木の柔らかい匂いが、この広い家の中で薫っている。藤川さんというお爺さんに案内されるがまま、私はこの家の中のある箇所へと向かっていた。呼び出しを受けたためである。

長い長い廊下を歩かされてはいるが、私は全く苦痛を感じていなかった。この家の中にある上品な装飾品や、立派な日本庭園を見ていると、美術館に来ているような気分になるからだ。次は何が現れるのか。楽しみながら歩いていると、いつの間にか目的地に着いていたようだ。前を歩いていた藤川さんの足が、歩みを止めた。

「ぼっちゃまはこちらにおります。私はドアの前におりますので、何かございましたらお申し付けを」
「はい、ありがとうございます」

私が引き戸に手を掛けた時、藤川さんが赤松殿、と私の名を呼んだ。

「今回の件、誠に申し訳ござらん」

彼は頭を下げた。私は、引き戸に掛けた手を戻し、彼の頭の高さでゆっくりと横に振った。

「あなたからの謝罪は必要ありませんよ。本人からきっと得られるでしょうから」

それに、私は彼を強く非難するつもりはありません。顔を上げた彼にそう告げて微笑むと、彼は表情を緩めた。なるほど、この部屋にて私と会う予定の人物は愛されているようだ。
そんな事実を確認した所で、私はその人物に会うべく、引き戸をゆっくりとスライドさせた。和を感じさせる外観とは全く雰囲気が異なり、そこは洋室であった。きっと万人に対応が出来るように、あらゆる応接間が設けられているのだろう。ここは10畳くらいの大きさで、小さなテーブルと細々とした装飾品が置かれている。そして、テーブルを挟み込むように、小さなソファーが2つ置かれていた。

もうその人物は、部屋にいた。
ソファーに座らず、テーブルの横に立っている。

彼がこちらへ視線を向けたので、私は会釈をしようとした。しかし、それよりも先に、その人物が上半身を100度に曲げたため、私は思わず目を見開いた。

「申し訳、ありませんでした」

私を呼び出したこの人物の名は、聖川真斗という。日本の二大財閥の一つである聖川家の、嫡男。そんな彼が、彼より下の階級にある私に向かって頭を下げている。

まさか、初めて会う相手に対して、いきなりこのような行動に出られるとは思っていなかった。
何とも居た堪れないような、逃げ出したいような気持ちを押さえながら、私はその衝動に耐え、ただ頬をかいた。

「初めましてより先に、それを言われるんですか。聖川サマ」

そう言うと、あ、と声を漏らし、彼は顔をあげた。
そう、私と彼はこれが初の対面なのだ。

「気にしなくていいですよ、ただの感想ですから。それと、聖川財閥の嫡男であるあなたが、私に敬語なんて使う必要はありません。言葉を崩して頂けませんか?」

笑ってそう言うと、彼は少し困ったような表情を浮かべた。

「あ、ああ。そう言うのなら」

もう頭は下げないで下さいね、と言うと、彼は背筋をピンと伸ばした。

「とりあえず、立ち話もなんですから、座りませんか?」

来客者の身でこう申し出るのは差し出がましいかと思ったが、このままでは彼は土下座すらしかねない。そんな心臓に悪いことを避けるためにも、私はそう提案した。彼はそれを快諾した。そうして私たちは、互いに向かい合うようにしてソファーに腰をかけた。

「初めまして、赤松葵です」

「聖川真斗、だ。初めまして」

私は、赤松グループの本社の社長の一人娘である。いわゆる社長令嬢だ。今は赤松本社の経営戦略を主に担当している。CIOと呼ばれる立場である。
赤松グループは社会的に見たら大きな固まりではあるけれど、彼が継ぐであろう聖川財閥という大きな固まりの本社と比較をすれば、月とスッポンという言葉が相応しい身分だ。言うまでもないけれど、聖川財閥が月で、我がグループがスッポンである。

