少年と少女が、土手沿いの道を、夕日の方向に向かって歩いていた。ここは、彼らがいつも通っている帰路であった。それぞれがテニスバッグを背にし、会話を弾ませている。
ここ最近、日が沈む時間が早くなった。夏という時期は、秋の到来を待たずに去ってしまったようだ。
では、生まれた空虚は、どんな存在が埋めるのだろうか?
彼は、そんな事をぼんやりと考えながら、隣に居る存在を見つめた。
歩む度に、緩く癖のついた彼女の髪が揺れる。
元来から色素の薄いそれは、陽の光を浴びると綺麗な光を放つ。それが朝日であれど夕日であれど、そのコントラストの美しさには変わりがなかった。髪の先までもが、彼女らしさを表現している。彼は、その光景を見る事が好きだった。
「精市?」
彼の視線に、彼女、河原 悠里は気づいた。
彼の名を呼ぶ彼女は、幸村よりも少し目線が高い。それもそのはずで、彼女は彼よりも5cmも身長が高い。
それでも、彼は彼女に身長の優位さを感じさせる事はなかった。
何?と優しく返すと、彼女は眉尻を下げた。
彼の行動には、明確な理由がない事が多々あった。彼女は長年の付き合いから、今回の行動もそれに当てはまるものだろうと察しをつけていた。
彼の名は、幸村精市と云う。
彼と彼女はいわゆる"お隣さん"で"幼なじみ"である。その言葉の持つイメージの通り、彼と彼女は仲がよかった。
それ故に、幼少期に、彼が始めた習い事を、彼女も同時期に習い始めるという流れも極自然であった。
そして、彼と彼女はテニスを始めた。
そうして彼らは、人生の大半をテニスを過ごしてきた。
この日は、神奈川県で行われる大きな大会の一つ、県ジュニアテニス選手会が行われていた。
「ジュニアテニス選手会、優勝おめでとう」
彼女ははにかんでから、ありがとう、と呟いた。
しかし、照れくささを解消する方法が見つからない。
そこで彼女は、彼にもそれを伝染させる事で、緩和させてしまおうと思いついた。
「全日本ジュニア優勝、おめでとう」
予想通り、彼もはにかんだ。
「それはもう聞いたよ」
彼が全日本ジュニアを制したのは、一週間前の事であった。
大会に出場していなかった彼女は、彼の試合の始まりから終わりまでを見守っていた。それ故に、誰よりも早く彼に祝福の言葉を届けていた。
「だって、一年間は有効でしょ?私と違って」
「確かにそうだね」
今日、彼女の出場した選手会は、春と秋の年二回行われる。それ故、優勝の効力は半年間となる。
それに対し、全日本ジュニア大会は、一年に一度しか行われない。
二つの大会に差の生まれる原因は、それが県内の大会であるか、対47都道府県の大会であるか、の点にある。
彼女と彼は、表彰台の同じ位置に立っていても、次元が全く違っていた。
それを、彼女は痛感していた。
その気持ちを晴らすべく、彼女は腕を上へと突き出し、伸びをした。
「でも、これで、本当の有終の美になったよ」
伸びを終えた彼女は、ただそう述べた。
「もう小学生じゃなくなるなんて、信じられないな」
しかし、彼女は、神奈川県内でNo.1のプレイヤー。そして自分は、全日本でNo.1のプレイヤー。この二人が、同じ中学のテニス部に入ることとなる。
きっと来年から3年間は一緒に、立海大付属中テニス部の名を日本に知らしめる事になるのだろう。
彼が、そうビジョンを描いていた矢先だった。
彼女が、ぽつりとこう漏らした。
「私さ、テニス、やめる事にした」
彼の足が、止まった。
彼女の足も、それに準じた。
彼女が、テニスをやめる。
彼は、一度もそんな可能性を考えた事はなかった。
彼女は、テニスを愛している。その事実は、まだ揺らいでいないはずなのだ。
「いきなりだね」
「うん」
「どうして?」
「テニスに飽きちゃった。私ももう中学生になるし、他に色々やってみたくって」
有終の美につけた"本当の"という強調語は、そういう意味だったのか。
「テニスをやめて、やりたい事でもあるのかい?」
「まだそこまでは考えてない。けど、フツーの事がしたい。テニス以外の事をね」
「うーん、困ったな。悠里が普通の女の子になるなんて、想像できないや」
そう言うと、彼女は少しだけ不機嫌そうな顔つきになった。
「精市なんて嫌い」
その口調から、本心でない事は明白であった。
彼女は素直ではない。彼はそれを知っていた。
「俺は好きだよ。悠里も、テニスも」
「私も。でももう、テニスは好きじゃない」
「残念だな」
なぁ、約束したじゃないか。彼はその言葉を飲み込んだ。
しかし、きっと彼女は約束を忘れてしまったのだろう。それは確か、随分昔の事であった。
「精市と、ずっと一緒にテニスをやっていたいな」
「俺も。悠里とのテニスは、楽しいからね」
「ずっとやってくれる?」
「もちろん」
今でも、あの時の彼女の表情と声が鮮明に脳裏に浮かぶ。しかし、約束とは言え、ただの口約束だ。約束をした事の立証は出来ない。
「俺は、ずっと一緒にやっていけるものだと思ってたよ」
彼女の顔が微かに歪んだ。
彼女とは長い付き合いであるから、彼女の考えている事は表情から読みとる事が出来る。
彼が表情から受信した彼女の感情は、彼の言葉に対する嫌悪感ではなく、罪悪感であった。
しかし、先の彼女の発言は、受信機器に影響を及ぼした。
それにより、受信機器に異常が出ている事は認めなければならない事実である。
彼は確証を得られなかった。ただ、胸の苦しさを抑えながら彼女に笑いかけると、彼女も笑った。
ついていたのは、帰路ではなく岐路であった。その事実を知った幸村は、嘲笑することしか出来なかった。