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中学生男子のテニスの全国大会は、3日前に終わった。今はそんな8月の下旬である。
まだ夏休みであったため、3年はまだ部活に顔を出していた。男子側のテニスコートからは、男子テニス部副部長の真田の怒鳴り声が聞こえてくる。
しかし、彼らを始めとする3年は、夏の終わりと共に、部を去らなくてはならない。彼らは男子テニス部を、彼女たちは女子テニス部を。
彼女たちと彼らは、部はたがえども、共に立海の看板を背負い、戦ってきた盟友である。
それ故、日常的に、男子部員が女子部員の先輩に挨拶をしたり、その逆の現象が起きたりする事がしばしばあったくらいである。
悠里も、よく後輩の男子部員に挨拶され、会話などもよくしていた。性別の区別があれど、女子の後輩も男子の後輩も共に可愛がっていたのだ。
こうして多くの部員に慕われてきた嬉しさは、近い将来、その反動として、大きな寂しさと化するのだろう。
そして、真田のこの声も、近い将来、聞けなくなるのだ。
そう、私たちも彼らも、このコートとは別れを告げなくてはならないのだから。
そう思うと、悠里の鼻の奥がつんと痛んだ。
──
そうして、部活を終え、沈んだ日を眺めながら、悠里は岐路についていた。
男子テニス部も部活を終えたらしく、見慣れた部員たちが、同じ方向へと歩いてゆく。
その流れに逆らう事なく、悠里も校門を出ようとした。
その時であった。
悠里の後方から、バタバタと大きな足音が聞こえてきた。
そしてその直後に、彼女の手首が、後ろにぐいっと引かれた。
彼女は、この現象に覚えがあった。
こんな事をするのは、"彼"くらいしか居ない。
「赤也?」
"彼"の名を呼び、振り返ると、特徴的なくせを持つ彼の髪が目に入った。
「よく分かったっスね!」
へへへ、と楽しそうに悠里に笑いかけた彼は、男子テニス部二年で、次期部長を務める予定の切原赤也である。
どうやら全力で走ってきたらしい。彼は、少しだけ息を切らしている。
「こんな事するの、赤也しか居ないでしょ?どうしたの、急に」
悠里がそう問うと、彼は両掌を軽く音を立てて合わせた後に、こう切り出してきた。
「センパイに、お願いがあるんすよ!」
「お願い?」
そう聞き返すと、彼は小さく頭を下げた。どうやら、本当に懇願したい内容であるようだ。悠里は、次の言葉を待った。
「俺と、試合をしてください!」
どんなお願いだろうと期待をしていた悠里は、その内容に、目を丸くした。
悠里が切原と試合をしたのは、1年前、彼がテニス部に入部して間もない頃のことだった。
三強に破れた切原は、柳に、悠里と試合をするように告げられたらしい。
悠里は、三強を始めとした男子レギュラーに比べたら強くはなかった。彼女は全国区のテニスプレイヤーではあるが、あくまでも「女子」だ。その力量はかなり違っている。
しかし、当時の切原は自分の実力を見誤っていた。
切原は当時からかなり強かったけれど、そんな精神状態の彼を悠里が倒すのは、容易い事であった。
しかし、今は違う。
彼はもう、立海のレギュラーとして、自分と正面から向き合っている。
私は、今の赤也にはもう勝てないだろう。
そう分かってはいたが、悠里は切原との試合を受ける事にした。
切原がどれくらい強くなったのか、先輩として見届けよう。そう決めたからである。
そして二人は、近くにあるストリートテニス場へと向かったのである。
──
ボールが、悠里の側のコートで二回弾んだ。
それを見た切原は、左手を強く握ると、空に向けて投げ出した。
「ゲームセット、ウォンバイ、俺っ!」
息を弾ませながら、切原はそう叫んだ。
「6―2かぁ」
悠里は、コートへと大の字になって倒れ込んだ。
「あの時は、2―6だったっスからね」
切原はそんな悠里の横へと歩み寄り、近くへと座り込んだ。
「…だから、わざと最初の2ゲーム手抜いてたの?うっわー!イヤな奴!」
そう言って切原を睨みつけると、切原は意地が悪そうに笑んだ。
「へへっ、俺を負かせたセンパイが悪いんすよ!」
反論をしようにも、今は体力がない。それに、負けた身で何を言おうが、後に虚しくなるだけである。
悠里は立ち上がり、テニスバッグの置いてあるベンチへと向かった。
