我に還った時、私は会社の近くにある駅の前にいた。私はあまりメディアに露出をしないため、一般人は私のことなど知らない。それ故に、誰も私のことを気にも留めない。流れる人波の中に、私は埋もれていた。
ここはオフィス街であるため、ビルがただ立ち並んでいるだけである。無機質な雰囲気しかないはずなのに、何故かこの街の雰囲気は私の心をきゅうっと締め付けた。今の私にとって、「仕事」を思い出すという事は、私の失敗と向き合うということだからなのだろう。
ああ、ここに居ては、私が壊れてしまう。
そう判断した私は帽子を深く被り直し、駅に向かった。
その時、正面から、声がした。
「ねぇ、キミ。もしかして、赤松葵さん、じゃない?」
私は顔を上げた。そこに居たのは、明るい茶色の髪の青年だった。肩までの長さのある髪が、彼の上から降り注ぐ光に反射して輝いていた。
「神宮寺さんのところの、レンさん」
彼は、神宮寺レンという。私と同じように、彼も深く帽子を被っていた。それもそのはず、彼は、聖川サマと同じグループでつい最近デビューをしたアイドルなのだ。新人とは言えその人気は高く、とても素顔を晒して歩けるような身分ではない。
「こんなところで会うなんて思ってなかったよ。今日はどうしたんだい?」
「すこし、買い物に」
「いつもは人を付けているのに、珍しいね」
私は、唇を軽く噛んだ。その後で笑みを作り、それらしい言い訳を言おうとしたが、彼はそれを遮った。
「それに。キミの目の前には、神宮寺グループのデパートがある。ここにないものなんてないはずなのに、キミはわざわざ駅へと向かおうとしていた。一体キミは、何を求めているのかな?」
そう言って、彼は手をデパートの方へとかざした。オフィス街の中でひときわ目立つ外装のデパートが、私の視界に入ってきた。確か、ここは都内最大規模のものであると聞いたことがある。
「見つからないから、こうしてよそに向かっているんだと言ったら、どうします?」
私は何とか表情を作って、平生を装った。
「この場でレディに謝罪した上で、1時間以内に家までその品を持ってゆくよ。神宮寺グループの一員として、ね」
ああ、確かに彼らならば簡単に出来るだろう。ここ日本には、2大財閥と呼ばれるものがある。私が婚約をしていた聖川家と、今、目の前にいる彼のいる神宮寺家である。
そんな大きな固まりであり、十分すぎるほどの資本を持つ神宮寺グループなら、たった一つうまく行かないというだけで、振り回されることもないだろう。私みたいに惨めな思いをする事も、きっとないのだ。
不敵そうな笑みは、まるでそれを象徴しているかのようだった。そして私は、その笑みの中に、射抜くような鋭い視線を感じた。彼は、私の現状を把握しているのだろう。そしてきっと、心の中で私をあざ笑っているのだ。そう思うと、目頭が熱くなった。
「どこか」
「どこか?」
「遠くに、行き、たくて」
目が、溜まった熱を発散しようと努め始めた。レディ、と彼が呟いた。
「ごめ、なさ」
彼はお忍びの身なのに、こんな所で泣いてしまっては迷惑がかかる。そう分かってはいるが、緩んでしまった涙腺が戻る気配はない。ごめんなさい。私は、それしか言えなかった。
やれやれ、困ったな。彼はまた呟いた。この時間帯は、ちょうど通りかかる人の数が少ない。しかし、皆無ではない。通りかかる人たちが、私と彼を横目で見やる。立ち止まる人は居ないが、絶えず襲いかかる視線は、有名人である彼にとって、脅威以外の何物でもない。
私は、目を擦って、その場を去ろうとした。
前にいる彼の横をすり抜けようと、一歩踏み出した。しかし彼は、それを許さなかった。私の手首をきゅっと握った。
「遠くじゃなきゃ、いけないのかい?」
見つからなければ、何処でも。勝手に途切れてしまう声を、何とか繋げてそう伝えると、彼は私の手を口元まで掲げて、唇を手の甲に落とした。私は、それをただ見つめていた。
「キミは、違う環境を求めている。それなら、とびっきり違う環境を俺が用意してあげるよ」
そうして、彼は空いた手で携帯を取り出し、片手で器用にどこかに電話をかけた。ジョージ、駅まで来てくれるかい?そう伝えると、彼は胸ポケットから、綺麗なハンカチを取り出した。瞳から分泌される液体は、まだ止まりそうにない。
「泣いているキミもいいけど、やっぱり涙は拭わないとね」
彼は笑った。
「こんな事、される義理もメリットもないのに。どうして、ですか?」
彼の好意を拒んでいる訳ではない。ただ、理解が出来なかった。彼と私は、過去に数回話しただけの仲だ。そして、今、信頼が落ちている赤松社のCIOになど、近づくメリットはないはずだ。
「さぁ?どうしてかは分からないけれど、今は、人に優しくしたい気分なんだ。俺のワガママに、付き合ってくれないかい?レディ」
「ありがとう、ございます」
2分も経たない内に、駅に黒塗りの車が到着した。そして彼に誘導されるがまま、私はその車に乗り込んだ。
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