そんな身分の違いがあるにも関わらず、彼が私に頭を下げたのには理由がある。


「では、話の続きを。婚約の破棄の件ですが、婚約と呼んではいましたが、実際はまだ婚約の前段階でした。」

そう、私は彼と婚約をしていた。彼の同意はなかったけど、彼の親とはもう話をつけ、話を進めていたのだ。

しかし彼は、去年になっていきなり、家を継ぐ前にやりたい事があると言いだし、ある学園を受験し、入学をしたそうだ。
その学園はアイドルを養成するための学校であり、入学してから1年後に行われる卒業オーディションにて優勝又は優秀な成績をおさめると、あの一流義務所、シャイニング事務所への配属が決まるというシステムらしい。そしてその後にアイドルとして活動することができるという。
彼は見事に卒業オーディションで優勝をし、アイドルになる夢を叶えたのである。

アイドルには、恋愛や結婚は御法度である。そのため、私との婚約の存在はアイドルの性質上、障害となってしまうのだ。そのため、今回、婚約を破棄せざるをえなくなったのである。

これまで私は、彼という人間の内心を全く知らなかった。私たちは婚約をする前もした後も、会ったことがなかったためである。
一週間前、唐突に、聖川サマのお付き役である藤川さんから、婚約を破棄してほしいと言われ、事情と説明された時に、彼がアイドルになりたいと思っていたこと、そしてその夢の第一歩を掴んだという事を初めて知った。彼について私が知っていたことは、メディアを通して見た容姿と、彼の身分くらいであった。一般人の持つ情報と大差はなかった。

婚約とは言え、これは契約である。将来に効力を現す契約を結ぶことが出来たからと言って、効力が現れるまで、契約がどのような状態にあるのかを確認せずに居た私にも過失がある。今回の婚約は、ただの契約とは性質が違っているのだから、厳重にチェックを行うべきであった。定期的に状況を把握しておくべきであったのである。

「私はもう婚姻ができる年ですが、あなたはまだ16才です。結婚が可能な年齢ではありませんから、特に責任を問うつもりはありません」

そう私が続けて言うと、彼は顔をしかめた。


「しかし、破棄の件が一部の間で広がり、赤松グループ全体で株価が一時かなり下がったと聞いた。何も責任を取らないという訳にはいかないだろう」

彼に非はないのに、どうしてこうも気にかけてくれるのか。現総裁とは全く違う性格の彼に、思わずくすりと笑みをこぼした。

彼は怪訝そうな表情を浮かべたけれど、私は気にせずに言葉を続けた。

「ええ、確かにそうです」

その言葉に、彼の表情が強張った。

そう、赤松社の娘であり、幹部でもある私が、聖川グループの嫡男と将来結婚をする。そのことにより、赤松社は莫大な資本によるバックアップを受け、将来また成長を遂げるだろう。そうしたトレーダーたちの読みが、近年の赤松社の株価の安定に繋がっていた。

そもそも私は婚約を公言した覚えはないのだが、婚約を結んだ当時、どうやら聖川財閥側の人間にスパイが居たようで、その情報をリークされてしまった。インターネット社会である現代である、婚約をしていたことは直ぐに周知の事実と化してしまっていた。

そのように婚約が周知の事実であった上で、今回、聖川サマがアイドルとなることが決まった。婚約者である彼がアイドルとして活動をすると決めた以上は、その活動に支障を来さないように、婚約は破棄されたとトレーダーたちに推定された。
その読みは当たっており、今回、こうして婚約破棄をすることとなった。後に破棄について聖川財閥の現総裁は公式見解を出す予定であるらしい。

そうして株価の急激な低下を招いたわけであるが、理由はそれだけではない。

そう、いきなり婚約破棄をされたことにより、経営の中枢に居る私が、何故それを予期できなかったのかも株主たちに問われることとなった。

彼がアイドルになりたがっていることを何故、婚約者の私が知らなかったのか。
そして婚約者が居るのに、何故聖川サマはアイドルを目指したのかと。
この二点から、私と聖川サマは意志の疎通をはかれていなかったことは明白となった。

