女の首を直接的にくすぐる。そして何故か、間接的に彼女の心臓のあたりもくすぐるのだ。この正体が羞恥心と彼への愛おしさであることを彼女は痛感していた。
その一連の行動を、くすぐったい、と声に出して彼女は訴えた。すると、彼は顔を上げて、彼女に笑いかけた。しかし、やめる気など更々ないようだ。彼はまた首筋に顔を埋めた。
彼が楽しそうに、幸せそうに笑うから、仕方がない。
かなわないと実感した彼女は、彼に降伏をした。
彼と私の幸せに、屈してしまおう。
あなたのそういうところも、好きです。彼女はそう降伏宣言を読み上げた。俺は、キミの全てを愛してるよ、葵。彼は、そう返答を寄せた。
そうして彼女の降伏宣言は、幸福宣言へと一変したのであった。
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