制汗スプレーをかけ、水分を補給した。そして二人は、駅までの道を歩いていた。
雑談をしていた最中で、悠里はある疑問を思い出し、切原に質問を投げかけた。
「それで、何でまた試合を申し込んで来たの?」
三強と私は違うのだ。
理由がなければ、私と試合なんてしないはず。
そう思っていた悠里は、切原にそう尋ねた。
「お、良いとこに気が付きましたね」
気が付いたっていうか、最初から疑問だったんだけどね。そう突っ込もうか悩んだが、悠里は切原の言葉を待った。
切原は、不意に歩みを止めた。悠里もそれに釣られて歩みを止める。
切原をじぃっと見つめると、彼は一つ、深呼吸をして、こう切り出した。
「俺、センパイに勝てるようになったら、センパイに告白しようと思ってたんスよ」
彼は、そう言ってのけた。その内容を、悠里は、すぐに理解する事が出来なかった。余りにも、唐突であったためである。
「えっ?」
「俺、センパイの事が好きっス!俺と付き合ってください」
悠里の目をしっかりと見つめ、真面目な調子で、切原はそう言いはなった。
「え、えええええ!?」
悠里は、漸く切原の発言を理解した。
理解はしたが、やはり驚きを隠す事は出来ない。
「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃないすか」
切原は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「だ、だって、急展開すぎて。赤也、そんな素振り、全く見せなかったし」
「少なくとも、部長とか柳センパイとか涼香のヤツは気付いてたっスよ」
「マジですか」
心中に溜めてあるあらゆる感情を発散するためか、悠里は、俯いて、あー、だの、うー、だのとどもっていた。
「それで、返事、聞きたいんスけど」
切原が返事を急かすと、悠里は漸く視線をあげた。
そして、自身の手を切原と自分の視線の間へと差し出した。
切原の視界に、悠里の小さな掌が映った。
「ちょっと待って!」
そう言われた切原は、まるで犬のように制止した。
「赤也は私にとって可愛い後輩で、それ以外にどうこうなるって考えた事は、ないんだよね」
彼女はまだ落ち着いて居ないのか、一気にそうまくし立てた。
「じゃ、今ちょっと考えてみて下さいよ」
そう切原が言い放つと、彼女は頭を抱え込んで、うーんとうめき声をあげた。
「じ、時間を下さい。今すぐ答えは出せない」
切原の目を見てそう言うと、しょーがないっすね、と言って、彼は笑った。
「んじゃ、来月の、俺の誕生日に、答えを聞かせてください。それまで待ちますよ」
「わ、分かった」
悠里の返事を聞くと、切原は歩みを再開させた。
悠里はまだぼんやりとしていたが、慌てて切原の後を追うように、歩んでいった。
悠里は先ほどのように会話を弾ませようと思い、話題を探すが、なかなか見つけられずに居た。切原も、気まずさからか同様の状態であった。
漸く切原に聞きたい事が色々と出てきたが、上手く優先順位を付けられない。
そうこうしている内に、二人は駅へと辿り着いてしまった。
切原は上り、悠里は下りを使う。故に、使う電車もホームも違うため、改札をくぐった後に解散となる。
改札をくぐった後、悠里は切原に挨拶だけでもしようと思い、切原の名を呼ぼうとした。
しかし、先手を切ったのは、切原の方であった。
「今日は、すみませんでした!明日からは、ちゃんといつもみたいにするんで!」
そう言って軽く頭を下げる彼を、悠里はただ見つめていた。
「んじゃ悠里センパイ、お疲れっす!」
「あ、うん。お疲れ!」
そう挨拶を交わすと、二人はそれぞれが登る階段へと向かった。
階段を登ると、悠里は直ぐに向かいのホームに、切原の姿を見つけた。
切原も同様に、悠里を見つけたようだ。
目があった瞬間、どくん、と鼓動が高鳴ったのを悠里は自覚した。
それを悟られぬように、切原へ向かって手を振ると、切原も大きく手を振った。
刹那、切原の方のホームに、電車が到着をした。
視界を遮られたと同時に、悠里は、挙げていた手を下ろした。
手を振った時、照れ臭そうに笑った切原は、今まで見ていた切原とは、違って見えた。
その事実に、悠里はただ驚くばかりであった。
(続く)
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