そのため、私自身の判断力や人徳がなかったが故のこの結果ではないかという事で、私に対する不信感が募った。不信感が、これらの問題を引き起こした。

そうした二つの要因により、我が社の信頼は下がり、株価は一時期かなり下落し、莫大な損害を被った。


「でも、破棄が生じてしまった以上は、何かしらの問題は発生するものです。ですが、その損失はカバーの出来るものですから問題はありません。
申し訳ないと思われるのでしたら、私ではなく、我が社に利益を頂ければ嬉しいです。何かしらの契約をいい条件で数個呑んでいただいたり、ね」

私が今まで『彼には非はない』というフォローを一言も言わずに居たのは、彼に深い罪悪感を持たせる事で、この約束に同意をさせるためであった。

父親に反発をしていた以前までは、彼は少しも聖川の会社の経営には関わっていなかった。
しかし、今では少しずつ、経営に関わり始めている。そのため、彼を丸め込め、契約する意思を固めさせれば、ある程度、契約をこぎつける事も可能となった。

だからこそ、彼を利用する。

今回の破棄さえなければ、赤松家は聖川財閥に入り、半永久的に安定を謀れたはずだ。
今回の損失は実際は莫大なものであったが、その代償をこの程度で済ませるのは、勝手に婚約を結んでしまったことへの罪滅ぼしである。

「それは勿論、そうさせて頂く」

同意は得た。よし、ミッションは達成だ。左の掌を丸め、そのまま強く握った。

「聖川財閥とは、これからもお付き合いしてゆきたいと考えております。婚約は無くなってしまいましたが、是非、違った形で未来を紡いでゆけたらと思います」

「ありがとう」

それらしい言葉を吐き出すと、彼は嬉しそうに笑った。ありがとうはこちらの台詞だというのに。


「それと聖川サマは、先日、デビューシングルの制作が決まったそうですね。おめでとうございます」

手を小さく叩き、ふと思い出したかのような動作を示してやると、彼は頭をかいた。

「はい。先日は、作曲のためのソフトを送って頂いてありがとうございました。そちらが素晴らしい作曲ソフトを提供してくれたおかげで、彼女は毎日楽しそうにパソコンに向かっています」

「彼女?」

聖川サマの周りに、女性など居ただろうか?記憶を漁るが、見つからない。

「作曲家の七海春歌の事です」

私の疑問を察した彼は、解答を示した。

「ああ、七海さん。彼女の作る音楽は素晴らしいですね。聴く度に、違った印象を受ける。深みのある、いい曲ばかりです」

これは本音であった。前に一度聴いたが、本当に素晴らしい楽曲ばかりであった。

「ありがとうございます」

彼はまた笑った。
今度は、先ほどよりももっと柔らかく、心底嬉しそうに笑った。

他人を褒めることで、こんな風に笑うような方なのか。
私は正直、戸惑っていた。

確か3年ほど前だったか、遠目に彼を見た時は、こんな柔らかい印象を受けなかった。彼の父の言う通りに動き、彼には自発的な意思などない。ただのロボットのようだという印象を受けていた。
当時の私の推理は、たぶん間違ってはいない。彼の父が彼の婚約者を勝手に決め、その事実を彼が数年受け入れていたことがその証明である。

だからこそ私は、彼に婚約破棄をされる訳はないと思って、婚約を結んでいたのだ。

しかし、彼は家を継ぐ前にアイドルとして生きる事を決め、その道を歩き始めた。敷かれたレールを歩む人生を脱し、ある学園へと入学をしたのだ。このように、自己をしっかりと確立している人間になったのには、何らかのきっかけがあったに違いない。
話題が音楽の話に移行してから、彼の目は驚くほど輝くようになった事から察するに、音楽が、彼という人間を変えたのだろう。

ああなるほど。
流されていただけの彼を変えたのは、彼と音楽を共有する彼女なのかもしれない。

根拠はなかったが、それが正解であるように思われた。

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